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第一章 その日々は夢のように

変な生物

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『……め! 姫! お待ちください!』

 あぁ。

 私を呼ぶ声が聞こえる。

 その名前は、どうか呼ばないで欲しい。

『姫! あなたにはこの国にいていただく権利があります!!』

 そんなの無いくせに。だってあなた達は。


 あなた達は、『お前ら』は─────


『鬼』なんだから。

 ブツンッと、映像が途切れる。テレビの消えたまっくらい部屋に取り残されたような感覚を覚えた。
 くらい。
 くらいくらい、そこのはて。
 頬に当たる冷たい何か。
 目を閉じてるんだ。
 開けなきゃ。
「……」
 視界が晴れる。
 真っ白な、本当に真っ白な、見惚れるほど綺麗なその景色の真ん中に。



 ────気がつけば僕は、そこにいた。

 *

『シモナ、そっち行った』
 無線で聞こえてくる仲間の声。
 銃を構え、獲物を目で追う一つの影。
 やや曇り空の下、十二時三十分。フィンランドの森の中で、狩猟は行われていた。
「了解。見つけた。犬は?」
『こっちから追い込ませてる。俺はもう一体の方を仕留めるから、そっち頼んだぞ』
「あぁ」
 引き金を引く。リロードを含め三発連続で撃たれた弾丸は、獲物の身体を段々と蝕んでいく。
 やがて倒れた獲物は暫くの間痙攣している。
「……ごめんな。すぐ楽にしてやるから」
 ナイフを心臓付近にあてがい、ゆっくりと突き刺す。
 そうして獲物は、動かなくなった。

 ────いつしか、動物の命を奪う側になってから、考えたことがある。
「命って、こんなに簡単に奪えたっけ」と。
 無線を切る。倒れて息を引き取った鹿の亡骸の傍に座り込み、


 ……その女性は、一雫の涙を流しながら、手を合わせて静かに黙祷していた。

 ***

「シムナ、先昼寝してるぞー」
「ん……あぁ」
「シモナ、今日はどこ行くんだ?」
「いつものところだ」
 『シモナ』やら『シムナ』やらと呼ばれたその人は気だるげに答える。
 時刻は三十分経過した十三時。ここは狩猟小屋。獲物を狩る者達が集まる、憩い……と言うまでは無いが、彼女達が集合場所や休憩場所として使用している木製の小さな小屋だった。
「……さて、行くか」
 ぼそっと呟き、その者は外へ出る。
 先程まで空を覆っていた雲は立ち退き、辺りは太陽に照らされて白銀に輝いていた。
 その者は愛銃のモシン・ナガンを右肩に下げ、薄茶色のコートの上に、真っ白なフードローブに身を包んでいる。
 黒く長いマフラーを首に巻き、余り尾は後ろに回し、邪魔にならないようにしていた。
 彼女の名は『シモ・ヘイヘ』。
 後に『白い死神』と呼ばれたフィンランドの民兵軍人であり、一○○日間でソビエト連邦軍人五五○人を殺害した人物。
 シモ・ヘイヘは後線で狙撃兵として活躍していたが、そんなフィンランドの戦場で静かに人を撃ち殺していた、我々の知る『シモ・ヘイヘ』という存在は、本来は男性。
 ────しかし、このシモ・ヘイヘは『女』なのである。
 彼女がまだ軍に入る二年前、十八歳の時から物語は始まる。
 これから軍に入るなど考えもついていない、まだ純粋な心を持っていた時だった。

***

「……少し調整が必要だな」
 構えるのをやめ、銃をあちこち見ながら呟く。
 シモナは、事前に置いておいた狩猟用に練習していた的を二〇〇メートルほど奥に立てておき、その的を目がけて延々と空砲を撃っている。
 春、夏になり、畑の手伝いに行った時も、秋、冬になり、狩猟を主に生活する時も、ここフィンランドの南側に位置するラウトヤルヴィ町の森中の昼間は、必ずと言っていいほど銃声が響き渡っていた。
「ん?」
 木に登って狙撃練習をしていた視界より少し下に、生き物のような者がいるのが分かった。
 気のせいかと思い、彼女はまた空砲を撃ち続けた。
 ……しばらく経って、シモナはまたそれを見た。
 あろう事か、それはまだ同じ位置にいる。どうやら動く気は無さそうな様子。相手も彼女には気づいているようで、シモナと森の景色を交互に見ながらその場に座り込んでいた。
「なんだ? ここら辺の迷い子と言う訳じゃなさそうだし」
 さすがにおかしいと思い、シモナは空砲をやめてそれに近づいた。
 ひんやりとした雪の感触が、コート越しに身体を包む。
 今日は少し寒い。シモナの鼻は冷え込みのおかげか少し赤くなっている。
「え、何こいつ……」
 寒そうにフルフルと震えていた動物的なそれは、シモナの身長よりも小さな者であった。
「……………」
 手持ちの温度計で現在の温度を見る。
 マイナス三十八度。
 そりゃ寒いわけだ、とつぶやきさらにそれへと近づいた。
 どうやら逃げる様子もなく、雪に包まれたままただくるまって震えているだけだった。
「……おいで、寒いだろう」
 銃を肩に下げ直し、極力優しく声をかけた彼女の声に反応し、ゆっくりと顔をあげたそれはしばらくシモナを見つめる。
「どうした?」
 未だに震え続け、やがて首をかしげたそれを見てようやく気がついた。
「……あ、つい癖で……」
 話していた言語はフィンランド語だった。
 思わず出てしまったその言葉に彼女は少しだけ口を噤む。
 ………軽く咳払いをして「……これで分かるか?」と彼女は呟いた。
 雪に包まれていたそれはこくこくと頷いた。そりゃもうシモナでも分かるくらい。
 そいつが分かる言語は『日本語』だった。
 正直に言って、シモナはフィンランド語よりも、日本語の方が話しやすい傾向にあった。
 何も自分から学んで日本語が話せるようになった訳では無い。
 こうして話せるのも、彼女が過去に日本に住んでいた事がきっかけであった。
「……話せないのか、お前」
 そいつはこくりとも頷かず、シモナのフードローブに頭を潜り込ませた。
 ……やがて暖かいと感じたのか、頭を出してシモナを見つめてくる。
「わ……ふふっ」
 彼女の顔に、思わず笑みが零れてしまった。
「……うち来るか? 色々いるけど」 
 抱き上げてシモナは言った。
 またこくこくと頷いて、ローブの中に頭を突っ込むそれが面白くて、シモナはまた笑ってしまう。
「行こうか。ここから拠点までは少し遠いが……暖かい故、凍死することは無いだろう」

 歩き出した彼女の後ろには、小さな足跡が点々と残っていた。
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