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第17章 生まれと育ち

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伊東の思惑通りになんてさせてたまるか。

山南先生を死に追い込んだ、張本人だ。

「あの時大部屋からは紅葉など見えませんでした。」

「何だって?」

「伊東先生は大部屋で紅葉の色づく季節だとおっしゃいましたが、大部屋からは銀杏の木しか見えません。」

薫が言い終えると、部屋は静まり返った。



「ハハハ、伊東先生。これは一本取られましたね。」

重苦しい空気を打ち破ったのは豪快な近藤の笑い声であった。

「今宵は我が庭の小さな紅葉で我慢していただけますか。」

近藤は庭に続く障子の戸を開けて、中庭に植えられた紅葉を指さした。

「奥ゆかしい中庭だ。今宵も酒が進みます。」

「伊東先生、薫をここに留めておいても構いませんよ。」

土方は徳利を薫の前に差し出して言った。

「薫、伊東先生と篠原先生にお酌しろ。」

薫はようやく頭を上げて、土方の徳利を受け取った。

「薫君、お酌を頼めるかな。」

これも計算内と言わんばかりに伊東は涼しい顔をして薫の前に杯を突きつけたが、

伊東の鋭い眼差しは土方に向けられていた。


「先だって薩摩屋敷を訪ねまして、大久保一蔵殿にお会いして参りました。」

「大久保殿と言えば、藩を動かす重鎮と聞き及びます。いかがでしたか。」

「聡明なお方でした。

日本の行く末は薩摩にあると言っても過言ではない。」

「それは買いかぶりすぎじゃあありませんか、伊東先生。」

シャリシャリとお浸しを食む音を立てて土方は伊東に異を唱えた。

「どういう意味かな。」

「日本の行く末はご公儀が決める。

これまでも、これからも、だ。」

「果たしてどうでしょうか。

大樹公のご逝去を受けて兵を引いたとはいえ、長州征討の失敗は誰の目にも明らか。

絶対的な権威によってもたらされたご公儀の威光は最早無きに等しい。」

角が立つためか、過激な発言は篠原に任せているようだ。

篠原もその重責を感じているのか、杯の空くペースは速い。

「確かに、篠原君の言うことはもっともだ。」

近藤は篠原の発言に深く頷いた。

伊東はその瞬間を見逃さなかった。

「しかし、夷狄の脅威は増すばかり。

内輪もめをしている場合ではありませぬ。

藩の垣根を越えて手を取り天子様を中心として一つにまとまることが必定。」

「水戸学を修めた伊東先生らしいお考えですな。」



近藤はゆっくりと杯を傾けて言った。

「私は天然理心流の跡継ぎになってからというもの、出自と向き合う毎日でした。

講武所にお取立ていただいたときも百姓という出自に阻まれた。

新選組局長という大層なお役目をいただいた今もなお、出自を問われぬ日などない。

ですが、伊東先生。

私は多摩の百姓であることを恥じたことはただの一度もありませぬ。

緑豊かな多摩川のほとり。

見渡す限り広がる田圃は徳川家をお支えする扶持米に変わる。

いざというときは刀槍を携えて将軍家をお守りするようにと

多摩の人々は道場を構え武芸に励むことを忘れなかった。

旗本や御家人連中がその地位に胡坐をかいてのさばっている間も

我々はあるべき武士もののふの姿を代々継承してきた。

先生のおっしゃることは最も。

天子様を中心に挙国一致で夷狄を打ち払うことが尊王攘夷の目指す所であることは重々承知しております。

されど、多摩に生まれ多摩に育ったものとして、あるべき姿はご公儀に尽くすこと。」

「出自はそんなに大事でしょうか。」

篠原は杯を満たす酒を一気に飲み干すと、近藤の言葉を遮るように言った。

「私も生まれは百姓。

この御時世に私にできることは何か、それだけを考えて生きて参りました。

