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第19章 信念と疑念
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今年の桜は何事もなく咲き誇り散っていった。
既に青々と葉を茂らせた桜の木の下で、薫は大量の洗濯物を干している。
傍らには着流し姿の沖田の姿があった。
近頃咳をすることが増えてきた沖田を心配して、土方が非番の時は大人しくしていろ、
と剣術指南の仕事から彼を外したのだ。
土方としては、大人しく布団の上で寝ていてほしいのだろうが、二十代の元気盛りの沖田にそれは酷な命令だった。
だからこうして、炊事洗濯に勤しむ薫の所にやって来て
ちょっかいを出しては時間を弄ぶことが彼の日常になりつつあった。
「桜、散ってしまいましたね。」
沖田は地面にわずかに残る桜の花びらを掬いあげて言った。
「桜はいつも私から大事な人を奪っていきます。だから、早く散ってくれてよかった。」
薫はため息まじりに呟きつつも、洗濯物を干す手を止めることはない。
「私も早く散れ、と言われているのでしょうね。」
冗談とも本気とも取れぬ、乾いた笑い声に続いて、沖田はコホンコホンと咳をした。
「そ、そういうつもりじゃ。」
「わかってますよ。ちょっとからかってみただけです。」
「もう、沖田先生…勘弁してください。」
遠くを見つめ寂しそうに笑う沖田を見たとき、薫の心臓は何者かに鷲掴みされたような感覚に襲われた。
こんな儚い笑顔がこの世で他に誰にできるだろうか、と薫は大げさではなく、率直にそう思った。
今までだって、何度も命をやり取りしてきた彼にとって、明日の命なぞ露も惜しくはないはずだ。
なのに、どうしてこんなにも切ない顔をするのだろうか。
薫はそれ以上沖田を見ることはできなかった。
彼のあんな表情は二度と見たくなかった。
「薫に総司じゃないか。二人して花見でも楽しんでいるのかい。」
相変わらず無邪気な藤堂が二人の間に割って入って来た。
薫の足元には藤堂の行李が置かれている。
「藤堂先生…。」
今年の桜は誰の命も奪いこそしなかったが、長年の同志との別れを誘った。
年明け直ぐに西国遊説で飛び回っていた伊東は、御陵衛士という新たなお役目を携えて京に帰って来た。
先の帝の御陵をお守りしつつ、不穏な動きを見せる薩長に睨みを効かせるという大義名分の前に、
土方にも近藤にも反論の余地を与えなかった。
「そんな寂しい顔するなよ。狭い京のことだから、顔を合わせることもあるだろうし。」
今にも泣きそうな薫の顔を見かねて、藤堂は慰めるように言った。
藤堂はまた会えると思っているようだが、土方から事の子細を聞いている薫はあまり楽観的になれなかった。
伊東一派に引き続いて離反する者を出してはならぬ、と考えた土方は
御陵衛士と新選組の間での人の行き交いを禁じた。
だから、表立って藤堂や齋藤と会うことは許されない。
藤堂だって、その取り決めを知らないはずはないのだが、
それでも明るく振る舞おうとするのは彼の生まれ持った人柄のせいだろう。
「俺は、自分の選んだ道に何一つ後悔はしていない。」
藤堂の横顔に、山南の表情が重なる。
「あのとき、試衛館の門を叩いたことも伊東先生を新選組にお誘いしたことも。
そして、新選組を離れて、伊東先生についていくことも。」
「山南先生も、同じようなことをおっしゃっていました。」
藤堂は笑い声を上げて、そうかもしれないねと答えた。
「あの時の山南さんも今の俺も似た心境にいるのかもしれない。
山南さんは、近藤先生を裏切ることができなかった。
俺だって、近藤先生にとても恩を感じているけど、信念を曲げることはできない。」
「詭弁です。」
それまで黙っていた沖田がわずかに怒りを含めて言った。
「誠を貫けぬのなら、死ぬだけだ。」
「人はそんなに強くない。」
「近藤先生に恩義を感じているなら…」
「ご公儀の腐敗は、手の施しようのない所まで来ているんだ。」
温和な藤堂には珍しく、強い口調で沖田の言葉を遮った。
「近いうちに、新しい世が訪れる、伊東先生の目指されている世が。」
藤堂の目に一片の曇りもない。澄んだ、美しい瞳だ。
「もしかしたら、刀を交える日が来るかもしれないですね。」
「総司には叶いっこないから、俺は逃げるよ。
でも、死ぬのなら、総司がいい。」
藤堂はやはり屈託のない笑顔で笑った。
「先に死んだら承知しませんからね。」
沖田も藤堂につられて笑う。
「それまでには、体調を整えておいて。」
話している内容は物騒なのに、不思議と二人の間に流れるのは温和な空気だった。
それはきっと、長い間苦楽を共にしてきた、二人の信頼から来るものなのだろう。
薫は黙ってそれを見守った。
「そろそろ行くね。薫も、達者で。」
「藤堂先生もお体にお気を付けて。」
薫は行李を背負って出口へ向かう藤堂に、深々と頭を下げて見送った。
