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第20章 不安と胸騒ぎ
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「薬、いらんかえー。」
薫は薬箱に大量の石田散薬を詰め込んで、陸援隊の屯所がある白川の通りを歩いていた。
つい一週間前、賄方として台所で働いているところに突然、山崎がやってきて仕事を頼まれた。
どうやら陸援隊に潜入している隊士がいるから、その男から毎日手紙を受け取ってほしいということらしい。
山崎の協力者である、髪結いの家の2階を間借りして、そこを拠点に毎日薬を売りさばく。
近頃は「ええじゃないか」という踊りで道をふさぐ連中もいるから、商売自体あまり芳しいものではなかったが、毎日顔も知らぬ男から手紙を渡される仕事だけは欠かさない。
受け取った手紙は、放蕩息子のなりをした山崎が髪結いに訪れるのに合わせて渡していた。
「お里はん、その恰好も板についてきはりましたな。」
山崎は、薫の顔を見るたびに何か言わないと気が済まないのか、からかってくる。
「あら、権兵衛はんも素敵なお召し物やわぁ。」
薫も山崎の嫌味に負けじと言い返す。
「お二人とも仲良しおすなぁ。」
髪結いの亭主、又助は笑いながら山崎の髪を梳く。
「仲良しなんかあらへん。」
「けったいなこと言わんと、早よ艶文渡しなはれ。」
はいはい、とため息をつきながら小袖に忍ばせた、手紙を山崎に渡す。
「あんたのどこがええんやろか。」
又助は、薫と山崎の正体を知らない。
放蕩息子とその腐れ縁くらいにしか思っていない。
こうして毎日山崎が訪れるのは、放蕩息子が入れ揚げる女とのとりなしを薫にお願いしているからだ、くらいにしか思っていない。
そうしなければ、万が一、薫やヤマサキの正体がバレた時に髪結いの又助の命に関わるからだ。
知らなくていいことは知らない方が良いというのが、山崎の任務の方針だった。
「お里はんがおりながら、他の女に手を出すなんて、権兵衛はんも隅に置けまへんな。」
「お里は、物の数にも入らへんよし。」
覚えとけよ、と薫が拳を握ったことに、山崎は気づいていない様子で上機嫌で髪結いを後にした。
その翌日。
決まった時間に白川の屯所の前を通り過ぎても、例の男が現れなかった。
少しだけ声を大きくして、屯所の門前を歩いてみたが、誰かが出てくる様子はなく、薫はその場を過ぎ去るほかはなかった。
まさか、男の正体がばれたか。
ばれたとしたら、あまりここら辺に長居をしない方が良い。
髪結いの又助のところからも早々に撤収しなければ、と歩きながら別のことを考えていたからか、目の前から歩いてくる奇妙な男に気づかなかった。
気づいた時には、もう薫の両肩は男に強く掴まれていた。
「お里さんやないかえ。」
「あ、貴方は…さ。」
坂本龍馬、と思わず口にしようとしたとき、坂本の人差し指が薫の口元に添えられた。
「才谷梅太郎ぜよ。」
下関で一度、そして京の街で一度遭遇しただけだったが、坂本は顔を覚えていたのか懐かしそうに笑顔を浮かべている。
「よく覚えてらっしゃいましたね。」
「可愛い女子の顔は、忘れんき。」
ふふ、と笑う坂本の目じりには深いしわが寄っていた。
確か、坂本にはお龍さんという立派な奥さんがいたと記憶している。
気が多いのか、誰にでもお世辞を言っているのか分からないが、記憶が良いのだけは確かなようだ。
「ちょうど慎太郎もおるき、会っていかんがか。」
遠慮しますと言いたかったが、坂本は薫の返事を聞かぬままに薫の腕をがっしりと掴んで、白川の屯所の門をくぐった。
慎太郎…?
