徘徊

杜乃日熊

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徘徊

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 とある街の大通り。通り過ぎる人々は互いに無関心で、どこへともなく歩いていく。道の中央を行き交う車は、騒音と排煙を置き去りにしていく。
 秋は終わりを迎え、吹きつける風が冬の到来を予告する。寒さを過敏に感じるのは、いつもとは違う格好だからだろうか。
 ふと横を見ると、そこに服飾店のショーウィンドウがあった。華々しい女性服を着飾ったマネキンが立っている。生命力は微塵も感じないのに、女性特有の色香を放っているかのような錯覚を持った。それは偏に、僕の心を覆う黒い靄と、その出所となるこの姿が原因であった。
 マネキンの手前にあるガラスに映る自分の虚像。しかし、そこに映るのは紛れもなく真実であり、現実そのものだ。
 上は白のニットセーターで、下はワインレッドのミニスカート。健康的に筋肉の付いた脚に黒タイツとブーツを履いている。さらりと風に揺れるウィッグのライトブラウンによく映えている。首元にマフラーを巻いても、素人に毛が生えたような化粧を施した顔がはっきりと窺える。

 一瞥しただけだとなんの違和感も無いように見えるだろう。しかし、よく見てみればどこかがおかしいと思うはずだ。まるで完成された絵画のある一点が歪んで見えるような発見を得るだろう。もっと言うなら、集合写真で皆がカメラの方を向いているのに、一人だけが全く違う方向を向いていたような感覚だろうか。
 端的に言うなら、この格好は僕に全く相応しくないということだ。なぜなら、僕は男なのだから。女の子の服装を身に纏った、ごく普通の男なのだから。

         ◇

 昔から女の子に憧れていた。

 幼少の頃は性別に合った趣味嗜好を持っていたし、男として違和感の無い生活を過ごしていた。
 僕が持つ女の子像というのは、自分を着飾ることに執心し、思い出であったり秘密であったり、なんらかのものを共有したがる、といった具合だ。
 さらに言えば、清潔を好み、不潔を嫌う。同性と一緒なら華やかに、異性と一緒なら艶やかに。夢を見て妄想に耽りつつも、一方ではそれが現実には起こらないことを明確に理解している。
 そして、何よりも。一挙一動で男を惑わし、狂わせる存在なのが女の子だった。
 そんな僕は、ある日を境に女の子に対してある種の羨望を抱くようになっていた。

 小学五年生の秋、僕が彼女・・と初めて交流した日。あれ以来、女の子への憧憬が確固としたものになっていった。
 彼女の名前はミホ。大人しめの性格で、頻繁に注目を集めるような子ではなかった。その日までは、お互いに話すようなことは無かったし、大した関心も抱かなかった。だからこそ、彼女の方から話しかけてきた時は心底不思議だった。

──ねぇ、凪くん。これから、ちょっと付き合ってくれない?

 放課後の廊下。生徒の喧騒は遠くにあって、静寂と秋の涼風が支配していた。彼女の透き通る声がよく響いたことは今でも覚えている。
 なんで僕なの? と尋ねると、彼女は足元に目を遣り、

──凪くんにどうしても見せたいものがあって……。

 と体をそわそわさせて答えた。その態度になんの悪意も無く、ただ純粋に好意を抱いているのかと思った。僕は疑いを捨て、彼女の誘いを了承した。
 彼女の案内のもと、付いて行った先は学校の中庭だった。その隅の方で彼女は立ち止まった。

──これだよ。

 と、彼女が指差した先を見ると黄色い花が咲いていた。鮮明な花びらは周囲の草花より一段と際立っていた。
 それは、タンポポだった。僕は目を逸らすことなく、自然と注目していた。

