聖女の救済

杜乃日熊

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エピソード1

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 その夜は静謐に満たされていた。雲一つない夜空には満天の星が煌めいており、鳥も獣も虫も、皆一様に息を潜めている。
 ある所に廃墟が建っていた。おそらく貴族か何かしら身分の高い者達が住んでいたであろう煉瓦造りの城だが、今では不当に占拠する輩の住処と化している。その中の一室に、現在の主人が床に就いていた。キングサイズのベッドに、もう一人の家来とともに横になっている。二人してシーツにくるまっている様はまるで小さな山のようだ。その山がもぞもぞと動く。荒い吐息も聞こえてくる。

「ハァ……ハァ。もっと、もっと強くっ」

 女の求める声に応じて、さらに動きが激しくなる。その勢いの強さに、ベッドまでもが小刻みに揺れ動く。一層荒くなる吐息。振動はしばらく続いた。

「アッ…………ダメッ。もう、耐えらんない!」

 女が悶える。それを好機と見たか、なおも激しく揺れ動く山。トドメをささんとばかりに動き続けて、そして────

「アァッ! ウゥ、ハァハァ……」

 振動は収まった。後は女の脱力した声が漏れ出るばかり。事を済ませた家来は、シーツから半身を出して女の上から退いた。露わになったのは、所狭しと傷が付けられた筋肉質な体だ。傷跡は新しいものから古いものまであり、その者の過酷な生き様が窺い知れる。
 家来は何も言わず、隣で横たわっている己が主人を見つめている。やがて主人は体を起こす。シーツがずり落ちて、豊満な双丘とくびれある体躯が惜しげもなく晒される。傷一つない柔肌に、艶やかな金色の髪が月光に照らされる。澄んだ蒼い瞳が家来を捉え、そして柔和な笑顔を浮かべる。

「レヴィのテクニックがだんだん上手くなってる気がするわ。おかげでもうクタクタになっちゃった」
「それは恐縮です」

 鈴の音のような声の後に、低音の返事が交わされる。主人は細やかな指で家来の体を撫でていく。筋肉のシワをなぞるように、ゆっくりと焦ったく。家来はわずかに体を震わせる。

「貴方もどんどん成長していくのね。それはとても喜ばしいことなんだけど、それと同時に寂しくもあるわ。子供の成長を見守る親の気持ちってこういうものなのかもね」

 主人の視線が下へ落とされる。その憂いげな表情があまりにも絵になっていて、家来は思わず息を呑む。妖艶、あまりにも妖艶なり。所作一つで男の心なぞいとも容易く弄ばれることだろう。

「ねぇ、レヴィ。貴方がこのまま成長していったら、私の下から離れていっちゃうの? そしたら私、独りぼっちになってしまうわ。そんなの嫌だ」

 甘えるような猫撫で声。言葉の一つ一つが家来の心に浸透していく。家来は静かに唾を呑み込む。家来を見据える上目遣いの瞳から目が離せなくなる。湧き上がる動悸を抑えるため、家来は呼吸を整える。

「貴女の傍から離れたりいたしません、マイマスター。この身は貴女のモノだ。貴女の意思無くして、一人勝手に生きようなどとは思いません」

 家来の答えに満足がいったのか、主人はにこやかに笑う。まるで子供がおもちゃを貰ったかのように無邪気な笑顔を浮かべる。

「良かった。あ、でも一つだけ訂正して。夜の間は『マスター』って呼ぶのは禁止にしたはずよ。今はルチアって呼んでよ、ね?」
「承知しました。ル、ルチア……様」
「もう、様付けも要らないっていうのに。しょうがないわね」

 それから主人は思い切り良く家来の胸に飛び込む。家来は踏ん張りを効かせることができず、勢いのままベッドへ倒れる。主人は己が胸を遠慮なく家来の体に押し付ける。また、両手は家来の頬に添えられる。主人と家来は見つめ合う。

「これからもずっと一緒にいてね。約束よ」
「ええ、これからも永劫にお供いたします。ルチア様」



 そうして時が過ぎていき、やがて朝を迎えた。鳥のさえずる声を目覚まし代わりに、主人、ルチアは起床する。もう一人の家来、レヴィはすでに起きていたようで、身支度を済ませている。身に纏う黒い燕尾服がいかにも似合っていた。

「おはよう、レヴィ。今日もいい天気のようね」
「おはようございます、マスター。はい、大変見事な晴天にございます」

 ルチアがベッドから降りると、レヴィはすぐさまルチアの着替えを持ってくる。「ありがとう」とルチアは受け取ると、無垢な体の上に服を着る。足首まで隠れるほどの丈の白いローブだ。
 着替えを済ませて、洗顔やら何やらと身支度を済ませる。女性の身支度は何かと時間がかかるものだが、それにレヴィが口出しすることは当然ない。主人が準備を進める間に朝食を作る。レヴィの手際はとても良くて、ルチアが食卓に着く頃にはすでに膳立てが終わっていた。
 今日のメニューは、ライ麦パンにカットベーコン、さらにキャベツや玉葱に人参を入れたスープだ。ルチアは席に着くと、顔の前で十字を切る。それから食事を始める。レヴィはルチアの後方で直立姿勢をとっている。まさに従者の鑑だ。
 ルチアはベーコンを噛み切る。その動作には品があって、とても絵になる。テーブルマナーはもちろん守られており、食事を摂る姿は貴族よりも上品に見えた。それを見守るレヴィは、表には見せずとも内心でルチアに見惚れていた。
 食事を終えたルチアは、レヴィの方を見遣る。

「今日も美味しかったわ。ありがとう、レヴィ」
「いえ、大変もったいなきお言葉を頂戴しまして、至極恐悦の極みにございます」
「ふふ。もっと素直に喜んでいいのに」
「いえ、失礼な振る舞いをお見せするわけには参りませんので」
「まぁいいわ。それよりも、今日の手はずは整っているのかしら」
「ええ。十全に済ませてあります」
「そう。それじゃ、計画通り三時課に出発しましょう」
「承知しました。マイマスター」

 それから二人は、武器庫へ向かう。中は剣や盾に鎧、槍や弓矢など多種多様な武具が揃っている。だが、ルチアは迷うそぶりを見せず、室内のある所まで進んで立ち止まる。その目前には、一体の人形が飾られていた。人形にはチェーンメイルと鉄製の額当てが掛けられており、腰回りには腰布が巻かれている。その傍らにある机の上には、三尺程度の鉄槍が置かれていた。先端の穂の部分は十字を象っている。
 ルチアは身に纏ったローブを脱ぎ捨てると、保護用の下着へ着替える。それから武具を装着していく。一方、レヴィは数ある武器の中からメリケンサックを手に取った。実際に指に嵌めて、感覚を確かめる。
 二人ともに準備を整え、最後にルチアが槍を持ち上げる。

「さぁ、それでは殲滅しに行きましょう。人類に仇なす、悪しき鬼どもの元へ」

 そして、二人は城を出発する。己が使命を果たすために。
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