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第4章 菖蒲と紫陽花
7
しおりを挟む稽古が終わって一息ついたころ、近くの茶店から花里宛に文が届いた。
「柏屋にて待つ 小介」
懐紙か何かに書いたのだろうか、短いが丁寧な字で書かれていた。
「松村はんから?」
薫の様子で察したのか、本を読む手を止めて花君太夫は言った。
「そうどす。」
薫は逡巡した。
行くべきか、行かざるべきか。
明らかに松村は長州人である。
知ってしまえば、土方に報告せざるを得ないことも出てくるだろう。
いつの間にか松村が大切な存在になっていりることに気づかされる。
「“花里”はどないしたいん?」
花君太夫のはっきりとした口調に、薫はハッとさせられた。
「“花里”は…行きたいです。」
今の私は薫である以上に芸妓“花里”なのだ。
それは任務とか私情とかそういう問題ではない。
薫は紅を差し、巾着に必要な物を入れると店を駆け出した。
柏屋という茶店は置屋のすぐそばにあった。
だから、店先で椅子に腰かける松村の姿もすぐに見つけることができた。
「花里。」
「遅うなって堪忍。」
「悪いな、無理を言って。」
「どないしはったんどすか、急に。」
「当分、あの店には行かれなくなった。島原から我々の動きが漏れている。」
薫はギクリ、とした。
心臓が嫌に鳴っている。
「そんな…。」
口の中の水分が急速に消えていく感覚がする。
松村が薫に会いに来ている時点で薫を疑っている様子はなかったが、
それでも頭で理解しているのとそれとは別の話である。
「会えんと思うと、会いたくなるんが人の性じゃ。」
立ち尽くす薫の右手を松村はそっと触れた。
「おぼこい手じゃ。」
松村の手は温かく優しい。
一人の人として、松村は薫を見てくれているのだ。
言葉を発せずとも、その手がそう言っている。
薫はそれが心の底から嬉しかった。
皮肉にも、この世界に来て初めて“東雲薫”と向き合ってくれたのは松村小介という男だった。
薫は涙がこぼれた。
理由はわからない。
けれど、悲しくて泣いているのではない。
松村が薫の鼻をすする音を聞いて顔を上げた。
「どうして泣いとる。」
「わ、わからへん。」
一度溢れてしまったものを抑えることはできない。
気づけば、薫は松村の腕の中だった。
顔を松村の胸に押し付けられて、心臓のトクントクンという音が聞こえてくる。
「また来るけ。」
もう泣くな、と松村は薫の頬に伝う涙を掬った。
薫は声にならない声で、うんと頷いた。
二人はそれ以上何か会話を交わすことなく、別れた。
しかし、遠くでそれを見つめる人影が一つ。
女は、情に流されすぎる。
そう呟く、土方の姿があった。
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