大人の恋愛の始め方

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【第1部】4.アルバイト

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 そこへ、聡子は思いがけない人物に出くわすことになる。
 ──トモがいた。
 着物の老人に付き添って入ってきた。足腰がしっかりした渋い身なりのいい年配の男性だ。もしかしたら老人というには失礼な年齢なのかもしれない。彼は秘書のような小ぎれいな男を従わせていた。それが──トモだったのだ。
 髪は短くなっているが、間違いない。
 そしてもう一組、スーツ姿のオールバックのいかつい男性と、これまたいかつい付き人が一緒に入って来た。
 どうやらこの二組は同じテーブルに着く様子だ。
(嘘……! あの人だ……! 間違いない……! 無事だったんだ……!)
 あれから一年半前近く経過している。
 薄暗い照明の店内で、目を凝らして見つめる。
 二度と俺の前に現れるな、声をかけるな、と言われたあの日を思い出した。
 心臓がバクバク言い出す。
(わたしだとはバレないだろうし……声かけなければ……会わなかったら大丈夫……)
 とにかく、遠巻きに眺めておこう。
 何より、彼がその後無事だったことに安堵する聡子だった。


 そのテーブルには別の女性達が付いた。
 聡子は、基本は調理や準備の裏方要員、あくまでもヘルプで、酒や料理を運んだり、指名のホステスが席を外す時の代理着席というだけの存在だった。
 トモは遠くから見つめる聡子には気付いていない。
 トモの上司と相手上司は何やら密談をしているようで、連れ同士は牽制しあっている様子だ。
(ヤクザ対ヤクザ……?)
 そういえばトモは、そういう職業だったことも思い出した。
「ミヅキちゃん、こっち来てー」
「は、はいっ」
 そちらのテーブルに構っている場合ではなかった。
 今日はヘルプに入ることにもなっており、綺麗に着飾ってもらっているのだ。
 失礼します、と聡子は別のテーブルに付いた。
「もうっ社長ったら、おさわり厳禁ですよ」
 そこの客は、先輩ホステスのドレスのスリットから手を入れ、彼女に手を叩かれていた。
「ミヅキちゃん、ちょっと席外すから、お相手してさしあげてね」
 先輩ホステスのレイナが席を外した。
 男性客の左隣に座り、
「わかりました」
 と先輩を見送った。
 聡子は言われたとおり、数分の代理を務めるためトークを始めようとした。
「おお、新人ちゃん?」
「は、はいっ」
 客の男性のほうから声がかかった。
「いくつ?」
「二十歳です」
 聡子は嘘をついた。本当はまだ二十歳になっていない。
 客の左手が聡子の太股に乗せられ、撫でられた。
(うっ……)
 耐える聡子は、何かお飲物を作りましょうか、と告げる。
「んーそうだね。水割りもらおうかな。君もどう?」
「わたしはまだ見習いなので、規定で飲むことは出来ないんです。なので提供だけさせていただいています」
 ママとボーイに、飲酒は当然止められているし、勧められても断るようにとしきりに言われている。
 腰に手を回されたかと思うと、聡子が払いのけないことを確認してからなのか、腕を伸ばして肩を抱かれた。そして今度は、さりげなくその左手の指先が胸に触れた。
「おっおっお客様、お触りはお断りしております」
「そんな堅いこと言わずにさ」
 耳元に顔を寄せて囁かれ、聡子はぞっとした。
「おお……見た目よりけっこうあるね」
 男性客は左手で豪快に左胸を掴んだ。
「君のおっぱい、形いいねえ」
 肩紐の隙間から手を侵入させると、聡子の肌に触れた。
「いっ……」
「ね、このあとどう?」
 酒臭い息がかかり、聡子は悲鳴をあげそうになる。
 おこずかいたくさんあげるよ、と言い、まずは手付けにあげるね、と右手で聡子の胸元に折り畳んだ万札を入れた。
「やめてください!」
 と立ち上がった。
 そこへレイナが戻ってきた。
 聡子は半泣きで立ち尽くす。
「社長、ダメって言ってるでしょ~。おさわり厳禁のルールを守って下さらないと、お店、出禁にしちゃいますよ。ここは楽しく美味しくお酒を飲むお店で、売春斡旋するお店じゃないの。それにこの子は見習いなんですから、そういうことは絶対ダメ」
 レイナは甘えたような声で、しかし、客にしっかり注意をした。
「おこづかいあげようとしただけだよー」
「おこづかいはうれしいけど! 社長みたいなお客さんが増えたら、うちの子、イヤになってみんな辞めちゃうんだから。だから、おこづかいは、こーっそり、お願いね」
 語尾にハートマークが付いていそうな言い方だった。
「悪い悪い。ちょっと可愛がってあげたいなって思っただけだよ? ごめんね」
 ボーイの佳祐が飛んでくると、聡子に離席を促した。
 聡子は万札を返すと、佳祐について行った。
 佳祐は黒服のような存在でもある。マネージャーでもあり、監視役でもある。黒い服を着て、店内のあちこちに目を配ってくれている男だ。
「ミヅキ、大丈夫か」
「大丈夫です、すみません……我慢できなくて」
 佳祐に向かって頭を下げた。 
「まあいい、あんな客は序の口だ。レイナみたいに、さらっとかわせるようになればいいけど、もうこれは慣れだな」
「すみません……」
「まあミヅキはヘルプだ、無茶させるなってママに言われてるし、オレもちゃんと見とけばよかった。悪かった」
「いえ、わたしがもう少し大人になるべきなのはわかってますので……すみません」
 すぐ戻ります、と聡子が言うと、佳祐も持ち場に戻っていった。
 はあ……、と聡子はため息をついた。
(よし、戻らなきゃ)
 脚がガクガクしていることに気づいた。
 強気な態度なわりに、身体と精神は怖じ気付いているのだ。
 聡子は頬を叩くと、ずれた衣装を元に戻す。
 大丈夫だと思ったが、思いの外脚が震えたままで、衣装を戻して振り向くや、人にぶつかった。
「あ……申し訳ございませんっ」
 相手が支えてくれた。
 慌てて頭を下げ、相手に視線を投げるとそこにはトモがいた。
(……!)
 トモが聡子を支えてくれたのだ。
 驚いて動きが止まってしまったが、聡子は自分が通路を塞いでいたことに気づき、咄嗟に詫びた。
「いや、こっちは大丈夫だ。そっちは? 大丈夫なのか?」
「だ、大丈夫です。申し訳ありません」
 よろける聡子の肩を掴み、再びトモが支えてくれた。
 トモは、じっと聡子の胸元を見ていた。
(な、なに……?)
「ありがとうございまいした」
 彼は化粧室に行きたかったようで、先の個室に消えていった。
(トモさん、だよね……やっぱり)
 わたしのこと覚えてるかな、いや、そもそも化けているのに気付くわけないか、と聡子は思った。自分で言うのもなんだが、昼間の自分とは大違いだ。髪の毛をひとつに束ねて、薄化粧に事務服で働いている。今の自分はというと、出来る時だけだが、くるくると髪の毛を巻いて、真っ赤な口紅、長いまつげ。身体にフィットした、胸元のあいたドレス。テレビで見たことのあるシャンソン歌手みたいだと最初は思ったほどだ。
(はは……)
 胸がズキッと痛んだ。
 声をかけたくても、無事だと知った喜びを伝えたくても、どうすることもできない。
 あの時の光景、あの時に言われた台詞を思い出し、聡子はぎゅっと目を瞑った。

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