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第18章 幸せの定義
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食事の度に幹部の揃う大部屋に三人の姿はなかった。
代わりに、土方から三人の部屋に食事を運ぶように命じられた。
どうやら三人は数日間の謹慎で済んだようだ。
一介の隊士である自分がその理由を尋ねることは出過ぎた真似であるような気がして、
薫は土方の命令に黙って頷いた。
「齋藤先生、お食事をお持ちしました。」
伊東、永倉の両名に食事を運んだあと、最後に食事を届けたのは齋藤だった。
入れ、という声が聞こえた後に障子を開けた先には書に耽る齋藤が座っていた。
他の幹部に出したお膳と同じお膳を齋藤の横に静かに置いた。
「かたじけない。」
齋藤はお膳を一瞥すると再び所に視線を落とす。
「齋藤先生、あの…。」
薫が勇気を振り絞って齋藤に声を掛ければ、齋藤は薫の方を向いて、何だと答えた。
「いえ、やっぱり何でもないです。」
「言いたいことがあれば言え。」
齋藤は書をめくる手を膝に置いて言った。
「どうして、伊東先生について行ったんでしょうか。」
「どういう意味だ。」
「てっきり、齋藤先生は副長の味方だと思っていたので。」
「飲みに誘われ、断る理由がないから行った。ただそれだけだ。」
「そ、そうですよね。あの、忘れてください。失礼しました。」
薫は畳に手をついて頭を下げると、そのまま部屋を出ようとした。
しかし、齋藤が不意に立ち上がり開けっ放しだった障子を閉めたことで薫の退路は断たれた。
「伊東は隊を離れるつもりだ。」
「それは…。」
局を脱するを許さず―。
それは正真正銘法度破りの行いである。
「近々、伊東は諸国見聞と称して九州に発つ。」
「そんなこと、副長がお許しになるはずありません。」
「伊東には近藤さんへの義理も恩義もないからな。」
山南先生は死を選んだが、伊東は近藤に対して命を懸けるほどの義理を感じていない。
齋藤はそう言いたいのだろうか。
「それに、伊東は土方さんより何枚も上手だ。」
薫は何も言わず齋藤を見上げた。
「いずれ、このことは禍根を残す。」
懐にしまったままのお守り袋が薫は気がかりだった。
「藤堂先生は、どうされるんでしょうか。」
「あいつもいい大人だ。
自分の道は自分で選ぶだろう。」
無邪気に笑う藤堂の顔が薫の脳裏を掠めた。
「すみません。長居しすぎました。」
失礼します、と再び頭を下げて今度こそ薫は齋藤の部屋を後にした。
夕餉の片づけが終わるころには日も落ち、冷たい夜風が台所を吹き抜ける。
賄いを手伝ってくれる女中たちは既に帰ってしまい、台所は薫一人だけだ。
「何をしている。」
後ろから声がした。
「今仕事が片付いたので、部屋に戻ろうと。」
「酒を頼めるか。」
お正月の祝い酒がまだ残っていたはずだ。
「わかりました。お持ちします。」
お酒と少々の軽いつまみを持って部屋に戻れば、いつも通り文机に向かった土方がいた。
「お酒お持ちしました。」
「粕漬けか。気が利くな。」
「最近色々漬けてるんですよ。
粕漬け、浅漬け、ぬか漬け、それから…。」
梅干と言いかけて藤堂のことが過る。
「それから、何だ。」
「梅干は皆に好評です。」
「そうか。」
静かな部屋に粕漬けを堪能する土方のポリポリという音が響く。
「お部屋でお酒を飲むなんて、珍しいですね。」
「俺だって酒くらい飲むさ。」
「家に戻らなくてよろしいんですか。」
何と話に思ったことを口にしただけだったが、胸の辺りがズキンと痛む。