──こんな時期に珍しいよね。ひとりだけ寝坊しちゃったのかな。

 そう言って彼女は、にこやかに笑った。朗らかで煌びやかなその笑顔に、僕は心を奪われてしまった。それは恋だったのかもしれない。
 だが、今となってはそれは正確ではないように思う。なぜなら当時感じたことは、目の前の子と手を繋ぎたい、抱きしめたい、といった感情ではなく、この子のようになりたい・・・・・・・・・・・という願望だったからだ。
 男が持つことの無い可憐なる魔力。男を魅了し、虜にしてしまうその笑顔が羨ましいと思ったのだ。
 これほどまでに愛おしいものがあっただろうか。僕と同じ歳のあどけないクラスメイトは、ガラス細工の如き美しさを秘めていた。それをこの時、思い知った。

 そうして僕は女の子への憧れを抱き、もっと女の子のことを知りたいと思うようになった。その手段として考えたのが女装だった。女装をすることが、自分の中にある卵の殻を破ってくれるような気がした。そして、卵の中から新たな自分が生まれるのではないかという期待があった。
 外へ出るまでにも、何回か自室で女装を試してきた。不器用ながらも女の子に近づいた自分が鏡の向こうにいた。普段と違う自分の姿に悦に浸っていたのは否めない。
 だが、それは自惚れでしかなかった。変化を期待する心は見事に打ち砕かれてしまった。

         ◇

 そういえばミホちゃんはどうしてるんだろう。中学校に上がってからはあまり話す機会が無くなったし、それ以来疎遠になったもんなぁ。元気にしてるといいな。それにしてもスカートの下ってこんなに寒いんだね。ヒラヒラとで、落ち着いて歩くことも出来ないよ。女の子はお洒落一つとっても苦労が絶えないんだなぁ。ハァ、風が冷たければすれ違う人の視線も冷たいよ。やっぱり女装なんて気持ち悪いだけなのかな。けどテレビの中では、男の人が女装しても、誰も悪い風に言わないじゃないか。確かに「キモチワルーイ」なんて言葉を投げかけてはいるけど、それは愛ある冗談というか軽口みたいなものでしょう。それなのに、街中にいる女装野郎のことは皆して見下すんですかそうですか。あ、またあの野郎こっちを見た。さっきからチラチラ見てるけど、バレてるからね。何か文句があるなら正々堂々と言ってきたらいいじゃん。まぁいいや、言い出したらキリがないし。確かに僕なんかが女装をしようだなんておこがましいのかもしれないよね。プロレベルの人と比べれば素人丸出しで、見るに堪えないでしょうね。けど、それは別に人の迷惑になるようなことじゃないじゃん。この程度の些事、まぁ実際は大きいことなんだけど、これぐらいでトヤカク言う方が器の大きさ的に問題があるんじゃないの? 視界に入るだけで罪になるというのなら、大半の人間なんて外を出歩けないよね。自分のことを棚に上げておいて、調子に乗らないでほしいよ!

 心の中ではいくらでも強気になれる。しかし、いざ他人と話すことになると、途端にその気持ちは空気が抜けた風船のように萎んでしまう。空へ飛び立つことも破裂して溜まったモノを放出することも叶わず、やり場の無い思いは心中へ沈殿していく。
 また一風吹く。その冷気が僕の昂りを強制的に鎮めていった。風さえも僕を否定ひているかのように感じる。

 一人、また一人とすれ違っていく。投げかけられるのは、奇異、侮蔑、揶揄といった感情。それらを受ける度に、徐々に暗雲が僕を覆っていった。
 これから何をすればいいのかが分からない。これまで何をしようとしていたのかも分からない。周囲の人は僕に何をしてほしいのかも分からない。ないない尽くしの現状に、思わず涙腺が緩みそうになり──

「あの~、すいません」

「ひゃい!?」

 突然かけられた言葉に、僕は身を震わせる。声は斜め後ろから聞こえた。そちらに視線を遣ると、女性が立っていた。見た目で言えば二、三歳上だろうと思われる。ゆったりとしたグレーのコートを羽織り、細身なライトグリーンのパンツを穿いた、いわゆるフェミニン系の格好をしている。服は卸したてのようで、皺が一つもない。
 また、女性の瞳は円らで、黒い真珠を思わせる。その煌びやかな輝きの中に、どことなく親しみやすさを感じる。失礼ながら、しばし無言のまま見入ってしまった。
 まじまじと見てしまったせいか、女性は少し照れくさそうにロングの黒髪を弄る。

