蒼雷の艦隊

和蘭芹わこ

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第一章 ボクが軍人になる前のこと

遠洋航海

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 戦前、食べるのに困らないボクでさえも、海外というのは滅多に行けないような存在であった。
 だから、ボクを含む候補生の皆に動機を聞いた時、口々に言う。
遠洋航海えんようこうかいに憧れていた」と。
 ボクももちろんその一人。海外になんて、生涯行ったこともない。だから、ボクは訓練中も少しだけワクワクしていた。
 遠洋航海は、約二ヶ月後の十一月七日に行われた。
 その前にも、ボクら候補生は一度とある外国に訪れている。
 ボクもワクワクしすぎてよく覚えてないけれど、訪問した国の海軍が軍楽隊を伴って歓迎式をしてくれて、それが終わると政府機関や名所旧跡を見学した。その夜には訪問国主催のレセプションに招待されて、外国の政府要人や海軍士官と交流をした。
「よく来てくれたね」と英語で話してくれて、思わず「大変でした」と英語で返すとビックリされた。そりゃあビックリするよね。
 ボクの乗っていた八雲の指導官である今泉少佐は、ボクら候補生にこう注意していた。
「欧米は日本と違ってレディ・ファーストだ。外国婦人には下品な英語は絶対使うなよ。特に誤って相手とぶつかったら『エクス・キューズ・ミー』ではなく『パードン』と言うのだ」
 今泉少佐は英語が苦手な故に発音が下手くそだ。ボクは心の中で少しだけ笑っていた。
 ボクはこの後、寄港地ごとに行われた柔道の稽古の主役を務めたのだけれど、これがまた他の候補生の嫉妬を買うことになるんだ。ボクは英語が流暢だし、人ともよく話すから、白人の女性にすごくもてた……というか、ボクに話しかけてくる白人女性が多かったんだ。もちろんボクも話を聞くのだけれど、そばで見ていた大井がジト目で見てきていたもので、それはもう大変だった。
 話しかけてきた白人女性の中で、一際幼い女の子が一人いた。どうやら子連れの人がいたようで、だいぶ後ろの方で母親らしき人物がペコペコと頭を下げているのが見える。ボクは話を聞いてあげようと座っていた椅子から立ちあがり、女の子に「おいで、どうしたんだい?」と促して、会場内でも人気のあまりない食事をするところに連れてってあげた。
「あのね、うんとね」
 椅子に座った女の子はマイアスと言った。マイアスはもじもじしながら英語で何かを言おうとしている。ボクはこう見えて子供は嫌いじゃない。女の子が話してくれるまで待つ心の余裕は充分にあった。
「あのね、私大きくなったら、お兄さんみたいな海軍の人になりたい!」
 キラキラした目でマイアスは言う。ボクはびっくりして「海軍の軍人になりたいの?」と英語で返す。
「うん! 今マイアスは十歳だから、十八歳になったら日本の海軍に入って、お兄さんみたいな軍人になって世界を救うの!」
 嗚呼。この子はまだ純粋な女の子だ。
 ボクは瞬間的にそう思った。ボクらは死ぬために海軍に入ったのと同然な存在。それを知らないだけでもまだマシだと思う。
「そっか、マイアスちゃんならきっとなれるよ。大丈夫」
 ボクはそう言いながら、マイアスの口元についた汚れをティッシュで拭き取る。
 幼い子供にこんなことを言わせるまでにしたのは、誰なんだろうか。
 無論決まっているじゃないか。この世界だ。戦争などボクは経験したこともない。でも、その戦争をおっ始めようとしているのは、紛れもない世界、お金、権力だろう。
 あんな紙幣一つで揺れ動くこの世界は、本当にどうかしている。
「どうしたの、お兄さん?」
 マイアスが不思議そうな目で見つめてくるものだから、ボクも不思議そうな目で見返してやった。すると彼女はニパッと笑い、「お兄さんと一緒の艦隊、乗れるかなぁ」と質問してくる。
「どうだろう、ボクもまだ見習いの軍人だから、もしかしたら死んでいるかもしれないよ?」
「えぇーっ、お兄さんは強いもん、大丈夫だよ!」
 頭を撫でられ、ボクは少し顔を赤らめる。幼い女の子に頭を撫でられるなど、置賜の幼馴染や譲くらいにしかないのだから、余計だ。
「あはは、お兄さんお顔真っ赤ー!」
「な、ボクだって人間なんだぞぅ! 恥ずかしい時は顔を赤らめるのが人間なんだから!」
 そう、人間なんだから。
 でも、兵器なんだから。
 そう教わったから。ボクらは兵器でいなければならない。それがどうしようもなく苦しくて、でもお国のためには……と、頭の中でずっとループしている。
 今なら引き返せるんじゃないか、と何度も思ったことがある。でもその度にボクは家族のことを思い浮かべてしまう。
 嗚呼、やっぱりボクって子供なんだな。
 改めてそう思う、九月の夜のことであった。
 
