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序章

望郷の夢

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「ただいま、お母さん!」


 元気よく扉を開けた少年に、お母さんと呼ばれた女性はゆっくりと振り返る。動きやすいように、腰まで伸びる美しいブロンドをきつく頭の上で束ね、洗いたての清潔な青いエプロンを身に纏う彼女を、少年は世界で一番美しいと思っている。彼女はごとん、とアイリッシュ・シチューの入ったポットをアーガクッカーの上に置くと、泥まみれにして部屋に入ってきた少年を、嫌な顔一つせずに両の腕で抱きとめる。その腕は細さに比例せず、優しく力強い。雪白の肌からは、大地の香りがした。

「おかえり。今日は随分と嬉しそうじゃないか」

女性にしては低いハスキーな声色は、それでいて柔らかい。母親の問いかけに大きく頷き、少年は瞳を輝かせながら街での出来事を語る。

「今日は沢山野菜が売れたんだ!ほら、みて!!」

 革袋から取り出されたコインを見て、思わず目を丸くする。その枚数は、目測だけでもいつもの収入の三倍に近い。彼女は、少年の頭を撫で褒めながらも少しの不安を浮かべて声を発した。

「おまえ、これ、どうしたんだい?」

「あのね、あのね!いつもだと、大きい声出しても、他の大人の人に負けちゃって…気づいてもらえなくて…母さんの作る野菜はいつだって形も良いし、美味しいのに…手に取ってもらえなくて…だから、僕、考えて…、」

 しどろもどろに言葉を紡ぐ少年の頬を優しくなでて、彼女は続きを促す。少年はその指に安堵し、にぱっと笑顔を浮かべる。

「演技を、してみたんだ!」

「演技?」

「そう!この前見た道化師の役を演じながら、呼び込みをしたんだ!!そしたら大盛況で!!」

 野菜のお金も多めにくれた!!!キラキラと笑う、少年の笑顔につられて彼女も笑顔になる。少年の泥まみれの顔をエプロンで拭いながら、ぽつぽつと白い湯気を吐き出すシチューに目を向ける。

「壁にぶち当たった時、自分で考え、行動をする。それが生きる上で一番大切なことだ。よくやったね。今日はご馳走をつくろう」

「やったー!ご馳走ご馳走―――っ!!」

「その間にシャワーを浴びて着替えておいで。疲れただろう?」

 この時期のこの地域はいつでも雨が降っている。濡れた衣服が少年の体温を奪ってしまわぬ様に、と優しい母親はピン、と少年のおでこをつついた。はぁい、とニコニコと返事をしながら駆けていく少年を見送りながら、パイ皿を用意する。

少年の大好きなシェパーズ・パイを作るのに、オーブンは十分温まっている。アイリッシュ・シチューを作った残りのラム肉を包丁で叩いて挽肉にし、腐るほどあるジャガイモと人参を少し煮込んで肉と一緒に皿に盛る。そこにマッシュポテトをふんだんに乗せて、温まったオーブンに入れるだけ。それほど時間はかからないだろう。

カチカチに固まったブロートフェンをミルクと作り置きのカスタードと混ぜてパンプディングを作る。このパンプディングが絶妙においしくて、デザートに出ると少年が飛んで喜ぶことを、母親は知っている。

「ついでに、紅茶でも淹れようかね」

 ミカンの香るアールグレイにたっぷりとミルクと砂糖をいれた甘くて温かい紅茶が、濡れた少年の体に染み入ることを思い描きながら、彼女は準備を進める。

この温かさはアーガクッカーから吐き出された熱のお陰だけではないと確信していた。

がくん、と浮上する視界に追想の乖離を察知する。全ての記憶の中での幸せな時間が、あの日々であったことは、酷く納得できるものであるが、何故、この記憶を忘却してしまっていたのか。触れた暖かな時間は、優しく、死にゆく者にはあまりにも残酷だ。それでも、一度廻り始めたフィルムは、スクリーンに映し出され、観客を逃さない。紅茶色に染まった古い物語が、動き出す。

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