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三章 冬戦争

残されたもう一人の死神

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 コルッカはガルアットに手伝ってもらい、意識のないシモナを衛生兵の元まで運んだ。
 衛生兵はかなり驚いており、すぐに治療が施されたが、あまりにも重症のために軍事病院の方へと運ばれることになった。

「……シモナさん、お借りします」

 シモナがソリで運ばれたあと、コルッカは彼女のモシン・ナガン小銃を持ち、ソ連の領地と化したフィンランドの地域を見つめる。
 フィンランド兵にとって、シモナの負傷は予想外だった。ユーティライネンも戸惑っており、その最中にコルッカとガルアットは立っていた。

「どうするんですか親父!? シモナがいなかったら俺達はもう終わりだ!!!」
「落ち着け、なんとかなる大丈夫だ!」

 パニックに陥っている仲間兵を、ユーティライネンはそう言ってただ宥めることしかできなかった。

「でも、一番頼りになる狙撃兵があんな風になってしまっては……!!」
「私がいます!!」

 コルッカがすかさず声をあげる。
 視線がコルッカに集まり、次に出そうとしていた言葉を一瞬飲み込んでしまう。
 ……が、彼女はそこで臆するような乙女ではなかった。

「私は……私は、シモナさんの傍に一番いた狙撃兵です。私がなんとかします」
「出来るのか!? これは狩猟じゃないんだぞ!?」
「いいえ!! 狩猟と同じです!!!」

 聞いたことも無い大声をあげたコルッカに、ざわついていた味方兵は一気に静かになる。

「子ガモが親ガモを失えば散らばるのと同じように、主将を失えば他の最前線は退散するはずです」
「しかし……」
「狙撃兵は、その最前線を黙らせる簡単なお仕事です。最前線は黙らせるための援護をするだけです」

 なるほど、とガルアットは口にする。
『戦場』を『狩猟』だと考えれば、あとは獲物を仕留めるだけ。
 とても簡単なお仕事だった。

「……本当に、任せていいのか? コルッカ」

 ユーティライネンは不安そうに声をあげる。
 スオムッサルミに送り出す時、『シモナがいないと銃もろくに握れないのか』と叱責をした覚えがあるからだ。
『握れますし!! 私が凄いってこと、帰ってきたらビックリさせてやりますから!!』なんて言いながらシモナの背中を追いかけていくコルッカを、ユーティライネンは呆然と見守るしかなかったのだ。

「もちろんですよ。それに言いましたよね? ビックリさせるって」

 三歩歩いたところで足を止め振り返り、コルッカは領地から見える太陽の光を背に、こう呟く。

「大丈夫ですよ。一人で百二十人殺せばいいんですから」

 光が反射して、彼女の顔が影に覆い尽くされる。
 その時に見えた、を視界に入れた味方兵の誰もが思った。
『怒っている』と。
 恩師であるシモナが傷つけられたことによって、コルッカは少し頭にきていた。
 シモナの銃を強く握りながら、コルッカは必死に自分を見失うまいと心の中である言葉を唱えていた。
『これは練習だ』と。
 初めて一緒に寝た時、シモナが教えてくれた言葉だ。狩猟の練習だと思って戦場を赴けば、自然と銃は自分の手に馴染んでいると、シモナは言っていた。
 コルッカにとって、この言葉は自分自身を落ち着かせる言葉でもあった。
 それでも、頭にくることはある。

「さぁ、戦場ピクニックに向かいましょうか」

 クスリと笑って、もう一人の死神は呟いた。

 ***

 ソ連軍の観測兵が見たのは、少なくも向かってくるフィンランド兵の群れ。
 半分以上も下の戦力をもって、何をしようと言うのだろうか。
 と、思いかけた観測兵の目に映ったのは、鎌を構えた女性の幻覚。
 茶色の髪の毛に、身の毛のよだつほど不気味な赤い瞳。
 それはまるで『死神』のようだった。
 刹那、首元を狙撃され、意識を手放した。

「流石、シモナのそばにいただけあるね」
「でしょ? 私、こう見えても近距離派なんですよ?」

 フードローブに化けてコルッカに羽織られているガルアットの問いかけに、リロードをしながら彼女は呟く。
 弾数を確認すると、残りは五発。
 効率良く。一人ではなく、三人を殺す勢いで。
 そう何度も自分に言い聞かせながら、コルッカは撃ち続ける。
 ソ連兵の最前線はこちらに向かって、臆することなく銃を構えて突進を繰り返している。
 観測兵を殺せば、後は向かってくる敵兵リュッシャを蜂の巣にするだけ。とても簡単なことだ。狩猟よりは簡単ではないけれども。

「コルッカ! そっちはどうだ!!」
「問題ないです!」

 未だにユーティライネンは戸惑いを見せている。
 コルッカがあまりにもシモナに見えるからだ。死神の子は、やはり死神なのか……と思いながら、彼もまた応戦を始めた。

「練習は本番のようになんて言いますけど、本当なんですか?」
「実際には、『成るは厭なり、思うは成らず』って感じかな。何事も上手くいくわけじゃないし、上手く行かない事の方がずっと多いしね」

  呑気そうにガルアットは答える。
 人類みんなそうかも知れませんねぇ、なんて返されたものだから、彼も彼で少し驚いていたようだ。

「ところでガルアットさん」
「さん呼びとか違和感しかないわ……何?」
「偉いやつはどいつでしょうか? 私、こういうのには疎くて」
「あー……」

 少し悩んだ末、ガルアットは「あぁ、あいつ。あの毛皮帽子の」と、フードローブの一部が引っ張られるように動き、すぐ真正面にいる毛皮帽子を被った中年の男性を目に入れた。

