女官になるはずだった妃

夜空 筒

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第二章

第十九話

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◇◇◇




詩涵の室には海沄、灯氾と黎がいた。


「この者たちをどうしろと?」
「好きなだけ仕返しをすればいい」


嬉々としたように言う海沄に、詩涵は理解が出来ないというように目を向ける。


「海沄様、仕返しをどういうものだと思っておられるのですか?」
「やり返す、ということだと」
「…やり返す、というのは正解です。ですが、こんな風に差し出されてから仕返しをするのでは弱い者いじめと変わりがありません。海沄様に目を付けられ、反省をした彼女たちにこれ以上を与えるのは人間らしくない」
「…俺は、間違っただろうか?」
「可愛いので及第点」
「真顔でなんてことを言うんだ」


詩涵は二人に目を向ける。


「灯氾と黎、ね。少しだけ質問があるのだけど、それにだけ答えてくれるかしら?」
「…は、はい」


二人は毒で臥せっていると聞いていた詩涵がぴんぴんしているのを見て、まだ驚いているようだった。


「あなたたちに知り合いの侍女に、足を引きずる子はいるかしら」
「はい。おります。迎絳浜こうひんという、侍女です」
「そう。ありがとう」


それだけを聞くと、詩涵はもう聞くことはないと言わんばかりに海沄と話を始める。


「え…」
「あら、どうかしたの」
「それだけですか」


心底不思議そうな顔をしている二人に、詩涵はにっこりと笑いかける。


「余程罰が欲しいのね。いいわ。凌梁について行って、そこであなた達に罰をあげるわ」


詩涵がそう言うと、凌梁が現れて二人を連れて行った。
海沄は不思議そうな顔をして、詩涵を見つめた。


「なぁ、罰は与えないんじゃなかったのか?」
「あっちが望んだので、庭の手入れをさせます。あと、おつかいも」
「水をかけ返すのかと思っていたんだが」
「それもいいですけど、国の一番に目を付けられた彼女たちには重すぎます。同じだけを返すのが私ですから」
「…もやもやするな。詩涵は曖昧だったかと思えば、急にはっきりと線を引いたりするから、よく分からない」
「私の中ではちゃんとした線引きに基づいていますよ。海沄様と私の線引きが異なるだけのお話です」
「…また一つ、貴女を知らなければならないな」
「他にもっとあるでしょう」


詩涵は苦笑いを浮かべて、海沄の前に立った。


「最近は眠れているのか、今日は何を食べたのかとか、そういうことが」
「最近はよく眠っているし、粥を食べていただろう」
「…どこまで知っているのか分かりませんけれど、そういうことは本人に聞いてから知るものですよ。だから会話も盛り上がらないんです」
「俺と話すのは楽しくないか?」
「楽しいですよ」
「…本当に?」
「本当です。だから、こうしてずっと話しているんです」
「…なら、いい」


ふっと唇を緩めて、目を撓う。
つう、と奪われるように詩涵の視線が彼に縫い付けられる。
不思議な気持ちになる。
ずっと見ていられそうで、見ていられない気持ち。
ばち、と目が合ってしまえば一気に目の前が鮮やかに弾けて、妙にいたたまれなくなる。
何も変なことをしていないのに。


「…どうかしたか?」
「いえ…」
「頬が赤いように見えるが…、熱でも出てきたか」
「あまり見ないでください」


ふい、と顔を背ける詩涵に、海沄は少しむっとした表情を浮かべた。
心配なのに、それすら嫌がられるなんて。


「詩涵」
「なんですか」
「こっちを向きなさい」
「いやです」
「いいから」
「…いやです」
「こっち向いてくれ、詩涵」


ん?と優しい声で重ねられてしまえば、なんだか彼が可哀想になってしまって。
自分が恥ずかしいと思うのも訳が分からないのだから、彼にしてみればさらに意味不明だろう。
ふう、と息を吐いてから恐る恐る顔を正面に戻す。


「ふは、眉が下がってて可愛いな」
「…」


優し気な眼差しが、自分を貫く。
伸ばされた手を弾いてしまいたくなるほど、恥ずかしい。
頬に手が触れた時、なんだかとても耐えられなくてぎゅうと目を瞑った。


「…可愛いな、ほんとうに」


頬にある手を、妙に意識してしまう。
すりすりと動く彼の親指がくすぐったい。


「くすぐったいです」
「…ん?」


それでも動く手を、我慢できずにぎゅっと掴んだ。


「や、めてください」
「やっと目が合ったな」
「意地が悪いです」
「心配をしただけで顔を背けられる辛さがわかるか?結構寂しいものだぞ」
「ごめんなさい。なんかすごくいたたまれなくなってしまって」
「まぁ、なんとなくわかってはいたが」


優しすぎるほどのひそやかな声。
微かに掠れる低い声が、妙に心臓を騒がせる。

嫌な騒ぎ方じゃない。
嬉しいし、こんな感情が楽しいとすら思う。

おかしい。


「詩涵?」
「は、はい」
「どうした?」
「だ、だいじょうぶです」
「大丈夫じゃないだろう」
「じゃ、じゃあ…ちょっとだけ離れてもらえませんか」
「…どれくらい?」
「一歩下がって頂けるだけでも助かります」
「助かるな」


海沄は不服そうな顔をしながらも、詩涵から一歩離れた。
あからさまなほどに安堵する詩涵にむっとするが、別に困らせたいわけではないから大人しくする。


「詩涵、どうしたんだ」
「どうしたもこうしたもないですよ。海沄様のせいです」
「俺のせい?何かしたか?」
「何もしていないです。強いて言えば、顔です」
「顔?」


ぺたぺたと自分の顔を触ってみる。
何か変だろうか。


「はい、天然。可愛いです。よってもう一歩お下がりください」
「なんでだ!」


そう叫んで、困った顔をする海沄を幸せそうな顔で見つめている自分に気付いていない。


この心に芽吹いたのはきっと新緑のように鮮やかでいて、花咲けば己が壊れるかもしれないもの。
だけどきっと何よりも大切に違いないもの。
失うことが恐ろしくて、何より自分を突き動かすもの。

きっと今、浰青さんの本を読んだなら、この正体がすとんと腑に落ちてしまう気がする。

それが、今は少し怖い。
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