大人の恋愛の始め方

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【第2部】19.約束

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 日曜日。
 トモが朝起きると、店のオーナー兼店長から電話の着信があることに気付いた。メッセージが入っている。
 起きたら電話をくれないか、と。
 昨日は遅くまで今日の準備をしたため、帰りがいつもより遅くなり、つい寝過ごしてしまいそうになった。
 
「もしもし、影山です。お電話があったのにすみません」
『いや、こっちも夜中にごめん。寝てて当然だ』
 店長からの電話に内容に、トモは言葉を失い掛けた。
 家族が倒れたということで実家に戻らなければならないという。自分のかわりを任せられるのはトモしかいない、ということだった。
「今のおまえなら出来る」
 臨時休業でもいいが、人数のある予約分だけはキャンセルをこちらから伝えることができない。「本日貸切」にして、昼十一時半に来られるそのお客様たちだけはもてなしてもらえないか、という店長の要望だった。ギリギリまで店長は準備をしておくから、と話した。今も店にいるらしい。店長の妻も、店でデザートの準備をしているとのことだった。
「わかりました、店長、早くご実家に帰ってあげてください」
『本当に申し訳ない、彼女とデートなのはわかってんだけど……』
「いやいや、それはいいですから。自分の予定は今日でなくてもいいけど、お父さんのことは今行かないと、取り返しつかないことになってほしくないですから」
『本当にすまない』
「自分も支度して、すぐ行きますから。早く」 
 仕込みのことや、出す料理のことは昨日聞いていた。聞いて一緒に仕込みをしたわけだが、聞いていてよかったと思った。念のため、注意事項はメモをしておく、と店長は言った。
 伝言を託かったトモは、支度をすると聡子のアパートへ向かった。


 聡子の部屋を訪ねると、彼女は準備をしているところだったようで、ドアを開けると、
「あっ、もうそんな時間ですか!? 早いですね」
 と驚いた。
 朝の七時だ。それは早いに決まっている。
「あと詰めるだけですからね! もうちょっとだけ待っててくださいね」
「いや……その、聡子」
「はい」
「悪い……」
 トモの顔に、聡子は真顔になった。
「今日のことなんだけど。ごめん」
 謝るトモに、聡子はいくらか察したようだった。
 事情を話すと、聡子の表情は完全に消えた。
「ほんっとに悪い……!」
「……悪くないですよ」
 彼女は精一杯表情を作っているようだ。
「店長さんのご家族のほうが大事に決まってるじゃないですか。大事にならないといいんですけど……」
 彼女ならそう言ってくれると思っていた。
「それに、不謹慎かもしれませんけど、店長さんのかわりを任せられたなんて、すごいじゃないですか」
 思っていたからこそ心苦しい。
 こんな感情が自分にあったことも不思議だった。
「あ、ああ……そう、なの、かな」
「じゃあ早く行かないと。仕込みもあるんですよね!」
「大方の仕込みはしてる。あとは、まあ、準備しないといけないな」
「じゃ、早く早く、こっちのことはいいですから」
「あの……弁当、もう作ったんだよな」
 せっかくなら持って行ってみんなで食べるよ、とトモは提案した。
「そんな、料理人さんたちに食べさせられるようなものじゃないから」
「けど、たくさん作って……」
「いいんです! こんなの食べさせたくない!」
 聡子が叫んだ。
 思いがけず大きな声が出たことで、彼女は口元に手を当てた。
「あ、いえ……恥ずかしくて見せられるものじゃないし……。智幸さんのためだけに作ったものだし……」
「悪い……だったら、俺が昼に食べさせてもらう」
「いいです、別に。智幸さんのところ、賄いあるんですよね。これ、わたしがお昼と夜に食べますから」
「けどこんなに……」
「わたしが食べるって言ってるんです! もうほっといてください」
 聡子はヒステリックに言った。
(やっぱり、すっげえがっかりしてるよな……)
 今回こそ大丈夫だ、と言ったのに。
 しかし彼女はトモを責めることはなかった。
「本当にすまない……」
「謝る必要なんてないですから、大丈夫ですよ」
 乾いた笑いだった。いつもの喜怒哀楽の表情がない。怒りも哀しみも見えなかった。
「早くお仕事行かないと」
「お、おう……」
「店長さんのお父さん、大事に至らなければいいですね」
「……うん」
「店長さんから連絡あったら、状況教えて下さいね。お会いしたことがなくても、わたしだって心配ですから」
 聡子はトモを玄関先で見送る。
 両手で、行ってらっしゃいと手を振ってくれたが、顔には陰があった。
 頭をぽんぽんと撫でたが、やはり顔に色はない。キスをしようとしたが、すっと避けられてしまった。
 トモがドアを閉めてややあと、ドンッと激しく何かをぶつけられる音がした。
(え)
 彼女がドアに向かって何かを投げつけたと思われた。
(怒ってる……そりゃ、そうだよな……)

***

 聡子は、トモの予想通り、落胆していた。
 ぶつけようのない、怒りのような、もやもやした気持ちが溢れていた。
(せっかく、朝早起きして作ったのに……)
 ぽろぽろ涙を流す。
(仕方ないってわかってるし、納得も出来るるけど……)
 なんでいつもいつも、と聡子がは苛立つ。
 普通の恋人同士がしているようなことをしたいだけなのに。

***

 トモは忙しく働いた。
 聡子の悲しそうな顔を思い出しては、申し訳なさでいっぱいになる。
 無事に昼の営業時間を終えた。
 ひと組とはいえ八人のグループ、予めランチのコースを予約されていたので、店長と自分の仕込み、バイトの助けでなんとか乗り切れた。
 表には「都合により本日は予約のお客様のみとさせていただきます」という貼り紙をしておいたおかげで、予約以外のことは考えなくて済んだ。
 バイト二人たちに賄いを出し、自分も軽く食事をすることにした。
「トモさん、今日デートだったんじゃないんですか」
 バイトの男子学生が言た。
 男子大生一人、女子大生が一人、今日は入ってくれている。
「なんで知ってんだよ」
「いや、日曜に休み取るって初めてだなって……。彼女さんのためだろうなってのは想像ついたんで」
「まあ外れてはない」
 トモは他愛のない話をした。
「どんな彼女さんなんですか」
「女だ」
「いや、それはわかってますけど」
 男子学生のほうは、苦笑した。
「夜も頼む」
「もちろんです」
 女子大生のほうが頷いた。
(聡子と同じくらいか……)
 もうすぐ就活だと言っていたので、恐らく大学三年生、聡子の一つ年下くらいだろう。
 この二人なら、なんとなく男子大生のほうが幼い印象だな、とトモは感じた。
 
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