誰のことを指しているのか、薫には覚えがなかった。
山口で会った、土佐訛りの男は確か石川誠之助という名前だった。
慎太郎という名前の男は、思い当たる人間がいない。
「あ、ちょっと。私、会うとは言ってませんよ。」
「なんや、会いたくないがか。」
「いや、そうじゃなくて。」
「ほいじゃあ、行くぜよ。ああ見えて、慎太郎も会いたがっちょったき。」
屯所の中は戦支度が整えられており、最新鋭の銃や大砲があちこちに揃えられていた。
任務の詳細を聞かされていなかったが、恐らくこれらの装備は薫の任務と深い関係にあるのだろう。
玄関で足を洗う暇もなく、下駄を放り投げて屋敷に上がる。
長い廊下の突き当りの部屋の障子を坂本が遠慮なく開け放つと、そこには難しい顔をした石川が座っていた。
「珍しいもん、拾うてきたぜよ。」
「お、おまんは…!」
「石川さん!」
先ほどまでの険しい表情とは打って変わって、柔らかい表情を浮かべる石川は山口で会ったときと何も変わらない好青年であった。
「確か、お里さんやったがか。懐かしいのう。」
山口から下関までの道中、石川が薬箱を背負って旅を手伝ってくれたことを思い出す。
「あの時はありがとうございました。ずっとお礼が言えないままで。」
「商いはどうぜよ。各地を飛び回りゆうがか。」
「いいえ、結局京を出たのはあの1回切りで。それからはずっと京で薬を売って暮らしております。」
「わしは1度京で会うてるき。」
「そういえば、そんなことを言って帰って来た時があったぜよ。まっことお里さんに会うてるとは思わんかった。」
京で坂本に会ったとき、薫は男装をしていて腰に刀を差していた。
あまりあの時の思い出話を深堀されては、勘ぐられてしまうと、薫は薬箱を背負って屋敷を出ようとした。
「お二人とも京にいらっしゃったのに、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。お二人ともお役目でお忙しいでしょうから、今日のところはここれで失礼いたします。」
「待ちや。折角会えたんじゃき、もうちくと一緒におらんがか。」
いやいや、いくら昔馴染みと言ってもここは敵の本陣の真っ只中。
何かのきっかけで薫が幕府方の人間だと露見すれば、それこそ戦争になってしまうかもしれない。
さっさと退散して、髪結いのことろからも撤収したい。
「いや、その…。」
「ほうじゃ、わしのところで軍鶏鍋をするき、そこにお里さんも来たらええ。」
「ええのう。軍鶏は食ったことあるがか。うまいぞえ。」
二人はのりのりで話を進めているが、薫は気が気じゃない。
「近江屋の場所は分かるかえ。」
「近江屋ですか。河原町の。」
「そこに来てくれればええき。」
不動堂村の屯所からそんなに遠いところにあるわけではない。
行きたいと気持ちは少し傾きかけたが、薫の立場で近江屋に行くことはできない。
薫は頭を左右に大きく振って、坂本の申し出を断る。
「きょ、今日は行けません。」
「そうかえ。残念じゃのう。」
坂本が本当に残念そうな表情を浮かべるので、薫はなんだかとても悪いことをしているような気分になった。
「隊長、失礼します。」
石川の部下と思しき男の声が障子越しに聞こえた。
石川の入れ、という言葉に男が障子を静かに開けて、小さな紙きれを石川に渡した。
「御面会を希望される方が来ておりますが、お連れしますか。」
「おう。知り合いじゃき、ここに通してくれ。」
「お邪魔でしょうから、私はこれで。」
薫は好機だと言わんばかりに立ち上がり、薬箱を再度背負う。
石川と坂本に深々と頭を下げて立ち去ろうとしたとき、坂本に再び腕を引かれた。
「また誘うき。」
「は、はい。」
薫は愛想笑いを浮かべて、部屋から立ち去ろうとした。
「おやおや、お取込み中でしたかな。」
「久しぶりの知り合いに会うたがじゃ。」
「間の悪い時に訪れてしまい、申し訳ありませぬ。」
面会に訪れた男の顔を見たとき、薫は頭の中が真っ白になった。
目の前で薫に微笑む男は、伊東甲子太郎だった。
その後ろに控えているのは、伊東の腹心、篠原である。