「ごめんなさい、急に呼び止めてしまって。実は一つお願いがあるんだけど、良いかな?」

 そう言って女性は、人当たりの良さそうな笑顔で首を傾げる。胸の前では両手を重ねてお祈りのポーズをしている。
 しかし、いきなりお願いと言われても不審に思うだけだ。できれば相手の素性や人となりを知ってから、受けるか否か判断したいところなのだが──

「あ、はい。大丈夫ですよ! 特に予定とかありませんから!」

 即答で了承してしまった。異性を前にたじろいでばかりとは、やはり僕も男だったということか。年上の女性にあんなポーズでお願いなんてされれば、ほとんどの男は首を縦に振るだろう。
 また一つ女性の力を垣間見たところで、女性は「それなら良かったぁ」と徐に鞄から携帯を取り出す。

「もし君がオーケーだったら、私と一緒に写真を撮ってもらって良いかな?」

 女性から発せられた言葉は予想外のものだった。一体この僕と写真を撮ることに何のメリットがあるというのか。SNSにアップして彼女の可愛さを引き立たせるための脇役ぐらいにしか役に立たなさそうなのに。
 なんにせよ、写真を撮られるということはこの僕の痴態を半永久的に保存されるということだ。女装は習慣にするつもりもなく、脳内の奥底に沈めればいずれ風化する。だが、写真で残してしまえばいつでも僕の羞恥を引き出すことが出来てしまう。それは是が非でも止めないと──

「あ、はい。全く問題ありません!」

 口は僕の思い通りに動かなかった。今の僕はおおよそ理性が稼動停止しているのかもしれない。ただただ自分自身にドン引きした。女性経験が圧倒的に乏しいことを公衆の面前で明らかにしてしまったのだから。

「フフッ。可愛い反応するね、キミ。それじゃあ失礼するよ~」

 女性は近づいてきたかと思うと、僕の真横に並んだ。肩と肩が触れ合うほどの近距離。接触した箇所が熱くなって溶けるのではないかと心配になる。
 携帯を手前にかざし、パシャリと一枚。上手く写真を撮れたか気が気でない。笑顔がぎこちなかったことは自覚していた。

「おぉ、良い感じに撮れてるね。ほらほら~」

 女性から差し出された携帯の画面を覗く。そこには、満面の笑みを浮かべる女性と、控え目に笑う女装野郎が写っていた。恥ずかしさよりも先に、申し訳ないという思いが込み上がる。

「……あの。なんで僕と写真を撮ろうなんて言ってくれたんですか? こんな見た目なのに」

 おずおずと尋ねると、女性は僕を見つめて、

「その見た目が良かったからだよ。キミ自身は分かってないのかもしれないけど、とても可愛いよ? 私は可愛いモノを見ると、つい写真に収めたくなっちゃうんだ。気付けばフォルダに何百枚も入ってたりするぐらいだし。その私が可愛いって言うんだから間違いないよ、うん!」

 力強く答えてくれた。「可愛い」というその一言がとても心に響いた。本来なら男を形容するのに相応しくない言葉だろう。しかし、今の僕は女の子の格好をしている。女の子を理解するため、女の子になりきろうとしていた。「可愛い」という言葉は、つまるところ僕を認め、僕の理想を肯定してくれたのだ。女性は意図的に発したものではないだろうが、それが堪らなく嬉しかった。暗闇のトンネルの中を走る電車のライトが、黒い空間を打ち消していくような心地がした。

「あ……ありがとうございます。そんなことを言ってくれた人は、初めてで……!」

「あれ、うっそナンデ!? 何で泣いてるの! 私、何か悪いことでもしたかな?」

 女性が慌てふためくのを横目に、僕は落涙していた。涙とともに、心中に溜まった沈殿物が止めどなく流れ出ていった。
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