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第20章 不安と胸騒ぎ

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その日の夕暮れ、近藤は珍しい場所を訪れていた。
主はまだ帰宅していないとのことで、中庭の小ぶりな松の木が見える客間に案内された。
茜色に染まった空が群青色に変わるころ、蝋燭の明かりを携えて男は姿を現した。
「これは、近藤先生…。私に何か御用ですか。」
切れ長の瞳に近藤の姿が映し出される。
男の近藤ですら、その瞳の美しさに目を奪われそうになる。
「伊東先生、突然押しかけて申し訳ありません。」
伊東が近藤の前に座るや否や、近藤は手をついて頭を下げた。
想定外の近藤の振る舞いに伊東はたじろぐ。
「頭をお上げ下さい。袂は分かったとはいえ、同志ではありませんか。」
「此度は折り入って伺いたき義がござって、参りました。」
「義…?」
「伊東先生はかねてより薩摩とも親交がおありと聞きます。今、薩摩が大阪に兵を集めて挙兵しようという噂も御公儀は掴んでおります。ご存じですか。」
「私は、何も知りませぬ。薩摩と親交があるといっても、うわべだけのこと。そういった込み入った事情までは探れておりませぬ。」
伊東は不敵な笑みを浮かべながら近藤の質問を交わす。
「土佐の容堂公が大樹公に政権を返上するよう建白書を提出するお話がありますが、大樹公はそれを受け入れるおつもりです。」
「なっ…。」
寝耳に水、と言わんばかりに伊東は絶句した。
大政奉還、と名づけられた後藤象二郎の論は、伊東も中岡や坂本からも聞かされていた話だった。
しかし、烈公と呼ばれた徳川斉昭の息子である、徳川慶喜が到底その案を受け入れるとは思えず、伊東は戦を覚悟していた。
薩摩は大政奉還の拒否に乗じて、勅命の下挙兵し徳川慶喜を討伐するつもりであり、御陵衛士もその一味に加わる手筈になっている。
それも、慶喜公が大政奉還を受け入れるとなれば、話は別だ。
平和裏に徳川政権を終わらせ、天子様を中心とした政権を誕生させられるのであれば、薩摩のように武力に頼る必要はない。
「大樹公の御勇断により、戦が避けられるのです。貴方のお力で、戦をせずに済むかもしれないのです。」
近藤はここぞとばかりに畳掛けた。
それは、駆け引きの苦手な近藤にしかできない説得だった。
伊東は腕を組み目を閉じたまま、押し黙った。
まるで、凄腕の剣士同士が対峙する稽古場のように二人の息遣いだけが部屋に響く。
「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり、と申します。」
「伊東殿…!」
「しかし、我らとて薩摩がいつ動くか掴めておりませぬ。土佐の中岡殿率いる陸援隊ならば、何か糸口が掴めるやもしれませぬ。」
「痛み入る、伊東殿。」
「近藤先生こそ、ようこそ打ち明けてくださいました。私のことを信じてくださっていたとは。」
「伊東殿は、私の志に共鳴して下さった同志ではござらぬか。伊東先生を疑うようなことはありませぬ。」
伊東は心の底から負けたと思った。
どんなに策で土方を上回ろうとも、近藤勇がある限り、己は新選組に勝てないのだ、と。

近藤は、その日のうちに屯所に戻り、監察方の山崎を部屋に呼んだ。
「薩摩に挙兵の動きあり。仔細を知るために、陸援隊に一人潜り込ませたい。」
「ならば新入りに中々見どころのある男が一人おります。」
「よし、山崎君に差配は任せる。」
「もう一つ、お願い事があります。」
「うむ、何だ。」
「薫はんをお貸しくだされ。」
「薫君を…?」
「陸援隊との取次に、わてらが動くよりもずっと適任でございましょう。」
近藤は腕を組み、考え込んだ。
薫は誰に頼まれたわけでもなかったが、自分の役目の合間を縫って沖田をよく看病してくれている。
今の沖田から薫を引き離せば、沖田が気落ちしてしまうのではないかと近藤は案じていた。
しかし、自分のせいで薫が大事な役目を引き受けられなかったとなれば、沖田は自らを責める。下手すれば、腹を切るとすら言いかねない。
「薫君のことを含め、山崎君に一任する。此度の任務は、日本そのものの存亡がかかっている。よろしく頼む。」
「はっ。」
山崎は頭を下げると、そのまま部屋を辞した。

翌朝、日の出ぬうちから山崎は、飯炊きに勤しむ薫の元を訪れた。
「薫はん、仕事を頼みたい。」
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