薫が伊東と顔を合わせるのは、伊東の分離直前、近藤の支度で宴を開いた時以来のこと。
あのとき、薫は伊東に恥をかかせた。
ここで伊東が、薫の正体を明かせば、薫は万事休す。
薫の背中に変な汗が伝い、心臓の鼓動が耳をつんざく。
みるみるうちに青ざめ居ていく薫の表情をあざ笑うように、伊東は微笑みを浮かべたまま、薫の方を見ている。
しかし、伊東と目が合ったのはわずか一瞬の出来事であり、伊東はすぐに薫から坂本に視線を逸らした。
「これは、坂本殿。お久しゅうござる。」
「おお、いつ以来かのう。」
中岡と坂本の関心も既に薫にはなく、伊東との話に移っていた。
薫は息を吸う間もなく、白川の屯所を後にした。
薫は薬箱に大量の石田散薬を詰め込んで、陸援隊の屯所がある白川の通りを歩いていた。
つい一週間前、賄方として台所で働いているところに突然、山崎がやってきて仕事を頼まれた。
どうやら陸援隊に潜入している隊士がいるから、その男から毎日手紙を受け取ってほしいということらしい。
山崎の協力者である、髪結いの家の2階を間借りして、そこを拠点に毎日薬を売りさばく。
近頃は「ええじゃないか」という踊りで道をふさぐ連中もいるから、商売自体あまり芳しいものではなかったが、毎日顔も知らぬ男から手紙を渡される仕事だけは欠かさない。
受け取った手紙は、放蕩息子のなりをした山崎が髪結いに訪れるのに合わせて渡していた。
「お里はん、その恰好も板についてきはりましたな。」
山崎は、薫の顔を見るたびに何か言わないと気が済まないのか、からかってくる。
「あら、権兵衛はんも素敵なお召し物やわぁ。」
薫も山崎の嫌味に負けじと言い返す。
「お二人とも仲良しおすなぁ。」
髪結いの亭主、又助は笑いながら山崎の髪を梳く。
「仲良しなんかあらへん。」
「けったいなこと言わんと、早よ艶文渡しなはれ。」
はいはい、とため息をつきながら小袖に忍ばせた、手紙を山崎に渡す。
「あんたのどこがええんやろか。」
又助は、薫と山崎の正体を知らない。
放蕩息子とその腐れ縁くらいにしか思っていない。
こうして毎日山崎が訪れるのは、放蕩息子が入れ揚げる女とのとりなしを薫にお願いしているからだ、くらいにしか思っていない。
そうしなければ、万が一、薫やヤマサキの正体がバレた時に髪結いの又助の命に関わるからだ。
知らなくていいことは知らない方が良いというのが、山崎の任務の方針だった。
「お里はんがおりながら、他の女に手を出すなんて、権兵衛はんも隅に置けまへんな。」
「お里は、物の数にも入らへんよし。」
覚えとけよ、と薫が拳を握ったことに、山崎は気づいていない様子で上機嫌で髪結いを後にした。
その翌日。
決まった時間に白川の屯所の前を通り過ぎても、例の男が現れなかった。
少しだけ声を大きくして、屯所の門前を歩いてみたが、誰かが出てくる様子はなく、薫はその場を過ぎ去るほかはなかった。
まさか、男の正体がばれたか。
ばれたとしたら、あまりここら辺に長居をしない方が良い。
髪結いの又助のところからも早々に撤収しなければ、と歩きながら別のことを考えていたからか、目の前から歩いてくる奇妙な男に気づかなかった。
気づいた時には、もう薫の両肩は男に強く掴まれていた。
「お里さんやないかえ。」
「あ、貴方は…さ。」
坂本龍馬、と思わず口にしようとしたとき、坂本の人差し指が薫の口元に添えられた。
「才谷梅太郎ぜよ。」
下関で一度、そして京の街で一度遭遇しただけだったが、坂本は顔を覚えていたのか懐かしそうに笑顔を浮かべている。
「よく覚えてらっしゃいましたね。」
「可愛い女子の顔は、忘れんき。」
ふふ、と笑う坂本の目じりには深いしわが寄っていた。
確か、坂本にはお龍さんという立派な奥さんがいたと記憶している。
気が多いのか、誰にでもお世辞を言っているのか分からないが、記憶が良いのだけは確かなようだ。
「ちょうど慎太郎もおるき、会っていかんがか。」
遠慮しますと言いたかったが、坂本は薫の返事を聞かぬままに薫の腕をがっしりと掴んで、白川の屯所の門をくぐった。
慎太郎…?