今まで一度も私が百姓であるから武士らしくあらねばならぬと思ったことはありませぬ。

あるのは、信念のみです。」

「篠原君…。」

「近藤局長、日本が異国に奪われてはご公儀も何もないのです。

今のご公儀に国を立て直すだけの力はない。

このままでは異国に日本を奪われる!」

近藤は腕を組んで目をつむったまま、篠原の訴えを聞いていた。

「薩摩屋敷で大久保殿と話をしたとき、国のあるべき姿について議論して参りました。

天子様を中心として大樹公も薩摩も長州も力を合わせて国をまとめるという構想があります。

そこでは決して大樹公がおざなりにされる訳ではないのです。

今からでも遅くはない。

国づくりの構想に大樹公にお加わり頂けるよう説得するのです。」

「それがあんたの目論見か。」

土方は杯を膳の上に投げ捨てるように置いた。

「広島での『ご活躍』は耳に入ってきているぜ、伊東先生。」

「そうです。

私は長州の者にも接触を試み、長州とご公儀が話し合うきっかけを掴もうとしました。」

「それは無駄骨だったな。」

ギロリと土方の目が伊東に向けられた。

伊東も負けじと土方を睨みつけている。

「さっきから黙って聞いてりゃ、耳障りの良い話ばかりしやがって。

あんたは薩長の連中が大樹公を国家構想に加えると本気で思っているのかい。」

「本気でなければ、この宴を開くようお願いしたりはしない。」

「そうかい。なら聞くが、どうして薩摩は長州に武器を横流ししている。

本当に伊東先生の言う通りなら助命嘆願で十分じゃねえか。」

「それは、ご公儀が長州征討の勅命を受けてしまったからで…。」

「此度の戦で一番儲けたのは誰だ。

薩摩じゃねえか。

自らは一兵の損も出さず、ご公儀に長州と戦わせた。

おまけにご公儀の権威を貶めることにまで成功したなんて、どこの誰が喜ぶんだい。」

伊東のひざ元に置かれた拳がわなわなと震えている。

「悪いが、あんた、そのお人よしに付け込まれてるぜ。」

「土方君こそ、余りにも人を穿って見すぎではないかな。」

「銀杏と紅葉を間違えるような奴の言うこと信じられるかよ。なあ、薫。」

伊東の隣に座ってお酌を続けていた薫の眼前に土方は赤い杯を突き出した。

横目で伊東を見ると、先ほどにも増して怒りに打ち震えている。

薫は何も言わず、徳利を杯の前で傾けた。

しかし、徳利の中身が空っぽだったらしく、杯が酒で満たされることはなかった。

「新しいお酒をお持ちします。」

「薫君、その必要はない。」

立ち上がる薫の腕を伊東は強く握って制した。

「長州に対し戦を仕掛けたせいで物の値は高騰し民は困窮している。

打ちこわしが横行し、京の人々は益々長州贔屓になっている。」

「何が言いたい。」

「三条大橋の札の一件で、我々は京の人々を敵に回した。」

「俺達の役目は京の人々に気に入られることではない。」

「近藤局長。

私と土方君、いずれを右腕にするかで運命は大きく変わります。」

帰るぞ、と篠原に言うと二人は立ち上がった。

「私はトシを信じてここまで来たのです。

たとえ待ちゆく運命が地獄であっても、私はトシと共にあることを悔やんだりしない。」

泰然とした近藤は伊東に笑顔すら浮かべて言った。

「薫君、お客人がお帰りだ。」

近藤に促されるように、薫は伊東らを追いかけた。



「篠原先生。」

提灯に火をともし、篠原に渡そうと声を掛けると振り返ったのは伊東であった。

鬼のような形相の伊東が提灯に照らされた。

余りの恐ろしさに、薫は喉がヒュッと鳴るのを感じた。

「君には煮え湯を飲まされたよ。」

奪われるように提灯を薫から受け取ると伊東は大きな音を立てて引き戸を閉めた。

本来であれば門まで見送るのが礼儀であったが、

今の薫には激怒する伊東を追いかけるだけの勇気を持ち合わせてはいなかった。
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