女官になるはずだった妃

夜空 筒

文字の大きさ
上 下
15 / 20
第二章

第十五話

しおりを挟む
◇◇◇






詩涵しーはんの傍は心地がいい。
目を覚まして隣を見れば、あどけない顔をしたままで眠る彼女がいる。


海沄はいゆんの朝は早い。
国一番だという自負がある。
しかし、最近はちょっと早すぎるんじゃないかと思っている。
詩涵ともう少し長く眠っていたい。
あわよくば、起きようとしない自分を起こしてほしい。

朝議、無くすか…?と真剣に考えている。
毎日早朝から俺の顔を見て仕事に行くのは、臣下もつらいだろう。

でも、それだけじゃないから朝議を無くせない。



「詩涵」
「…はぃ…」


寝起きで掠れた声を聞くのが好きだ。
しぱしぱと目を懸命に瞬かせるのも、愛らしい。


「俺は朝議の用意があるから、もう行く」
「…んーたいへんですねぇ…」


眠そうだな。
これが可愛くて、毎朝わざわざ起こしているのだが。
必ず口を滑らせるときがあるから。


「朝餉はちゃんと食べるんだぞ」
「海沄様も、いっしょに」
「俺は朝議がある」
「んー…やだ…」


これが聞きたいがために本来より少し早く起きている。
詩涵の意識が覚醒する前のちょっとしたやり取り。
覚えているのは自分だけだろうが、それがまたいい。


「時間が空いたらな」
「…へへ」


…いや、今日も今日とて可愛すぎるな


寝台から下りると、小さな手が伸びてくる。


「…がんばって、ください」


が俺に届く前に、褥に落ちる。
すうすうと眠り始める。


「…今日はおしかったな…」


明日の朝への志を新たに、詩涵の閨を後にする。


庭に出ると羲和ぎおが迎えに来ており、すでに弦沙げんざもいた。


「…弦沙、行きがてら報告を」
「はい。昨日、見回りに行きましたところ…一緒にいた璉琳れんりんを狙い、刀子とうすが投げられました」
「怪我は」
「ありません。璉琳は耳が良いので、投げられた方向にすぐさま娘娘の薬玉を投げ返しました」
「…詩涵は薬を…作れるのか?」
「詩涵様の母である秋己様は薬師でございますので、簡単な薬…風邪薬や咳止め、痛み止めくらいは作れると嵐雲様よりお聞きしました」
「…秋己様の薬よりもさらに苦くて臭いですが…よく効きます」
「…ふむ…臭いのする薬玉か…衣に付けば水洗いしたくらいで臭いは取れまいな」
「ええ。俺はぶつかった時についてしまって…娘娘の石鹸を借りて落としたことがあります」


足が止まり、弦沙を振り返った。
いきなりこちらを見た海沄にびく、と肩を揺らす。


「…詩涵の石鹸を、借りたのか」
「あ。えっと…未使用です」


なんだ未使用か。
ならばいいんだ。新品なら。


「……それにしても、そんなに強い臭いのする薬を作る詩涵からは、香の匂いしかしないぞ」
「はい。書物に臭いが移るのも、自分の室に臭いが残るのもお嫌いですから、裏手の小屋で薬碾を使ってお作りになります。風通しが良いからと、まあ風向きのせいで侍女に文句を言われますが…」
「それは…普段の衫裙に香を焚きしめてまくっている、ということか?」
「いえ、薬作りの際にしか着用されない衫裙があります。加えて沐浴がある日に限ってお作りになられるので、大家に会う際には臭いがないのです。それに娘娘は香を焚きしめすぎると嫌がりますので」
「そうか。薬の材料は、薬丞寮からか?」
「はい。滅多に作ることはありませんが、仕えている護衛宦官には痛み止めや傷薬を必ず持たせてくれます。最近は物騒なので、臭いが強いものをわざわざ作ってくださいました。服用するのではなく、身を守る用にと」
「璉琳はそれを投げたのか」
「ええ。昨日、手についた臭いが水では取れず…俺が貰った石鹸を貸しました」
「詩涵から貰ったのか?」
「娘娘が、石鹸を作ったからあげると…そんな簡単に手に入らないのにくださいました」
「…下賜品でも無ければ、石鹸なんぞ持っていないだろうからな…良い証拠だ」



また一個、紗綾しゃりんを追い込む証拠を見つけられる。
逃げ道を作っているつもりだろうが、これ以上好き勝手にはさせない。
自分の行いが自分の首を絞めていることに、気付かない。
愚かで、能の無い妃は、必要ない。


これは詩涵が皇后という座から逃げる道も、断る理由も無くすことにつながる。

用意は周到に、使えるものは何でも使うのが俺のやり方。
盤面を整えるのは、得意だから。


あぁ、楽しくなってきた。
少しは蓮翠宮に行ってやってもいいな。
どんなボロを出すか、どこまで取り繕えるか。
詩涵との将来の為に、泣き喜んで踏み台になってくれるだろうなぁ。


