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出来る事なら松阪牛で
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外に出ると、風はほんのり湿り気を帯びていた。
同じ蒸れた空気でも真夏の空気はアイロンの蒸気みたいで、思わず顔をしかめてしまうのに。六月のしっとりした空気には情緒を感じる。
まだ梅雨も明けていないのにもう夏の事を考えているなんて。何だか可笑しくて笑ってしまう。
「ふふっ」
「鬱陶しい上に、暗がりで笑われると不気味なんですけど」
「すみません!」
倉地さんは冷ややかに毒づく。いつもながらドライな少年である。
真面目な顔付きをしてみたものの、気を抜くとつい口元が緩んでしまう。
言ったそばからこれだ。そんな呆れた目で見られても、これは不可抗力だから仕方ない。
通勤用の鞄にストラップを付けてある。姫和さんも少し表情が明るくなったし、お二人の夫婦仲も深まった。
神様から授かった祝福ってのがよく分からないけど。それはそれ。
今日の事を思い出してニヤけると、遂に倉地さんは相手をするのも面倒になったらしい。
浮かれる私を放置してドアノブに手をかけ、軽く揺する。内側から施錠されている事を確認すると手を離した。
「思った以上に根性あるのは認めます。正直、すぐ辞めると思っていたので」
「今追い出されても行く宛てがないので」
また就職活動に戻るなんて御免だ。私は苦笑混じりにポリポリと頬をかく。
「地味な作業は多いし、結構体力仕事のとこあるし。その割に接する機会の多いウェディングプランナーと違って、直接感謝される事も少ない。
思ってたのと違う、ってのも分からなくもねぇ」
(倉地さん、今日はどうしちゃったんだろう?)
帰りがけに雑談をするなんて珍しい。素の口調に戻っているし、いつになくしおらしい。
「でも相沢さんは辞めなかった。しぶといって言うか、諦めが悪いって言うか」
「んん?」
「後でギャーギャー騒がれても面倒なので、今教えとく」
くるりと背中を向けると、倉地さんはスタスタ歩き始めた。てっきり付いて来いという意味だと思い、一歩踏み出すとジロッと睨まれる。
「えっ?」
一メートルほど歩いた所で立ち止まると、クルッと私の方に向き直る。
次の瞬間、バサッと大きな羽音がしたかと思うと、倉地さんの背中に鳥の翼が現れた。翼が黒く塗り潰されたように見えるのは辺りが暗いからではない。
倉地さんは黙っていればキラキラした美少年だし、接客中の顔は天使と呼べなくもない。
……という事は。
「堕天使ですね!」
「烏天狗だ。親が迎えに来るってのは嘘で、いつも飛んで帰る」
「飛んで帰る!?」
「……公共機関を使うと必ず痴漢に遭う。最初は女と間違えてんのかと思ったが、何故だか男だと分かっても触り続ける野郎がいやがんだよ」
私が一々驚くからか、倉地さんは酷く鬱陶しそうに顔をしかめる。
飛んで帰る所を誰かに見られたりしないのかな。このご時世、そういう部分は気にした方が良いのでは。
あやかし事情を心配していると不意にカサッと何かが擦れる音がした。何気なく拾い上げてそれを認識した瞬間、大きく目を見開く。
(まさか、倉地さんの秘密に御利益が使われたの!?)
信頼されたのは嬉しいけど、それはちょっと話が変わってくる。
神様の御利益と言うくらいだから、高級和牛とかリゾートホテルの宿泊券が当たるとか。そういう、スケールの大きい幸運を想像していたのに。
渋い表情でため息をつくと、何かを察した倉地さんは貼り付けたような笑顔で一歩、また一歩と詰め寄る。
「そろそろ靴を磨かなきゃなー、と思っていたんですよ」
「靴?」
なんでいま靴の話?
