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第16章 終わりの始まり

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蝉の鳴き声が耳をつんざく夏盛り。

ベタつく暑さも気にかけず、

屯所で最も大きな広間に隊士が集まって何やら書物を皆で音読している。
伊東が毎日のように開いている講義である。

伊東が新選組に加わってから2年の月日が経とうとしているが、

日に日に講義に参加する人数は増え、平の隊士でも空き時間に聴きに行く者は多い。

一度も参加していないのは土方や沖田といった、試衛館一門くらいではないだろうかと思うほどの勢いを伊東一派は有していた。

「であるからして、我が国は天子様をいただく神国であり夷狄を打ち払わんとすることは当然の行いである。

故に我々はその精鋭として攘夷の魁たらんとするものである!」

日頃冷静で理性的な伊東が声を張り上げて熱弁を振るう。

まるで政治家の演説のようだ。

それが僅かな障子の隙間から講義を覗く薫の抱いた印象だった。


昼食の片付けが終わるや否や、すぐ様夕食の支度にかからなければならない薫は、

中の様子が少しだけ気になり足を止めたが直ぐに自分の仕事場である台所に戻った。


このままじゃ、新選組は伊東のものになってしまう。

土方が強い危機感を抱くのも頷ける。


講義に来る隊士一人一人に声をかけ、よくよく読書をするよう移動の励ます姿をよく見かける。

一方、土方と言えば法度という強権で多くの隊士から鬼と恐れられている。

これでは隊士達がどちらの派閥に加わるかというのは自明の理というものだ。


「そういう貴方も近頃は般若と呼ばれているそうですね。」

夕食の支度をしながら、梅干しをつまみ食いしに来た沖田に

それとなく伊東の話を振ってみるとそんな返事が返ってきた。

「私のことは別にいいんです。

自分で選んだ道ですから。」

「それは土方さんも同じだと思いますよ。」


いてっ。

切った玉葱の中から飛び出した汁が目に入って思わず薫は小さな悲鳴を上げた。

痛いと包丁を持つ反対の手で目を擦る。


「土方さんは地獄に落ちることすら構わないと思ってますよ、きっと。」

「地獄、ですか。」

「誠を貫くとはそういうことだと。」



誠。

新撰組の旗にも掲げられるその一文字のために、果たして一体何人の血が流れただろうか。

 それ以上考えるのは無駄だと言わんばかりに頭を左右に振る。


「長州征伐が始まったと聞きました。」

「難しい話を私にされても困ります。」

眉毛をハの字に曲げて沖田は更にもう一粒梅干しを壺から掬い出して言った。

「沖田先生、食べ過ぎです!

高血圧で死にますよ!」

薫が壺をヒョイと取り上げようとしたが、

薫より一回りも背の高い沖田に呆気なく壺を取り返されてしまう。

「病で死ぬ前に、私は明日死ぬかもしれないんですよ。

だから満足いくまで梅干しを食べるのです。」

「そんなこと言って昨日は10粒も平らげたじゃないですか!

長生きできませんよ。」

薫がそう言うと、沖田はお腹を抱えて笑い出す。

「薫さんは本当に面白い。

私のような武士は碌な死に方するはずないのに。

まるで私が長生きするみたいな言い方ですね。」

沖田のマメだらけの手が薫の頬に触れた。


こそばゆいような、照れくさいような。

沖田の慈しみを含んだ視線から薫は目を逸らす。



薫は知っている。

いくら歴史に疎くても、この有名な剣士、沖田総司の死に様を。

この時代、ワクチンもなく特効薬もない結核によって沖田は死ぬのだ。

戦場でもなく、路上ですらなく、畳の上で。

沖田は、病に蝕まれ命を落とすのだ。

そして「その時」は刻一刻と迫っている。


「薫さん?」

長いこと沖田のことを見つめていたのか、

薫の瞳にきょとんと首を傾げる沖田のあどけない顔が映った。

「ごめんなさい、考え事してました。」

「薫さんがそこまで言うなら今日はこれくらいにしておきますか。」

沖田は元の棚に梅干しの壺をしまった。

「沖田先生、いくら明日をも知れぬ命でも体のこと気遣ってくださいね。」

立ち去ろうとする沖田の袖の裾を薫は思わず握りしめた。

薫の行動が予想外であったのか、沖田も足を止めて薫の方へ振り返る。


上目遣いで沖田を見れば、ビー玉のように透き通った沖田の瞳に薫の不安げな表情が映し出される。

「わかりました。」

ふわり、と沖田が笑えば薫は安心したように袖か
ら手を離した。

それでも薫の表情は不安そうなままだ。


段々と小さくなっていく沖田の後ろ姿を薫は見えなくなるまで見守った。
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