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第4章 菖蒲と紫陽花
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しおりを挟む薫はあれから毎日のように松村と逢瀬を重ねていた。
松村はとても頭がいいらしく、何を話していても面白い。
彼の幼少時代の話、友人の話、一風変わった先輩の話。
毎日会うたびに彼の話に引き込まれていった。
そして、今日も彼との約束の場所へ向かった。
だめだとわかっていても、足が松村との約束の場所に向かっていたのだ。
無邪気でまっすぐな彼の瞳と生き様に薫は確実に惹かれている。
外は雨が降っていた。
パラパラと雨が屋根に打ち付ける音が絶えず聞こえる。
「小介はん。」
「稔麿じゃ。」
え、と薫が聞き返すと彼は俺の本当の名は吉田稔麿じゃ、と打ち明けた。
「吉田稔麿…。」
その名を愛でるように、薫はゆっくりとその名を呼んだ。
「ええ名じゃろう。」
「とても。」
「わしにもお前のことを教えてくれ。」
私のこと。
本当はね、と声に出そうとしたが、喉に大きなしこりのようなものを感じてうまく話すことができない。
本当のこと言ってどうするの。
新選組で拾われて、土方さんの命により島原に潜伏していること。
百五十年も先の日本からこの世界にやって来たこと。
稔麿さんの前に姿を現している私は、全て嘘で塗り固められている。
私は稔麿さんを、騙している。
そして、薫は気づいてしまったのだ。
初めて自分と向き合ってくれた彼には“東雲薫”として向き合うことは一生許されないということに。
ここに何一つ真実は存在しない。
「稔麿さん。」
薫は島原で教わった京ことばをやめ、彼の名を呼んだ。
「私とはもう、会わない方がいいわ。」
「何故じゃ。」
「真実をさらけ出すには、嘘をつきすぎた。」
彼の顔は見れなかった。
きっと、透き通ったその瞳が悲しみに染まっているに違いない。
「全部嘘っぱちなの。」
突然、視界が反転したかと思うと、薫は稔麿に押し倒されていた。
稔麿は眉間に深いしわを寄せ、じっと見つめている。
同じだ、と薫は思った。
土方に組み敷かれたときと同じように、稔麿もまた苦しんでいる。
「そいなら、本当の顔を見せてくれ。」
稔麿は薫の唇に己の唇を重ねた。
縋るように、求めるように強引なキスであった。
今だけは、自分の心にも稔麿にも真実でありたい。
事が済んだら、もう嘘は終わり。
薫は瞼を閉じて、自ら稔麿を求めた。
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