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第二話 あやかし
しおりを挟む「ちょっと待ってて。雨戸開けたらお茶出すから」
割烹着を着た少女が南側の雨戸を外す度に、光が部屋を貫く。
来た時には気がつかなかったが、ここは信じられないほど景色がいい。
八幡宮では高みを飛んでいたトンビが、碧と蒼の分割線を縫ってクルクルと舞っている。
「あの」
客間に突っ立ったまま、私は間抜け声をあげる。こんな所で、何をしているのだろう。
「人間には秋津と名乗っているから、取りあえず、そう呼んで」
人間では無いような言い草だ。‘呼び声’と言い、トンボの冠と言い、不思議なのでそうなのかもしれ無い。そしてなぜ、それを私に明かすのだろうか。
「芹沢 神流です。それで……」
……私を呼んだのは貴女ですか?
「呼んだのは私。応じたのは神流。座って」
「でも、どうやって……」
間違えた。なぜ私をと先に聞くべきだった。
「……呼んだか? 私があやかしだから」
風が室内の空気を一掃したので、滞留していた匂いにかえって気がついた。美術の授業で使った油の匂いだ。襖二枚隔てた小部屋には、イーゼルが据え付けられている。そこには見たことが無い大きさのキャンバスが数枚立てかけられていた。
「秋津さんの本業は画家さん?」
脈絡が無いとは思ったが、あやかしと聞いてそれ以上の質問を思いつかなかっただけだ。
「それは趣味。本当は神と名乗るべきなのかも知れ無いけど、私を知る人は少ない。何でもできるけど、力不足で何もできない。神未満、だからあやかし」
「神って八百万のほう?」
「そう。もう長いこと生きている。佐殿(源頼朝)が鎌倉を攻めた時のことも覚えている。いや、新田(新田 義貞)か。ともかく武家のこと」
割烹着を脱いだ彼女は、盆に急須と湯飲み二つを載せて台所から出てきた。観念した私は座布団に腰を下ろす。
彼女が身にまとう浅黄色の和服は、金木犀の香りをまとって斜日に輝く。
自虐だろうけれども、あやかしという呼び方も似合っている。
「急須のお茶は久しぶり」
勧められた緑茶に手をつけると、香りを楽しんだ。先生がよく淹れてくれた。
「伊藤園の茶葉だけど、なかなか良い」
「そう」
「神流、あやかしにならない?」
舌で転がしていた熱いお茶を胃に流し込んでしまった。あまりにも藪から棒だ。
「ほ、他を当たってください」
「あとをお願いする訳じゃない。ただ留守を頼みたいだけ」
「なるほど、出雲に行くのですね」
そろそろ旧暦の神無月だ。神々は出雲に集うと聞いたことがある。
「海外に行きたい」
神様同士、喧嘩にならないのだろうか?
「一度でいいから日本の外を見てみたい。でも忘れさられたと言っても社はあるし、日本を離れると私は消えてしまうかも知れ無い。だから留守居をお願いしたい」
あやかしは、まだ見ぬものを望んで、遠くに焦点を合わせる。
「勝手な話。引き受けたとして、人間に戻れるのです?」
「戻れない。永遠に」
あやかしの件は断ったにも関わらず、遅くなった私は勧められるがまま夕食をご馳走になった。
味噌汁を飲み、香の物をボリボリと喰む。先生は和食が得意だった。だから彼女のご飯は、先生と一緒に作った夕食に通じるところがある。
「神流はあまり食べない」
「お腹減らないから」
先生を失って以降、食に欲が湧かない。いつも最低限のジャンクを流し込んで、身体を維持している。
そのせいでガリガリに痩せている。
「でも味わってる。食べに来ても良いよ」
「神様って、ご飯食べるんですね」
「本当は必要ないけど、神饌には手をつけるし、俗な私は買っても食べる」
「お賽銭で足りるんです?」
「横浜で仕事してる」
秋津さんが、パソコンに向かっているところを想像する。言うほど似合わない訳では無い。
食後の伊藤園を飲み干すと、食事の礼を言う。
「ご馳走様です、美味しかった」