「あれですか、またクソみたいな目をしていますね」
「言い方よ……」
「所詮は敵兵リュッシャですし、それ以外に表現のしようがありませんよ」

 すぐそばにいた味方兵が集束爆弾でばらばらになる光景を目にしたコルッカの目付きは、更にシモナに似てきていた。
 獲物を狩るような、あの鋭い死神の目付き。その場にいるガルアットでさえも、シモナと同じような圧力を感じて身震いをさせるようにフードローブが動いた。

「砲撃用意!!」

 そんな異国語がコルッカの耳に入る。
 着弾。狙撃兵のいる場所だろうか。
 風が左向きに吹いている。となれば……。

「右だね」
「右ですね」

 言葉が言葉が重なってしまい、思わず笑いながらコルッカは右に移動する。
 合わせて他の味方兵も右に避け、着弾と同時に一人の犠牲を出しただけで済んだ。
 コルッカはそのまま走りながら狙いを定める。
 前にシモナが教えてくれた、ある狙撃法をしようとしていた。それは、

「ふぇ?」

 ふわりと身体が浮く感覚を覚え、ガルアットは変な声をあげる。
 高く跳躍をしたのだ。
 弾が掠る音を耳に残しながら、コルッカは狙いを定める。

『身体の揺れは銃の撃ち方にそのまま影響する。じゃあどうしたらいいか? その揺れを無くせばいい。それが出来る唯一の方法は、伏せる、留まる───』

「……飛ぶ」

 引き金を引き、発射されたその弾丸は、毛皮帽子のソ連兵の頭を貫き、同時に後ろにいたもう一人の観測兵をも撃ち殺した。
 すぐに伏せて、降ってきた集束爆弾を回避する。
 まさに危機一髪の状況だった。弾丸が右頬にかすり、左腕に着弾した以外はなんの重症もなかったコルッカが、ガルアットには不思議でならなかった。
 何よりも、それを気にしないと言わんばかりに再び狙撃を始めたコルッカに驚き「コルッカ、もう大丈夫だよ。敵兵リュッシャが退いて行く」と慌てて声をかけて諭そうとした。

「いいえ、私はあの方々が許せません」
「でも、憎しみはただの自己満足だ! 今殺したってなんにもならない!!」
「じゃあいつ殺せばいいんですか?」

 冷たく言われたその言葉に、ガルアットはドキリとしてしまう。

「何人も何人も人を殺して、最愛の人を内乱で亡くしてしまった恋人のような感覚ですよ、私……。両親も領地の餌食になって、私は何に従えばいいんですか?」

 銃を下ろして、コルッカは子供のように声色を高くして呟く。
 ユーティライネンの撤退命令が入り、コルッカはそれ以上何も言わずに、立ち上がって拠点へと歩いていった。

「コルッカ、ガルアット」

 不意にユーティライネンに呼び止められ、コルッカは振り向く。

「コルッカ、ガルアット。君達に命令を下そう」
「……? なんですか?」
「病院に行って、シモナの容態を見ていて欲しい」

 それはあまりにも唐突な命令だった。
 それはもはや命令と言えないのでは……と言いかけたガルアットだったが、何をされるかが想像出来てしまいそれ以上の言葉を言うことはなかった。

「……私達が、ですか? でもそれでは、狙撃兵の戦力が……」
「あぁそうだ、なくなってしまう。でも、俺達はどうしても戦場にいなければならない。それは何故だか分かるか?」
「……祖国を守るため、ですか?」
「いいや、違う」

 ひと間置いて、ユーティライネンは再び呟く。

「俺達軍人には、帰るべき場所がないからだ。だがコルッカやガルアットは予備兵の立場であり、帰るべき場所がちゃんとある。それが理由であり、お前達にしか頼めない、唯一の命令だ」

 ユーティライネンは、真っ直ぐなその目でコルッカ達を見つめる。
 マンネルヘイム元帥と同じ、希望に満ちた勇敢な目。ガルアットはその目がなによりも辛い経験をした人の目だと知っている。
 普段シモナがガルアットやコルッカに見せる目と同じ目をしているからだ。笑顔を見せることも少ないシモナの目は希望と言うよりも『無』に近いが、勇敢に戦場を駆け回る姿はさながら三人とも同じである。

「……分かりました。後は任せます」
「僕からも。任せます」

 敬礼をして、二人は声をあげる。
 それを見たユーティライネンは、「任されたなら仕方ねぇな……」と、照れながら敬礼を返す。

「あと、俺から一つ謝っておくべきことがある」
「??」
「……シモナ無しでも、お前はやって行ける。その事が、今日で分かったよ。すまなかった」
「もういいですよ、気にしないでください」

 謝るユーティライネンを諭し、コルッカは申し訳なさそうに声をあげる。

「私も努力不足でしたから。シモナさんの背中を見ていると、なんだか頼もしくて」
「っはは、それは俺も分かる! あの背中は『死神』そのものだからな!!」
「あっそれシモナさんに言っておきますね」
「待って勘弁してくれ!!」

 クスクスと笑うコルッカに、ガルアットは少しだけ安堵した。
 衛生兵が手配してあったヘラジカの率いるソリに怪我人と共に座り、コルッカとガルアットはシモナのいる病院へと向かっていった。

 ただ一つ、シモナのモシン・ナガン小銃を手に持ちながら。
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