誰のことを指しているのか、薫には覚えがなかった。
山口で会った、土佐訛りの男は確か石川誠之助という名前だった。
慎太郎という名前の男は、思い当たる人間がいない。
「あ、ちょっと。私、会うとは言ってませんよ。」
「なんや、会いたくないがか。」
「いや、そうじゃなくて。」
「ほいじゃあ、行くぜよ。ああ見えて、慎太郎も会いたがっちょったき。」
屯所の中は戦支度が整えられており、最新鋭の銃や大砲があちこちに揃えられていた。
任務の詳細を聞かされていなかったが、恐らくこれらの装備は薫の任務と深い関係にあるのだろう。
玄関で足を洗う暇もなく、下駄を放り投げて屋敷に上がる。
長い廊下の突き当りの部屋の障子を坂本が遠慮なく開け放つと、そこには難しい顔をした石川が座っていた。
「珍しいもん、拾うてきたぜよ。」
「お、おまんは…!」
「石川さん!」
先ほどまでの険しい表情とは打って変わって、柔らかい表情を浮かべる石川は山口で会ったときと何も変わらない好青年であった。
「確か、お里さんやったがか。懐かしいのう。」
山口から下関までの道中、石川が薬箱を背負って旅を手伝ってくれたことを思い出す。
「あの時はありがとうございました。ずっとお礼が言えないままで。」
「商いはどうぜよ。各地を飛び回りゆうがか。」
「いいえ、結局京を出たのはあの1回切りで。それからはずっと京で薬を売って暮らしております。」
「わしは1度京で会うてるき。」
「そういえば、そんなことを言って帰って来た時があったぜよ。まっことお里さんに会うてるとは思わんかった。」
京で坂本に会ったとき、薫は男装をしていて腰に刀を差していた。
あまりあの時の思い出話を深堀されては、勘ぐられてしまうと、薫は薬箱を背負って屋敷を出ようとした。
「お二人とも京にいらっしゃったのに、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。お二人ともお役目でお忙しいでしょうから、今日のところはここれで失礼いたします。」
「待ちや。折角会えたんじゃき、もうちくと一緒におらんがか。」
いやいや、いくら昔馴染みと言ってもここは敵の本陣の真っ只中。
何かのきっかけで薫が幕府方の人間だと露見すれば、それこそ戦争になってしまうかもしれない。
さっさと退散して、髪結いのことろからも撤収したい。
「いや、その…。」
「ほうじゃ、わしのところで軍鶏鍋をするき、そこにお里さんも来たらええ。」
「ええのう。軍鶏は食ったことあるがか。うまいぞえ。」
二人はのりのりで話を進めているが、薫は気が気じゃない。
「近江屋の場所は分かるかえ。」
「近江屋ですか。河原町の。」
「そこに来てくれればええき。」
不動堂村の屯所からそんなに遠いところにあるわけではない。
行きたいと気持ちは少し傾きかけたが、薫の立場で近江屋に行くことはできない。
薫は頭を左右に大きく振って、坂本の申し出を断る。
「きょ、今日は行けません。」
「そうかえ。残念じゃのう。」
坂本が本当に残念そうな表情を浮かべるので、薫はなんだかとても悪いことをしているような気分になった。
「隊長、失礼します。」
石川の部下と思しき男の声が障子越しに聞こえた。
石川の入れ、という言葉に男が障子を静かに開けて、小さな紙きれを石川に渡した。
「御面会を希望される方が来ておりますが、お連れしますか。」
「おう。知り合いじゃき、ここに通してくれ。」
「お邪魔でしょうから、私はこれで。」
薫は好機だと言わんばかりに立ち上がり、薬箱を再度背負う。
石川と坂本に深々と頭を下げて立ち去ろうとしたとき、坂本に再び腕を引かれた。
「また誘うき。」
「は、はい。」
薫は愛想笑いを浮かべて、部屋から立ち去ろうとした。
「おやおや、お取込み中でしたかな。」
「久しぶりの知り合いに会うたがじゃ。」
「間の悪い時に訪れてしまい、申し訳ありませぬ。」
面会に訪れた男の顔を見たとき、薫は頭の中が真っ白になった。
目の前で薫に微笑む男は、伊東甲子太郎だった。
その後ろに控えているのは、伊東の腹心、篠原である。
薫が伊東と顔を合わせるのは、伊東の分離直前、近藤の支度で宴を開いた時以来のこと。
あのとき、薫は伊東に恥をかかせた。
ここで伊東が、薫の正体を明かせば、薫は万事休す。
薫の背中に変な汗が伝い、心臓の鼓動が耳をつんざく。
みるみるうちに青ざめ居ていく薫の表情をあざ笑うように、伊東は微笑みを浮かべたまま、薫の方を見ている。
しかし、伊東と目が合ったのはわずか一瞬の出来事であり、伊東はすぐに薫から坂本に視線を逸らした。
「これは、坂本殿。お久しゅうござる。」
「おお、いつ以来かのう。」
中岡と坂本の関心も既に薫にはなく、伊東との話に移っていた。
薫は息を吸う間もなく、白川の屯所を後にした。
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