話の飛躍っぷりに困惑したものの、肌で感じる凄まじい怒気にツッコミを控える。
「忙しいとサイズを確認せず箱に突っ込むから、箱に銘記してあるサイズと内容が合ってない事が多くて」
「そう、ですね」
「ですから明日、中身を確認して正しい箱に入れ替えて貰えます?」
「えっ、明日!?」
男性用・女性用だけでも沢山あるのに。
そこに洋装用の革靴やヒール、和装用の草履があり、更に豊富なサイズ展開まで加わる。
棚一面に並ぶ靴の箱は見る度に圧巻で、見上げると首が痛くなる。
「ついでに乾いた布で磨いておいて下さいね? うちの店にある靴、全部」
「全部ですか!?」
「来店予約入ってないので、半日もあれば終わると思いますよ? 店長には僕から伝えておきますので」
出た……俺さま倉地さんの「僕」発言。この一人称が出る時は私に拒否権は無い。
しかし、店長の叔父さんならともかく。どうして倉地さんにそんな決定権があるんだろう。
後になって振り返ると、この時の私はやり遂げた達成感から浮かれており、どうかしていたと思われる。
あまりに横暴な振る舞いにムクムクと反発心が沸き上がり、つい口にしてしまった。
「そんな事を言うなら手羽先にしますよっ!」
思いっきり叫ぶと、倉地さんからの無言の視線が突き刺さる。
最初の頃に倉地さん対策として武ノ内さんが教えてくれたものだ。
あの時は本当に効果があるんだろうか、と訝しんだものだけど。口にした今も効果抜群どころか、荒ぶる邪神を喚び起こしたようにしか思えない。
「今のは、ちょっとした冗談と言いますか」
「河童と化け猫、どっちだ?」
「……河童です!」
鋭い殺気を放つ倉地さんは、それはもう良い笑顔で笑いかけた。あまりの恐怖に私は涙目で後ずさる。
きっと、天変地異の前触れってこんな感じなのだろう。本能的な危機感からあっさり武ノ内さん(河童)を売った。
「そうですか。武ノ内さんが仰ったんですね?」
「はい…」
ついでに言うと叔父さんは化け猫じゃなくて、猫又だけど。
そう思ったものの、それは言ってはいけない事だと瞬時に察した。
私の目の前にいるのは“鬼”である。
今にも金棒でフルスイングしかねない怒り狂った鬼に、この場で間違いを指摘するほど命知らずではない。
「靴磨き、お願いしますね?」
「はいっ! もちろんでございます!」
あまりの恐怖に指先をピーンと伸ばし、直立不動で答える。倉地さんは念押しすると、ニコッと笑って颯爽と飛び立った。
漆黒の翼をバサッ、バサッとはためかせる音が遠ざかると、私は役目を終えたストラップをやるせない思いで眺めるのだった。
◆◆◆
「恵比寿天様っ!?」
帰宅後、何気なくスマホで検索して叫んだ。
お店で言われた時も聞き覚えはあったけど。あまり神仏を身近に感じる事の無い生活で、どういった存在なのか直ぐに思い出せなかった。
(今どきの神様って鮮魚じゃなくて、木彫りの鯛を持ち歩くの!?)
新郎:海老沢 和明様。種族:恵比寿天様。
左手に鯛を抱え、右手に釣竿を持った漁業の神で、商売繁昌の神様として有名な神様。
言わずと知れた七福神の一柱である。
そんなすごい有名神と会話をした事も。その御利益が倉地さんの秘密に使われた事も。
全部まとめて「え~~っ!?」の一言に集約され、母からは近所迷惑だと叱られて散々だった。
同じ蒸れた空気でも真夏の空気はアイロンの蒸気みたいで、思わず顔をしかめてしまうのに。六月のしっとりした空気には情緒を感じる。
まだ梅雨も明けていないのにもう夏の事を考えているなんて。何だか可笑しくて笑ってしまう。
「ふふっ」
「鬱陶しい上に、暗がりで笑われると不気味なんですけど」
「すみません!」
倉地さんは冷ややかに毒づく。いつもながらドライな少年である。
真面目な顔付きをしてみたものの、気を抜くとつい口元が緩んでしまう。
言ったそばからこれだ。そんな呆れた目で見られても、これは不可抗力だから仕方ない。
通勤用の鞄にストラップを付けてある。姫和さんも少し表情が明るくなったし、お二人の夫婦仲も深まった。
神様から授かった祝福ってのがよく分からないけど。それはそれ。
今日の事を思い出してニヤけると、遂に倉地さんは相手をするのも面倒になったらしい。
浮かれる私を放置してドアノブに手をかけ、軽く揺する。内側から施錠されている事を確認すると手を離した。
「思った以上に根性あるのは認めます。正直、すぐ辞めると思っていたので」
「今追い出されても行く宛てがないので」
また就職活動に戻るなんて御免だ。私は苦笑混じりにポリポリと頬をかく。
「地味な作業は多いし、結構体力仕事のとこあるし。その割に接する機会の多いウェディングプランナーと違って、直接感謝される事も少ない。
思ってたのと違う、ってのも分からなくもねぇ」
(倉地さん、今日はどうしちゃったんだろう?)