「体調が芳しくないらしくてな。俺の出る幕はねえさ。」
そうですか、という返事が辛うじて声になる。
自分で差し出した話題なのに、情けない。
「お注ぎしましょうか。」
土方の空いた杯に薫は徳利を傾ける。
「しおらしいな。明日は槍でも降るか。」
酒で満たされた杯をグイッと飲み干すと、土方は笑いながら言った。
副長がお酒を飲むのは、自己嫌悪に陥ったときですから。
慰めてるんですよ、私なりに。
喉まで出かかった言葉を必死に引っ込めて薫は黙って微笑みを浮かべる。
土方は嫌味を言うのを止めて黙って杯を薫の前に差し出した。
薫も何も言わずに杯に酒を注ぐ。
「伊東に斬りかかろうとしたらしいな。」
暫しの沈黙の後、土方は口を開いた。
「別に本当に斬るつもりは…。」
「あんたを使いに出して正解だった。」
土方は再び酒を煽った。
「悔しいが、俺はあいつに敵わない。
今日は嫌と言うほど思い知らされた。」
カン、とお膳に杯を打ち付ける音がした。
薫は黙って置かれた杯を酒で満たす。
「何のための局中法度だ。
何のために俺は…何人も殺したんだ。」
土方がそれ以上酒を煽ることはなかった。
「…お前の方がよっぽど立派じゃねえか。」
座ったまま土方は膝立ちで傍らに控えた薫を仰ぎ見る。
「近藤局長がいいとおっしゃったんでしょう。」
詳しいことはわからないが、齋藤から聞いた内容から大体のことは察しが付く。
「だったら、それでいいんです。」
建前では伊東を斬るなんて吠えた自分も、本音では永倉と同じく、誰も死なせたくはないと思っている。
それは土方も同じ思いのはずだ。
「これ以上誰の血も流さないためには、それで。」
突然、土方は薫を抱き寄せた。
薫の耳が土方の胸元に触れると、絶え間なく刻む土方の心臓の音が聞こえた。
土方は顔を薫の頭に埋める。
泣いているのだ、と薫は直感した。
土方の背中にゆっくり手を回すと、薫は土方の背中を優しく撫でた。
代わりに、土方から三人の部屋に食事を運ぶように命じられた。
どうやら三人は数日間の謹慎で済んだようだ。
一介の隊士である自分がその理由を尋ねることは出過ぎた真似であるような気がして、
薫は土方の命令に黙って頷いた。
「齋藤先生、お食事をお持ちしました。」
伊東、永倉の両名に食事を運んだあと、最後に食事を届けたのは齋藤だった。
入れ、という声が聞こえた後に障子を開けた先には書に耽る齋藤が座っていた。
他の幹部に出したお膳と同じお膳を齋藤の横に静かに置いた。
「かたじけない。」
齋藤はお膳を一瞥すると再び所に視線を落とす。
「齋藤先生、あの…。」
薫が勇気を振り絞って齋藤に声を掛ければ、齋藤は薫の方を向いて、何だと答えた。
「いえ、やっぱり何でもないです。」
「言いたいことがあれば言え。」
齋藤は書をめくる手を膝に置いて言った。
「どうして、伊東先生について行ったんでしょうか。」
「どういう意味だ。」
「てっきり、齋藤先生は副長の味方だと思っていたので。」
「飲みに誘われ、断る理由がないから行った。ただそれだけだ。」
「そ、そうですよね。あの、忘れてください。失礼しました。」
薫は畳に手をついて頭を下げると、そのまま部屋を出ようとした。
しかし、齋藤が不意に立ち上がり開けっ放しだった障子を閉めたことで薫の退路は断たれた。
「伊東は隊を離れるつもりだ。」
「それは…。」
局を脱するを許さず―。
それは正真正銘法度破りの行いである。
「近々、伊東は諸国見聞と称して九州に発つ。」
「そんなこと、副長がお許しになるはずありません。」
「伊東には近藤さんへの義理も恩義もないからな。」
山南先生は死を選んだが、伊東は近藤に対して命を懸けるほどの義理を感じていない。