くはは、と笑いだす海沄に、二人はまた始まったと言わんばかりの表情を浮かべている。






***






梓涼宮に帰ってきた一人の侍女はびっしょりと濡れていた。
侍女に配布される涼やかな色をした衫も裙も、すっかり水を吸って重そうだ。
ぽたり、ぽたりと水が滴る髪。

なぜか結わえられていない。
長い髪を前に垂らしているせいで、知らない人が見れば誰かも分からない。


「ねえ…絨娘じゅうじょう?大丈夫?」


絨娘と呼ばれた水汲みの侍女が顔をあげる。
声をかけた侍女の黄玞ぎふの目がこれでもかと見開かれる。


「…にゃ、娘娘!?な、え!?」
「あはは~びっくりさせちゃった?絨娘が風邪で臥せったから、勝手に借りちゃった」
「か、風邪ですか!?そんな感じはしませんでしたけど…」
「――娘娘!なんで私の服を取って…ってええ!?娘娘!?なにやってるんですか!!」


本人が登場して、詩涵は黄玞からじっと目で責められる。


「…この格好をすると、なかなか私だって認識できないのねぇ…容赦なくぶっかけられたわ」
「……大家が知ったらなんと仰られるか…」
「あら、これは反撃の為の作戦の一つよ。やられてばかりじゃ、癪だからね。海沄様に許可も頂いたわ。真っ当な方法での防衛ならいいよって」
「…なにも水を被らなくてもよいじゃありませんか!お風邪を召されたらどうするんですか?春になったとはいえ風はまだ冷たいのですよ!早くお召し物を着替えになってください」
「ご、ごめんなさい…」
「というか…んふふ。娘娘、大家のことをお名前で呼んでらっしゃいますね!」
「あ…えっと…ちょっと着替えてこようかな!ほら、寒いし!」


ニマニマと笑みを浮かべた絨娘は、色恋に興味がある年頃。
耳聡いわね…若さって怖いわ…




詩涵は、夜着を着て髪が乾くのを待った。
凌梁に、璉琳、黄玞、絨娘の四人に叱られた。
無茶をしないでほしい、急にいなくならないでほしい、型破りすぎる、大家を名前呼びされるのは娘娘だけですよ!

最後だけ違うな。
あれ?お説教を食らっていたと記憶しているのだけども。
まぁ、最近落ち込んでいた絨娘が元気で嬉しいからいいけれど。



髪が乾いても、今日は出かけないので髪を下ろしたまま室に閉じこもる。
朝餉の準備が私のせいで遅れてしまったらしい。
お腹がすいたので反省します。
もうしません。たぶん。

麻の袋に入った干し棗を間食代わりに食べる。


海沄様に報告が行ってしまうそうです。
でも、あえて寝起きの感じを出して、髪を下ろしたまま水汲みに行って正解だった。
顔が見えないないから、容赦なくぶっかけられたし。
それでもこっちは相手の顔が見えるし。

と、言い訳をしてみる。
怒られちゃうかな…笑ってくれた方がいいのだけど。
型破りだな、とか言ってくれる方が嬉しいんですけれど。

ん?嬉しいの?
なんで?
分からない。


「…いやいや、嬉しくはないでしょ」


嬉しくはない。
でも、仕方ないなって笑ってくれるのは嬉しい。


「…可愛いは正義だからね」


眉が下がって、困ったみたいに笑う美形の顔は可愛いもの。

だからか、だから嬉しいのか!
そうだそうだ!


詩涵は、微妙にズレた答えを無理に正解にした。






***






海沄は、羲和からの報告に思わず椅子から立ち上がって転びそうになった。

大きな音を立てて、足を強打した彼に羲和は呆れたように笑う。


「…いった…」
「自分の足の長さを忘れるの、いい加減やめてくれ」
「うるさいぞ」


砕けた話し方をするのは二人の時だけだ。
この二人は乳母兄弟である。
側妃である母を持つ海沄と、その侍女で一番に信頼を置かれていた母を持つ羲和。


「なんで、詩涵が水を被ったんだ」
「海沄様に許可を貰った。これは反撃の作戦の一つだそうだよ」
「…俺のせいか」
「まぁ、十中八九は」
「八でありたい」
「いや九だな。皇帝からの許可はそれだけ重い」
「…詩涵なら、真っ当に反撃する。大丈夫だ」
「……心配で会いに行かれたいのは分かりますけど、まだ無理ですよ」
「嫌味な言い方だな。わざわざ、畏まりやがって」
「貴方様次第ですからね。いつ会いに行けるのかは」