「どう致しまして」
「あの、私はもう来ないけど、いい人見つけてください」
「神流、それも人の縁。でもね呼びかけに応じたということは、神流には望むものがあるんだ。戻っておいで」
肌寒くなり、雨戸を立てるのを手伝う。
太陽は沈み眼下の鎌倉を紫に染めた。アキアカネの群れが庭を埋め尽くす。
「あ、スマホ」
用事を思い出したのは、北鎌倉で駅に入ろうとした時だ。
「いいか」
モバイルSUICAが使えないのは不便だったが、新しいスマホに緊急性を感じなかった。トートバッグを探り、電源が入らないスマホを撫でる。
使っていたのはLINEばかりだ。先生との思い出が途切れたあの日までは。
裁判で色々ばれて友達は一斉に離れたが、都合が良かった。過去以外には興味が無くなったから。
電車はゆっくりとした勾配で、大船に下る。
明日は大学に行こう。時間は止まったままだけれど、あの時先生と選んだ道なのだから。
私の家は藤沢駅郊外にある半世紀以上経ったボロマンションの一室だ。母親が死んだあと、父親は逃げるようにして北海道に帰った。私は神奈川に置き去りにされた。父親は娘が母親の質を深く受け継いでいることに恐れを抱いたのだ。
それからずっと一人暮らし。先生との逢瀬はもっぱらこの部屋だったから、都合が良かった。
扉を開けると、不相応な大きさの冷蔵庫が右手にある。二人分の食料をいっぱいに詰め込んだ。今はほとんど空だ。ベッドに腰かけると服を洗濯機に放り投げる。ほとんどの家電製品は大きめだけれど、ベッドだけはシングルだ。それでも先生は私を床に落としたことが無い。
忙しかった今日一日を振り返る。
私が庇った中学生は大事にならなかった。助けたのは本意では無かったけれども、無事ならそれで良かった。
そして八幡宮の参道で、‘あやかし’に呼ばれた。
秋津と名乗った気の抜けたハスキーボイス。
力の証拠をほとんど見せていないにも関わらず、彼女の言葉がはったりであるとは思えなかった。
「報酬が何か聞かなかったな」
こんな大それたことが無償な訳が無い。私には望むものがあるとあやかしは言った。でも……もう断ったことだ。
私はブラを放り投げると、浴室に向かった。
「先生!」
私は飛び起きて、ベッドから転がり落ちかけた。
室温は肌寒かったが、身体はほてり脂汗が出ている。
確かに見た。先生は死の国へ向かう道の途中で留まっている。そこで苦しんでいる。
夢では無い。この世でも無い。死の国で起きていることだ。
見えなかったものが見えるようになった原因は一つしか無い。あやかしの力。
彼女の言葉を思い出す。
『でもね呼びかけに応じたということは、神流には望むものがあるんだ。戻っておいで』
私の望みは全て先生のこと。考えれば簡単なことだ。
「先生、待っててね……」
……きっと苦しみから解放するから。
時計を見上げる。夜中の二時だ。頭を搔こうとして髪が濡れていることに気がついた。パジャマも着ていない。シャワーを浴びてベッドに倒れ込み、そのまま寝てしまったようだ。
秋津さんの家に行かないと。あやかしは寝るのだろうか?
髪の匂いを気にしながら、ブローした。
藤沢と鎌倉を隔てる山をタクシーで登りながら思案する。
話を受けるとして、あやかしという存在は定命の人間に執着するだろうか。
秋津さんは俗な方なのかもしれないが、それでも浮世離れしている。
私が装うものとは本質的に違う、本当の孤独が見え隠れしている。おそらく記憶は薄れいくものなのであろう。
そうであったとしても、先生を救えるのなら思い出を差し出そう。先生との思い出さえも。
タクシーは砂利道で迷い、私は真っ暗な山中に放り出された。そこからは不思議に迷わなかった。
呼び鈴を押すのを躊躇していると、中から声がかかる。
「押さずに入って。開いてるから」
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