齋藤はそう言いたいのだろうか。
「それに、伊東は土方さんより何枚も上手だ。」
薫は何も言わず齋藤を見上げた。
「いずれ、このことは禍根を残す。」
懐にしまったままのお守り袋が薫は気がかりだった。
「藤堂先生は、どうされるんでしょうか。」
「あいつもいい大人だ。
自分の道は自分で選ぶだろう。」
無邪気に笑う藤堂の顔が薫の脳裏を掠めた。
「すみません。長居しすぎました。」
失礼します、と再び頭を下げて今度こそ薫は齋藤の部屋を後にした。
夕餉の片づけが終わるころには日も落ち、冷たい夜風が台所を吹き抜ける。
賄いを手伝ってくれる女中たちは既に帰ってしまい、台所は薫一人だけだ。
「何をしている。」
後ろから声がした。
「今仕事が片付いたので、部屋に戻ろうと。」
「酒を頼めるか。」
お正月の祝い酒がまだ残っていたはずだ。
「わかりました。お持ちします。」
お酒と少々の軽いつまみを持って部屋に戻れば、いつも通り文机に向かった土方がいた。
「お酒お持ちしました。」
「粕漬けか。気が利くな。」
「最近色々漬けてるんですよ。
粕漬け、浅漬け、ぬか漬け、それから…。」
梅干と言いかけて藤堂のことが過る。
「それから、何だ。」
「梅干は皆に好評です。」
「そうか。」
静かな部屋に粕漬けを堪能する土方のポリポリという音が響く。
「お部屋でお酒を飲むなんて、珍しいですね。」
「俺だって酒くらい飲むさ。」
「家に戻らなくてよろしいんですか。」
何と話に思ったことを口にしただけだったが、胸の辺りがズキンと痛む。
「体調が芳しくないらしくてな。俺の出る幕はねえさ。」
そうですか、という返事が辛うじて声になる。
自分で差し出した話題なのに、情けない。
「お注ぎしましょうか。」
土方の空いた杯に薫は徳利を傾ける。
「しおらしいな。明日は槍でも降るか。」
酒で満たされた杯をグイッと飲み干すと、土方は笑いながら言った。
副長がお酒を飲むのは、自己嫌悪に陥ったときですから。
慰めてるんですよ、私なりに。
喉まで出かかった言葉を必死に引っ込めて薫は黙って微笑みを浮かべる。
土方は嫌味を言うのを止めて黙って杯を薫の前に差し出した。
薫も何も言わずに杯に酒を注ぐ。
「伊東に斬りかかろうとしたらしいな。」
暫しの沈黙の後、土方は口を開いた。
「別に本当に斬るつもりは…。」
「あんたを使いに出して正解だった。」
土方は再び酒を煽った。
「悔しいが、俺はあいつに敵わない。
今日は嫌と言うほど思い知らされた。」
カン、とお膳に杯を打ち付ける音がした。
薫は黙って置かれた杯を酒で満たす。
「何のための局中法度だ。
何のために俺は…何人も殺したんだ。」
土方がそれ以上酒を煽ることはなかった。
「…お前の方がよっぽど立派じゃねえか。」
座ったまま土方は膝立ちで傍らに控えた薫を仰ぎ見る。
「近藤局長がいいとおっしゃったんでしょう。」
詳しいことはわからないが、齋藤から聞いた内容から大体のことは察しが付く。
「だったら、それでいいんです。」
建前では伊東を斬るなんて吠えた自分も、本音では永倉と同じく、誰も死なせたくはないと思っている。
それは土方も同じ思いのはずだ。
「これ以上誰の血も流さないためには、それで。」
突然、土方は薫を抱き寄せた。
薫の耳が土方の胸元に触れると、絶え間なく刻む土方の心臓の音が聞こえた。
土方は顔を薫の頭に埋める。
泣いているのだ、と薫は直感した。
土方の背中にゆっくり手を回すと、薫は土方の背中を優しく撫でた。
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