報告を終え、さっさと出ていく羲和。
海沄は頭を切り替え、書類を捌いていく。


羲和であれば、予定の調整も上手くやってくれる。
だがあまり負荷をかけない為にも、仕事を早く終わらせて調整しやすくしてやらねば。


意気込んだ海沄は、ものすごい速さで目を通していった。
しおりを挟む
感想 34

あなたにおすすめの小説

平凡なる側室は陛下の愛は求めていない

かぐや
恋愛
小国の王女と帝国の主上との結婚式は恙なく終わり、王女は側室として後宮に住まうことになった。 そこで帝は言う。「俺に愛を求めるな」と。 だが側室は自他共に認める平凡で、はなからそんなものは求めていない。 側室が求めているのは、自由と安然のみであった。 そんな側室が周囲を巻き込んで自分の自由を求め、その過程でうっかり陛下にも溺愛されるお話。

婚約者を想うのをやめました

かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。 「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」 最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。 *書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。

下げ渡された婚約者

相生紗季
ファンタジー
マグナリード王家第三王子のアルフレッドは、優秀な兄と姉のおかげで、政務に干渉することなく気ままに過ごしていた。 しかしある日、第一王子である兄が言った。 「ルイーザとの婚約を破棄する」 愛する人を見つけた兄は、政治のために決められた許嫁との婚約を破棄したいらしい。 「あのルイーザが受け入れたのか?」 「代わりの婿を用意するならという条件付きで」 「代わり?」 「お前だ、アルフレッド!」 おさがりの婚約者なんて聞いてない! しかもルイーザは誰もが畏れる冷酷な侯爵令嬢。 アルフレッドが怯えながらもルイーザのもとへと訪ねると、彼女は氷のような瞳から――涙をこぼした。 「あいつは、僕たちのことなんかどうでもいいんだ」 「ふたりで見返そう――あいつから王位を奪うんだ」

公爵令息は妹を選ぶらしいので私は旅に出ます

ネコ
恋愛
公爵令息ラウルの婚約者だったエリンは、なぜかいつも“愛らしい妹”に優先順位を奪われていた。正当な抗議も「ただの嫉妬だろう」と取り合われず、遂に婚約破棄へ。放り出されても涙は出ない。ならば持ち前の治癒魔法を活かして自由に生きよう――そう決めたエリンの旅立ち先で、運命は大きく動き出す。

領地運営は私抜きでどうぞ~もう勝手におやりください~

ネコ
恋愛
伯爵領を切り盛りするロザリンは、優秀すぎるがゆえに夫から嫉妬され、冷たい仕打ちばかり受けていた。ついに“才能は認めるが愛してはいない”と告げられ離縁を迫られたロザリンは、意外なほどあっさり了承する。すべての管理記録と書類は完璧に自分の下へ置いたまま。この領地を回していたのは誰か、あなたたちが思い知る時が来るでしょう。

【完結保証】第二王子妃から退きますわ。せいぜい仲良くなさってくださいね

ネコ
恋愛
公爵家令嬢セシリアは、第二王子リオンに求婚され婚約まで済ませたが、なぜかいつも傍にいる女性従者が不気味だった。「これは王族の信頼の証」と言うリオンだが、実際はふたりが愛人関係なのでは? と噂が広まっている。ある宴でリオンは公衆の面前でセシリアを貶め、女性従者を擁護。もう我慢しません。王子妃なんてこちらから願い下げです。あとはご勝手に。

お飾り妻生活を満喫していたのに王子様に溺愛されちゃった!?

AK
恋愛
「君は書類上の妻でいてくれればいい」 「分かりました。旦那様」  伯爵令嬢ルイナ・ハーキュリーは、何も期待されていなかった。  容姿は悪くないけれど、何をやらせても他の姉妹に劣り、突出した才能もない。  両親はいつも私の結婚相手を探すのに困っていた。  だから受け入れた。  アーリー・ハルベルト侯爵との政略結婚――そしてお飾り妻として暮らすことも。  しかし―― 「大好きな魔法を好きなだけ勉強できるなんて最高の生活ね!」  ルイナはその現状に大変満足していた。  ルイナには昔から魔法の才能があったが、魔法なんて『平民が扱う野蛮な術』として触れることを許されていなかった。  しかしお飾り妻になり、別荘で隔離生活を送っている今。  周りの目を一切気にする必要がなく、メイドたちが周りの世話を何でもしてくれる。  そんな最高のお飾り生活を満喫していた。    しかしある日、大怪我を負って倒れていた男を魔法で助けてから不穏な空気が漂い始める。  どうやらその男は王子だったらしく、私のことを妻に娶りたいなどと言い出して――

本日より他人として生きさせていただきます

ネコ
恋愛
伯爵令嬢のアルマは、愛のない婚約者レオナードに尽くし続けてきた。しかし、彼の隣にはいつも「運命の相手」を自称する美女の姿が。家族も周囲もレオナードの一方的なわがままを容認するばかり。ある夜会で二人の逢瀬を目撃したアルマは、今さら怒る気力も失せてしまう。「それなら私は他人として過ごしましょう」そう告げて婚約破棄に踏み切る。だが、彼女が去った瞬間からレオナードの人生には不穏なほつれが生じ始めるのだった。

処理中です...