藤堂の姿が見えなくなり、洗濯物の仕事に戻ろうと振り返ったとき、桜の木の下に沖田の姿は既になかった。
既に青々と葉を茂らせた桜の木の下で、薫は大量の洗濯物を干している。
傍らには着流し姿の沖田の姿があった。
近頃咳をすることが増えてきた沖田を心配して、土方が非番の時は大人しくしていろ、
と剣術指南の仕事から彼を外したのだ。
土方としては、大人しく布団の上で寝ていてほしいのだろうが、二十代の元気盛りの沖田にそれは酷な命令だった。
だからこうして、炊事洗濯に勤しむ薫の所にやって来て
ちょっかいを出しては時間を弄ぶことが彼の日常になりつつあった。
「桜、散ってしまいましたね。」
沖田は地面にわずかに残る桜の花びらを掬いあげて言った。
「桜はいつも私から大事な人を奪っていきます。だから、早く散ってくれてよかった。」
薫はため息まじりに呟きつつも、洗濯物を干す手を止めることはない。
「私も早く散れ、と言われているのでしょうね。」
冗談とも本気とも取れぬ、乾いた笑い声に続いて、沖田はコホンコホンと咳をした。
「そ、そういうつもりじゃ。」
「わかってますよ。ちょっとからかってみただけです。」
「もう、沖田先生…勘弁してください。」
遠くを見つめ寂しそうに笑う沖田を見たとき、薫の心臓は何者かに鷲掴みされたような感覚に襲われた。
こんな儚い笑顔がこの世で他に誰にできるだろうか、と薫は大げさではなく、率直にそう思った。
今までだって、何度も命をやり取りしてきた彼にとって、明日の命なぞ露も惜しくはないはずだ。
なのに、どうしてこんなにも切ない顔をするのだろうか。
薫はそれ以上沖田を見ることはできなかった。
彼のあんな表情は二度と見たくなかった。
「薫に総司じゃないか。二人して花見でも楽しんでいるのかい。」
相変わらず無邪気な藤堂が二人の間に割って入って来た。
薫の足元には藤堂の行李が置かれている。
「藤堂先生…。」
今年の桜は誰の命も奪いこそしなかったが、長年の同志との別れを誘った。
年明け直ぐに西国遊説で飛び回っていた伊東は、御陵衛士という新たなお役目を携えて京に帰って来た。
先の帝の御陵をお守りしつつ、不穏な動きを見せる薩長に睨みを効かせるという大義名分の前に、
土方にも近藤にも反論の余地を与えなかった。
「そんな寂しい顔するなよ。狭い京のことだから、顔を合わせることもあるだろうし。」
今にも泣きそうな薫の顔を見かねて、藤堂は慰めるように言った。
藤堂はまた会えると思っているようだが、土方から事の子細を聞いている薫はあまり楽観的になれなかった。
伊東一派に引き続いて離反する者を出してはならぬ、と考えた土方は
御陵衛士と新選組の間での人の行き交いを禁じた。
だから、表立って藤堂や齋藤と会うことは許されない。
藤堂だって、その取り決めを知らないはずはないのだが、
それでも明るく振る舞おうとするのは彼の生まれ持った人柄のせいだろう。
「俺は、自分の選んだ道に何一つ後悔はしていない。」
藤堂の横顔に、山南の表情が重なる。
「あのとき、試衛館の門を叩いたことも伊東先生を新選組にお誘いしたことも。
そして、新選組を離れて、伊東先生についていくことも。」
「山南先生も、同じようなことをおっしゃっていました。」
藤堂は笑い声を上げて、そうかもしれないねと答えた。
「あの時の山南さんも今の俺も似た心境にいるのかもしれない。
山南さんは、近藤先生を裏切ることができなかった。
俺だって、近藤先生にとても恩を感じているけど、信念を曲げることはできない。」
「詭弁です。」
それまで黙っていた沖田がわずかに怒りを含めて言った。
「誠を貫けぬのなら、死ぬだけだ。」
「人はそんなに強くない。」
「近藤先生に恩義を感じているなら…」
「ご公儀の腐敗は、手の施しようのない所まで来ているんだ。」
温和な藤堂には珍しく、強い口調で沖田の言葉を遮った。
「近いうちに、新しい世が訪れる、伊東先生の目指されている世が。」
藤堂の目に一片の曇りもない。澄んだ、美しい瞳だ。
「もしかしたら、刀を交える日が来るかもしれないですね。」
「総司には叶いっこないから、俺は逃げるよ。
でも、死ぬのなら、総司がいい。」
藤堂はやはり屈託のない笑顔で笑った。
「先に死んだら承知しませんからね。」
沖田も藤堂につられて笑う。
「それまでには、体調を整えておいて。」
話している内容は物騒なのに、不思議と二人の間に流れるのは温和な空気だった。
それはきっと、長い間苦楽を共にしてきた、二人の信頼から来るものなのだろう。
薫は黙ってそれを見守った。
「そろそろ行くね。薫も、達者で。」
「藤堂先生もお体にお気を付けて。」
薫は行李を背負って出口へ向かう藤堂に、深々と頭を下げて見送った。
藤堂の姿が見えなくなり、洗濯物の仕事に戻ろうと振り返ったとき、桜の木の下に沖田の姿は既になかった。
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