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第9章 恋と愛
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「文学師範ですか…。」
「君は体も華奢。
剣のみならず学問も身につけなければ一介の武士として世の中で認められませんよ。」
斎藤と剣術の稽古を終えて部屋に戻る所を伊東先生に止められた。
黙って伊東を見る齋藤の目はどこか殺気が込められている。
「これは齋藤君。邪魔をしたようですね。」
「いえ、私にはお構いなく。
薫、風邪をひかないよう、体をふいておけ。」
斎藤は薫にそれだけ言うと自室へ戻っていった。
「お気持ちはありがたいのですが、
山南先生に学問は教わっているので…。」
薫は伊東から目を逸らして言った。
真っすぐ伊東を見つめれば、またあの爽やかすぎるほどの笑顔を真正面から受け止めなければならないからだ。
「山南先生ですか…。
それは素晴らしい師匠をお持ちなのですね。」
伊東は諦めた風に肩をすくめ、それではと笑顔を向けると薫の前から去っていった。
「薫君、私を師と仰いでくれて嬉しい限りです。」
後ろから声がして、薫は背中をぎくりとさせた。
今一番会いたくない人。
しぶしぶ振り向いて作り笑いを浮かべる。
「山南先生…。」
薫の様子がいつもと違うことに気づいたのか、山南は黙ったままだ。
「思うところがあるなら言いなさい。」
「山南先生も、その…ああいうところに行かれるんですね。」
ああいうところ、という言葉の意味を理解したように山南は苦笑した。
「見られてしまいましたか。」
薫は落胆した。
心のどこかで否定してほしかった自分がいた。
「あれはやっぱり山南先生だったんですね。」
薫は山南の顔を見ることなく通り過ぎようとした。
しかし、山南は薫の手を取って引き留めた。
「恥を忍んで、君に話そう。」
来なさい、と山南は薫を自室に入れ、そして山南の前に座らせた。
「この年になって私は恋に落ちた。」
想像もしていなかった山南の告白に薫は目を見開いた。
「彼女は確かに廓にいるが、いずれは身請けするつもりだ。」
「み、身請けって…。」
妓を身請けするには莫大な費用が掛かる。
いくら山南が大幹部とはいえ、そんなお金はないはずだ。
「身請けと言っても、そんな派手なことは何一つしてやれない。
それでも、私は明里を傍に置きたい。」
山南は楽しそうに明里とのいろんな話をしてくれた。
照れくさそうに話す山南はどこか嬉しそうで穏やかな表情をしている。
こんな表情をする山南を初めて見たと思うほどに。
「山南先生、ごめんなさい。私…」
「いいのです、薫君。
私も最初は君に何と言われるかと後ろめたい気持ちがあったものだから。」
この思いが真実であるなら、君に打ち明けるべきだったのだと山南は言った。
「よかった。伊東先生の講釈お断りして。」
「薫君を伊東先生に取られてしまったら、私の生き甲斐を失うところでしたよ。」
「そんな大げさですよ。」
「大げさではない。
病に伏している私の所へ足しげく君が通ってきてくれたからこそ
私は今こうして元気にいられるのだから。」
「先生…。」
「そろそろ土方君に怒られそうですがね。」
「どうして副長に怒られるんですか。」
「薫君が私の所にばかり入り浸ると、彼は拗ねてしまうから。」
「本当、大人なんだか、子供なんだか。」
小さい頃と全然変わっていない。
「君はどうなんですか。」
「どうって…。」
「土方君のこと、満更でもないんじゃないですか。」
幼い頃の土方を見てきたからわかる。
彼はとても人懐っこくて、ガキ大将で、誰からも愛される。
でも今の彼は憎まれ役を自ら買って出て、嫌われようとすらしている。
本当は傷つきやすい性格なのに、何も気にしていないかのように振る舞う。
でも、稔麿さんの死を経てわかったことがある。
「好きな人に置いて行かれるのは、嫌かな…。」
「人はいずれ皆死ぬ。」
「そうですけど…。」
「武士とは何か、と君が尋ねてきたことがありましたね。」
薫は黙って頷いた。
「武士とはいつでも死ぬ覚悟がある者のことを言うと、私は思うのです」
「死ぬ覚悟…。」
「黒船来航以来、数多の志士達が国を憂い、命を燃やしてきた。
そこに身分はない。
あるのは国の為に死ぬ覚悟があるかどうかだけです。」
池田屋のあったあの日、長州藩邸の前で自ら命を絶った稔麿を思い出す。
そしていずれ土方も時代の渦に巻き込まれ散っていくのだろうか。
「歳三さんに死んでほしくないと思う私は、武士ではないのですね。」
「薫君が土方君に特別な感情を抱いている証です。
それを恋や愛と呼ぶかどうかは貴方次第だ。」
