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第12章 戦争と平和
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しおりを挟む屯所の中をうろついてはいけない。
沖田からの忠告は果たして正解であった。
薫は目の前の光景に思わず叫び声を上げたくなったが、寸でのところで思いとどまった。
薫が配膳しようと向かった客間の目の前で褌を外した素っ裸の男が仁王立ちで立っていたからだ。
薫は男を見ないように、真っすぐ見据えたまま客間にお膳を運ぶ。
中には既に土方と近藤が客人の来訪を待っていたらしく、下座に二人並んで座っている。
「し、失礼します…。ち、昼食をお持ちしました。」
「どうした、薫君。顔色が悪いぞ。」
「い、いえ…。大丈夫です。」
「ふん、別に初めて見るものでもないだろうに。」
土方は薫の顔色が悪い理由を察したようで、薫の姿を鼻で笑った。
カチンと来た、とはこういうことを言うようで。
薫は何よ、男の素っ裸みたら誰だってぎょっとするわよ、と反論したい気持ちに襲われたが、
近藤のいる手前見苦しい姿を晒すわけにはいかなかった。
「副長は裸に相当自信がおありのようで。」
「見たいか。」
土方も夜の街で浮名を流すだけのことはある。
薫の嫌味を爽やかすぎるほどの笑顔で返すものだから、薫は見たくありませんと反論するので精一杯であった。
「ははは、相変わらずトシと薫君は仲がいいなあ。」
「ちょいと、邪魔するぜ。」
障子を開けて現れたのは、剃髪姿の男であった。
後ろには弟子と思しき男を一人連れて客間に入って来た。
「松本先生、感謝に堪えませぬ。」
「何でい、これくらい朝飯前よ。」
松本先生、と呼ばれた男は豪快な笑い声を上げると、薫の方を見遣った。
「あんたかい、一人で新選組の賄いをやっているってえのは。」
「は、はい。」
目の前に饗されたお膳に男は目を見張った。
「これは、見事な茶碗蒸しだ。」
「茶碗蒸し?」
土方はお膳に乗った茶碗蒸しの蓋を開けて中を見た。
「出汁と卵を混ぜ合わせて蒸したものです。中には椎茸とエビが入っています。」
「美味しそうじゃないか。」
「近藤さん、あんたは腕のいい料理人を持ったな。」
「薫君の料理は絶品で、隊士の間でもすこぶる評判が良いのです。」
「そうだろう。米も艶やかでふっくら炊けている。」
上手い、上手いと美味しそうに松本は料理を頬張る。
その姿が単純に嬉しかった。
「奥でもこんな上手い飯は食えねえぞ。」
「奥…?」
「紹介が遅くなったな。この人は松本良順先生と言って、蘭方医で上様の御典医でもあらせられる。」
蘭方医ということはお医者さんということだ。
上様、すなわち将軍の主治医みたいな人がわざわざ新選組に来てくれているということに薫は驚いた。
薫は慌てて平伏するように頭を下げた。
「し、失礼しました!」
「おいおい、やめてくんな。御典医といってもただの町医者よ。」
「松本先生のご発案で、新選組の隊士を全員診察していただけることになってね、
それでそのお礼に昼食を摂っていただくことになったんだよ。」
近藤は優しく薫に語り掛けるようにそう話した。
「お前さんの作る飯は文句なく上手い。
食にうるさい江戸っ子の俺が言うんだから間違いねえ。
これからの飯には肉を使え。
あんまり馴染がないだろうが、土方に家畜を飼うように申し伝えたから、一日一回は肉を使って料理しろ。」
「お肉、ですか。」
現代では毎日のように口にしていた肉だが、
この時代に来てからは鶏肉すら貴重でほとんど料理で使ったことはない。
お肉を使えるのであれば、食のレパートリーが広がることは間違いないし、
よく働く彼らの腹を満たすのに十分な食事を作ることができるだろう。
「近いうちに、鶏と豚を調達するから、うまく使えよ。」
土方は簡単に言ってのけたが、薫はその発言に不安を感じた。
「もしかして、屯所で飼うんですか。」
「無論だ。」
「その、飼ってる家畜を屯所で潰すんですか。」
「当たり前だろう。」
「誰が?」
「お前だ。」
けろり、と言った様子で土方は言ったが、薫は青ざめた。
無理、無理。
「最初はてこずるだろうが、すぐに慣れるさ。餌には屯所で出た残飯をやるといい。」
土方と松本は出身が近いせいか、馬が合うようだ。
「それじゃあ、そろそろお暇するかね。」
食事を終えた松本は立ち上がり、そう言った。
「もうお帰りになるのですか。」
「あぁ。しばらくは大坂にいるから、飯でも食べに来るさ。」
また上手い飯を頼むぞ、と松本は言い残して南部と共に部屋を去って行った。
土方に二人をお見送りするよう言われたため、薫は急いで二人の前に進むと、
松本に一つ頼みがあると話しかけられた。
「近藤さんは胃を痛めているようだ。」
「胃ですか。」
「心労からくるものだ。毎度の食事にこれを煎じて飲ませろ。」
松本はそう言うと、薫に白い袋を手渡した。
「これは胃がひきつった時に炊いても効果がある。なくなったら貰いに来い。」
「わかりました。ご丁寧にありがとうございます。」
「あの男の敵は長州ではない。おごり高ぶった旗本や譜代の家臣共だ。」
苛立ちを募らせた目で松本は薫を見た。
松本を見送った後、薫は白い袋に包まれた胃薬を見た。
かつて山南が死ぬ間際に私に訴えたことを思い出す。
―未だに身分を引きずり、近藤勇という男を蔑む武家社会。―
山南先生が絶望した社会の中で近藤局長は一人で戦っているのだ。
薫は胃薬の入った袋を強く握りしめた。
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