帰りがけに雑談をするなんて珍しい。素の口調に戻っているし、いつになくしおらしい。
「でも相沢さんは辞めなかった。しぶといって言うか、諦めが悪いって言うか」
「んん?」
「後でギャーギャー騒がれても面倒なので、今教えとく」
くるりと背中を向けると、倉地さんはスタスタ歩き始めた。てっきり付いて来いという意味だと思い、一歩踏み出すとジロッと睨まれる。
「えっ?」
一メートルほど歩いた所で立ち止まると、クルッと私の方に向き直る。
次の瞬間、バサッと大きな羽音がしたかと思うと、倉地さんの背中に鳥の翼が現れた。翼が黒く塗り潰されたように見えるのは辺りが暗いからではない。
倉地さんは黙っていればキラキラした美少年だし、接客中の顔は天使と呼べなくもない。
……という事は。
「堕天使ですね!」
「烏天狗だ。親が迎えに来るってのは嘘で、いつも飛んで帰る」
「飛んで帰る!?」
「……公共機関を使うと必ず痴漢に遭う。最初は女と間違えてんのかと思ったが、何故だか男だと分かっても触り続ける野郎がいやがんだよ」
私が一々驚くからか、倉地さんは酷く鬱陶しそうに顔をしかめる。
飛んで帰る所を誰かに見られたりしないのかな。このご時世、そういう部分は気にした方が良いのでは。
あやかし事情を心配していると不意にカサッと何かが擦れる音がした。何気なく拾い上げてそれを認識した瞬間、大きく目を見開く。
(まさか、倉地さんの秘密に御利益が使われたの!?)
信頼されたのは嬉しいけど、それはちょっと話が変わってくる。
神様の御利益と言うくらいだから、高級和牛とかリゾートホテルの宿泊券が当たるとか。そういう、スケールの大きい幸運を想像していたのに。
渋い表情でため息をつくと、何かを察した倉地さんは貼り付けたような笑顔で一歩、また一歩と詰め寄る。
「そろそろ靴を磨かなきゃなー、と思っていたんですよ」
「靴?」
なんでいま靴の話?
話の飛躍っぷりに困惑したものの、肌で感じる凄まじい怒気にツッコミを控える。
「忙しいとサイズを確認せず箱に突っ込むから、箱に銘記してあるサイズと内容が合ってない事が多くて」
「そう、ですね」
「ですから明日、中身を確認して正しい箱に入れ替えて貰えます?」
「えっ、明日!?」
男性用・女性用だけでも沢山あるのに。
そこに洋装用の革靴やヒール、和装用の草履があり、更に豊富なサイズ展開まで加わる。
棚一面に並ぶ靴の箱は見る度に圧巻で、見上げると首が痛くなる。
「ついでに乾いた布で磨いておいて下さいね? うちの店にある靴、全部」
「全部ですか!?」
「来店予約入ってないので、半日もあれば終わると思いますよ? 店長には僕から伝えておきますので」
出た……俺さま倉地さんの「僕」発言。この一人称が出る時は私に拒否権は無い。
しかし、店長の叔父さんならともかく。どうして倉地さんにそんな決定権があるんだろう。
後になって振り返ると、この時の私はやり遂げた達成感から浮かれており、どうかしていたと思われる。
あまりに横暴な振る舞いにムクムクと反発心が沸き上がり、つい口にしてしまった。
「そんな事を言うなら手羽先にしますよっ!」
思いっきり叫ぶと、倉地さんからの無言の視線が突き刺さる。
最初の頃に倉地さん対策として武ノ内さんが教えてくれたものだ。
あの時は本当に効果があるんだろうか、と訝しんだものだけど。口にした今も効果抜群どころか、荒ぶる邪神を喚び起こしたようにしか思えない。
「今のは、ちょっとした冗談と言いますか」
「河童と化け猫、どっちだ?」
「……河童です!」
鋭い殺気を放つ倉地さんは、それはもう良い笑顔で笑いかけた。あまりの恐怖に私は涙目で後ずさる。
きっと、天変地異の前触れってこんな感じなのだろう。本能的な危機感からあっさり武ノ内さん(河童)を売った。
「そうですか。武ノ内さんが仰ったんですね?」
「はい…」
ついでに言うと叔父さんは化け猫じゃなくて、猫又だけど。
そう思ったものの、それは言ってはいけない事だと瞬時に察した。
私の目の前にいるのは“鬼”である。
今にも金棒でフルスイングしかねない怒り狂った鬼に、この場で間違いを指摘するほど命知らずではない。
「靴磨き、お願いしますね?」
「はいっ! もちろんでございます!」
あまりの恐怖に指先をピーンと伸ばし、直立不動で答える。倉地さんは念押しすると、ニコッと笑って颯爽と飛び立った。
漆黒の翼をバサッ、バサッとはためかせる音が遠ざかると、私は役目を終えたストラップをやるせない思いで眺めるのだった。
◆◆◆
「恵比寿天様っ!?」
帰宅後、何気なくスマホで検索して叫んだ。
お店で言われた時も聞き覚えはあったけど。あまり神仏を身近に感じる事の無い生活で、どういった存在なのか直ぐに思い出せなかった。
(今どきの神様って鮮魚じゃなくて、木彫りの鯛を持ち歩くの!?)
新郎:海老沢 和明様。種族:恵比寿天様。
左手に鯛を抱え、右手に釣竿を持った漁業の神で、商売繁昌の神様として有名な神様。
言わずと知れた七福神の一柱である。
そんなすごい有名神と会話をした事も。その御利益が倉地さんの秘密に使われた事も。
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