山から吹き下ろす冷たい風が障子をカタカタと鳴らした。
薫は黙ってその音を聞いているばかりであった。
「君は体も華奢。
剣のみならず学問も身につけなければ一介の武士として世の中で認められませんよ。」
斎藤と剣術の稽古を終えて部屋に戻る所を伊東先生に止められた。
黙って伊東を見る齋藤の目はどこか殺気が込められている。
「これは齋藤君。邪魔をしたようですね。」
「いえ、私にはお構いなく。
薫、風邪をひかないよう、体をふいておけ。」
斎藤は薫にそれだけ言うと自室へ戻っていった。
「お気持ちはありがたいのですが、
山南先生に学問は教わっているので…。」
薫は伊東から目を逸らして言った。
真っすぐ伊東を見つめれば、またあの爽やかすぎるほどの笑顔を真正面から受け止めなければならないからだ。
「山南先生ですか…。
それは素晴らしい師匠をお持ちなのですね。」
伊東は諦めた風に肩をすくめ、それではと笑顔を向けると薫の前から去っていった。
「薫君、私を師と仰いでくれて嬉しい限りです。」
後ろから声がして、薫は背中をぎくりとさせた。
今一番会いたくない人。
しぶしぶ振り向いて作り笑いを浮かべる。
「山南先生…。」
薫の様子がいつもと違うことに気づいたのか、山南は黙ったままだ。
「思うところがあるなら言いなさい。」
「山南先生も、その…ああいうところに行かれるんですね。」
ああいうところ、という言葉の意味を理解したように山南は苦笑した。
「見られてしまいましたか。」
薫は落胆した。
心のどこかで否定してほしかった自分がいた。
「あれはやっぱり山南先生だったんですね。」
薫は山南の顔を見ることなく通り過ぎようとした。
しかし、山南は薫の手を取って引き留めた。
「恥を忍んで、君に話そう。」
来なさい、と山南は薫を自室に入れ、そして山南の前に座らせた。
「この年になって私は恋に落ちた。」
想像もしていなかった山南の告白に薫は目を見開いた。
「彼女は確かに廓にいるが、いずれは身請けするつもりだ。」
「み、身請けって…。」
妓を身請けするには莫大な費用が掛かる。
いくら山南が大幹部とはいえ、そんなお金はないはずだ。
「身請けと言っても、そんな派手なことは何一つしてやれない。
それでも、私は明里を傍に置きたい。」
山南は楽しそうに明里とのいろんな話をしてくれた。
照れくさそうに話す山南はどこか嬉しそうで穏やかな表情をしている。
こんな表情をする山南を初めて見たと思うほどに。
「山南先生、ごめんなさい。私…」
「いいのです、薫君。
私も最初は君に何と言われるかと後ろめたい気持ちがあったものだから。」
この思いが真実であるなら、君に打ち明けるべきだったのだと山南は言った。
「よかった。伊東先生の講釈お断りして。」
「薫君を伊東先生に取られてしまったら、私の生き甲斐を失うところでしたよ。」
「そんな大げさですよ。」
「大げさではない。
病に伏している私の所へ足しげく君が通ってきてくれたからこそ
私は今こうして元気にいられるのだから。」
「先生…。」
「そろそろ土方君に怒られそうですがね。」
「どうして副長に怒られるんですか。」
「薫君が私の所にばかり入り浸ると、彼は拗ねてしまうから。」
「本当、大人なんだか、子供なんだか。」
小さい頃と全然変わっていない。
「君はどうなんですか。」
「どうって…。」
「土方君のこと、満更でもないんじゃないですか。」
幼い頃の土方を見てきたからわかる。
彼はとても人懐っこくて、ガキ大将で、誰からも愛される。
でも今の彼は憎まれ役を自ら買って出て、嫌われようとすらしている。
本当は傷つきやすい性格なのに、何も気にしていないかのように振る舞う。
でも、稔麿さんの死を経てわかったことがある。
「好きな人に置いて行かれるのは、嫌かな…。」
「人はいずれ皆死ぬ。」
「そうですけど…。」
「武士とは何か、と君が尋ねてきたことがありましたね。」
薫は黙って頷いた。
「武士とはいつでも死ぬ覚悟がある者のことを言うと、私は思うのです」
「死ぬ覚悟…。」
「黒船来航以来、数多の志士達が国を憂い、命を燃やしてきた。
そこに身分はない。
あるのは国の為に死ぬ覚悟があるかどうかだけです。」
池田屋のあったあの日、長州藩邸の前で自ら命を絶った稔麿を思い出す。
そしていずれ土方も時代の渦に巻き込まれ散っていくのだろうか。
「歳三さんに死んでほしくないと思う私は、武士ではないのですね。」
「薫君が土方君に特別な感情を抱いている証です。
それを恋や愛と呼ぶかどうかは貴方次第だ。」
山から吹き下ろす冷たい風が障子をカタカタと鳴らした。
薫は黙ってその音を聞いているばかりであった。
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