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第18章 幸せの定義

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それから、年明けまでの月日は嵐のように過ぎ去っていった。

孝明天皇の崩御の知らせは瞬く間に市中に広がり、

尊王攘夷派は沸き立つ一方で幕府側の人間は大いに落胆した。

次に擁立された天皇はまだ年端もゆかぬ子供である。

孝明天皇から絶大な信頼を受けていた会津候は一晩にして後ろ盾を失った。

それでも、薫の日常は変わらない。

いや、今年のお正月は帝の喪に服すため、おせちを作ることも

華やかな行事も全て取りやめになってしまったから、仕事が減ったというべきか。


「暇だな…。」

正月三が日は竈の神様を休ませるために炊事をしてはならない、という風習がある。

現代でも聞いたことはあったけれど、そんなことは言っていられなかったから

元日の朝からガスコンロを使っていたことを思い出す。

「暇なら、一緒に凧あげしませんか。」

台所の上がり框に座っていると、凧を手にした沖田がやって来た。

今日は非番らしく半纏を羽織って暖かそうだ。

「沖田先生、明けましておめでとうございます。」

「おめでとうございます。さ、行きましょ。」

行くとも行かぬとも言い終わらぬうちに沖田の手に惹かれて薫は外に出た。

「さぶっ!」

暖かい恰好とは程遠い恰好で外に出たものだから、冷たい風が吹くや否や、薫は体を震わせた。

「全く、薫さんは根性なしだなぁ。」

ほら、と沖田は来ていた半纏を薫の体にかける。

「え、いいんですか。」

「いいも何も、私は寒くありませんから。」

「駄目ですよ、ちゃんと暖かい恰好しなくちゃ風邪引きますよ。」

部屋に戻って自分の半纏を取りに行こうとしたが、沖田の手を引く力は強く抗えない。

日頃は訓練に勤しむ隊士で溢れている西本願寺の境内も今日ばかりは人の姿がなく、

沖田は悠々自適に凧を揚げる。

「ほおら、よく揚がるでしょう。」

「お上手ですね。」

「薫さんもほら。」

そう言って沖田はタコ糸を薫に渡した。



凧揚げなんて、いつ以来だろう。

年末のすす払いから始まったお正月の準備は毎年のことで慣れつつあったけど。

凧揚げはいつも沖田先生のを見ているばかりで、自分がやることはなかった。



京の山々から吹き下ろす風が凧を一段と高く押し上げる。

タコ糸を繰り出したり引っ込めながら、自在に凧を操る。



「沖田先生、ほら、すごく高いところまで…!」

横にいるはずの沖田に話しかけようとしたが、薫の視界に沖田の姿はない。

辺りを見回すと薫の真後ろで蹲る沖田がいた。

タコ糸を放り出して、蹲る沖田の背中を薫は必死に摩る。

「沖田先生、大丈夫ですか!?」

「薫さん、静かに…!」

掠れた声で沖田は語気を強くして言った。

口元を覆う手には鮮やかな血。



「お医者様の所には行ったんですよね。」

この前は軽い咳だけの症状だったが、薫は医者に行くよう勧め沖田はそれを了承したはずだ。

しかし、沖田は首を横に振る。

「沖田先生…!」

「医者の所に行って何になるんです!」

沖田のビー玉のように透き通った瞳が薫の困惑する姿を映し出す。

「お医者様の所に行ってちゃんと薬をもらって、養生して…。」

「刀の振るえない体で過ごす一日に何の意味があるのですか。」



この時代の結核は治療薬もワクチンもない。

医者からもらう薬は咳を抑えるだけの対処療法だ。

長州で会った高杉晋作からも血を吐いたことを誰にも言うなと命令されたことがあった。



「それでも…。

それでも、沖田先生には生きていてほしい。

一日でも長く戦うためには一日でも早くお医者様の所に行って薬をもらって養生するべきです!」

「医者の所には行きました。

労咳だと言われて、咳止めの薬だけもらって帰って来ました。」

「だったら、」

「薫さんならわかってくれるはずです。

誠を貫くことは時に命よりも重いということを。」

沖田の鋭い眼差しに薫はそれ以上何も言えなかった。

「近藤先生や土方さんは今、私を必要としています。

私に体を休める暇などありません。」

口元から垂れる血を沖田は手の甲で拭う。

「せめて、非番の時だけでも体を休めてください。お願いします。」

「…わかりました。」

沖田はようやく普段のにこやかな表情に戻って言った。

手を洗ってきます、と沖田は言って体を翻し、屋敷へ戻る。

薫はタコ糸を手繰り寄せながら地に落ちてしまった凧をしまった。



凧の形は現代のそれと何も変わらない。

なのに、どうして凧を揚げる人はこんなにも違うのだろう。

現代に生きていれば、命の重さなんて考えずに済んだのに。

こんな時代に来なければ、誠を貫く苦しみを知らずに済んだのに。

それでも私はこの時代に生きている人と同じように、誠を貫くと決めた。



「神様は、何故私を飛ばしたのですか。」



青い澄んだ空を見上げても白く眩しい太陽があるだけで、薫の問いに対する答えは見つからない。

薫は西本願寺の境内に一人佇むしかなかった。
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