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第15章 前世と来世

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きっと良い御身分のお侍だと遥は一目見てすぐに感づいた。

日頃はお茶屋で妓を揚げるような立場の人間がどうして女郎屋に来ているのだろうと不思議に思ったが、

お金を払ってもらった以上仕事をしなければならない。

「鶴と申します。」

「顔を上げておくれ。」

遥が男の顔を見上げると、驚いたような表情で男はこちらを凝視している。

男は何も言わなかったが、顔を見ればわかる。



この男も深雪太夫に袖にされ、仕方なくこの女郎屋に足を踏み入れた質か。

遥は面倒だと言わんばかりに、心の中でため息をついた。

どんな身分であろうと、自分に誰かを投影しようとやることは一つ。



遥は手際よく男の着物を脱がそうとしたが、男は遥の腕を掴みそれを拒んだ。

遥は眉間にしわを寄せる。

「お侍様、どうしはったんどす。」

最初はへたくそと客に笑われた京訛りも今では大分板について来た。

そんな遥の手を男は優しく、しかし強い力で男の体から引き剥がす。

「今宵は貴方に話があって参ったのだ。」

再び男の真剣な眼差しが遥に注がれる。

「話?」

おどけたように、遥は首を傾げた。

「以前東雲薫という者がここを訪れなかったか。」



男の告げた内容でこれまでの不可解な事実に合点がいった。

この男、薫の言っていた「上司の近藤先生」に間違いない。

一瞬だけ、遥の表情は曇ったが、すぐに何もなかったかのように笑顔を顔に張り付ける。



「そんな人、うち知らんわぁ。」

頬を赤く染めて、貴方が欲しいと言わんばかりに艶っぽい声で答えると、男に抱きつく。



これで落ちない男などいない。

遥は男の胸元から顔を見上げた。



「君の本当の名前は、遥と言うそうだね。」

遥の耳元で近藤はそう囁いた。

今度は遥の目が見開かれる番であった。

「君のことは薫君から粗方聞いている。

薫君は境遇の似た君を気にかけているみたいだ。」

フッ、と遥は口元を歪ませた。

「境遇の似た?笑わせんといて。

二本差しのお侍と体を売るしか能のない女とでは天と地ほどにも差がある。」



遥の自虐ともとれる嘲りを聞いて、近藤は武骨な手で遥を抱きしめた。

「君は、立派だ。」

冷たく凍りついた遥の心を溶かすのにはそれだけで十分だった。

偉い偉いと、子供をあやすように遥の頭を優しく撫でれば、遥の瞳からは涙がボロボロと溢れ出す。



誰かに認めてほしかった。

誰かに見てほしかった。

誇れるものは何もないけれど、知らない街で知らない世界で

知らない人に囲まれて必死で生きていることを誰かに褒めてほしかったのだ。




抱き着いた近藤の胸元から聞こえる心臓の音はまるで子守歌のようだった。

腕から伝わる温かさは母の温もりに似ていた。

この世界に来て、遥は初めて安らぎを感じていた。



再び目を覚ましたとき、遥はまだ近藤の腕の中に納まっていた。

「よく眠れたかい。」

近藤からそう尋ねられると、遥は寝起きのかすれた声で堪忍、と言って男から離れた。

ほら、と自賛した風呂敷を開けると蓋で覆われた茶碗が露わになる。

「冷えてしまっているが、薫君が君に食べさせたいと作ったものだ。」

お食べ、と木彫りの匙が遥の前に差し出された。

恐る恐る匙を受け取り、茶碗の蓋を開けた。

「茶碗蒸し…。」

「君はこの料理を知っているんだね。

薫君は創作料理だと言っていたけれど。」

匙で中身を掬えばプルン、と揺れるそれをゆっくりと口に運ぶ。

中にはエビや鶏肉が入っていて、出汁の香りが遥の口の中に広がった。

「おいしい。」


遥は心の底からそう思った。



よく母が作ってくれた茶碗蒸し。

受験の前の日に、滋養がつくものをと雄藩に出てきたのは茶碗蒸しだった。



一口、また一口と遥は茶碗蒸しを貪るように食べた。

伊勢屋の世話になってからはずっと、麦飯と沢庵ばかり。

鶏肉や海老なんて食べたのはいつぶりだろうか。

気づけば、遥はボロボロと涙をこぼしていた。



「一緒に暮らさないか。」

たとえきっかけは深雪太夫の妹かもしれないという淡い期待だったとしても、


今の近藤が口にした言葉は心の底からの願いだった。

幼い体で人間の嫌な部分、汚いところを一心に受け止めてきた少女が愛おしかった。

美味しいものをたくさん食べさせたい。

綺麗な着物をたくさん着せてやりたい。

近藤は最早親心にすら近い愛情を遥に抱いていた。



「ずっと、麦飯ばかりだったの。」

「そうか。よく頑張ったな。」

「美味しいもの、食べさせてくれる?」

「勿論だ。一杯食わせてやるさ。」

遥は勢いよく近藤の懐に飛び込んだ。

おいおい、と苦笑した近藤であったが、その表情はどこか嬉しそうだ。

「迎えに来て。」

「わかった。」

「絶対だよ?」

男との逢瀬の時間を計る線香は、灰になろうとしている。

淡い、夏を思い起こさせるような線香の香りが今は少しだけ恋しく感じた。









それから幾日か経った後、遥は近藤の休息所で女中として雇われることになった。

もう動くことすら叶わないお幸は、遥を見て涙した。

「遥ちゃん、堪忍な。」

遥は優しくお幸の手を握った。

「会えてよかった。」





お幸がこの世を去ったのは遥が近藤の下に身を寄せて数日後のことだった。





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