 その後、マイアスの母親と少し話し、ボクは親子と別れた。ボクの名前はきちんと教えてあるし、また会ってもボクのことを覚えてくれているだろう。そう願いたいものだ。
「あっ、おい工藤、どこ行ってたんだよ? 大井がもう中に入るぞって言ってたぞ?」
 ボクを見つけた近藤が駆け寄ってきて、心配そうに尋ねてきた。
「近藤、ボクらは死ぬために産まれてきたんだろうか」
「え? なんだよ急に」
 近藤は困った様子でボクに聞き返してくる。
「さっき、日本の海軍軍人になりたいって言っていた女の子と話したんだ。その時に、そう思ったんだ」
 上を見上げれば、満点の星空。すごく綺麗だ。写真に興味のあるボクは、この光景も是非写真に収めたかった。
 近藤も同じく星空を見据えながら言う。
「そんなんじゃないさ。俺らは国のために産まれてきたんだよ。そうじゃなきゃ、俺らは軍人なんかになっちゃいないさ」
 近藤はボクの頭に手を置く。
「ははっ、近藤の嘘つき」
「えぇーそんなんじゃないぞ!?」
「でもちょっと元気出たよ。ありがとう近藤」
 ボクがそう言うと、近藤はボクの方を向いて、「あまり気を張りすぎるなよ。お前、いつもそうやって一人で背負いこんで自爆するんだからよ?」と笑顔で言ってくる。
「……そうだね」
 言いながら、ボクはすぐ目の前に見える八雲に向けて歩き始めた。
 
 ***
 
 そうして時は過ぎ、二ヶ月後の十一月七日。
 とうとう遠洋航海の日。ボクらは横須賀に在泊している艦艇の登舷礼を終えて、横須賀港を出港した。
 この年、八月二十四日に加藤友三郎総理海軍大将が死去したことを知り、ボクらがちょうど災害派遣に呼ばれていた九月頃に、山本権兵衛大将が組閣したのだそう。
 十一月十一日には、最初の寄港地である上海に到着した。中国って大きい街のイメージがあったんだけど、本当に大きかったよ。
 この時、上海には英国の支那艦隊司令長官レベンソン大将がいた。これには流石にボクも驚いた。
 そのあと、大将は磐手に来艦して、儀仗隊による栄誉礼を受けた。
 上海出港後、今泉少佐は言う。
 「我々練習艦隊は、これから東南アジアを経由し、豪州を一周、内南洋を北上して帰国する。期間は約五ヶ月間。気を抜くなよ」
 地理に詳しい近藤が、解散後に教えてくれたのだけれど、はじめに内地巡航をして三ヶ月、行程は約六◯◯◯マイルになるんだって。キロで換算したら一万一◯◯◯キロくらいだ。
 そこから東南アジア、豪州、内南洋と言ったら、大体一万八◯◯◯マイル、三万三◯◯◯キロ。
 合計二万四◯◯◯マイル、つまり四万四◯◯◯キロも航海することになる。
「お、賢いな。俺たちが候補生だった時よりも長く航海してるんだぞ」
 今泉少佐はボクらの間に割り込んで言う。
「それだけ期待されてるんだ。頑張れよ、震災候補生」
 にっと笑顔を見せ、少佐は僕らの前を歩いていった。
 ボクと近藤は顔を見合わせ、同時に呟く。
「贅沢だなぁ……」
 その後、ボクら候補生はマカオ、香港、マニラ、シンガポールを経て、十二月二十五日に赤道を通り抜けた。マカオまでは冬服を着ていたボクらも、香港以降は季節が逆になるため、白一色の夏服を着た。
 だけど、艦内では大変な騒ぎが起きていた。マカオで二等水兵が三人、赤道を抜けてバタビアに行った同月十七日、二等機関兵一人が病死する大問題となった。おそらくの原因は寒暖差。日本は冬なため、熱帯の気候に身体がついていけなかったのだろう、と少佐は話した。
 兵学校で言われたのだけれど、軍艦の死去は水葬だ。遺体を入れた棺桶に日章旗を包み被せて、弔銃の発射後に棺桶に模擬弾頭の重りをつけて海底に放つんだ。ボクらはこれを、始めて間近で経験することになる。
 人の死は、じっちゃんの死で慣れてはいたけれど、どこか胸が締め付けられるような……そんな気がして、ボクは途中から下を向いていた。
 十二月十七日、葬いが終わった後バタビアに寄港した。久々の海以外の外の景色に感動して、見慣れないバタビアの街を見て回った。
 この時、近藤があるものを見つける。
 それは貝殻だった。白く光る綺麗なもので、近藤は目を輝かせながら、ボクに一緒に拾おうと誘ってきた。
 近藤って綺麗なもの好きなんだなぁとつくづく思う。実際に聞いてみると、「おう、母ちゃんが好きだったものだからよ、俺もよく母ちゃんについて行って貝殻を拾ったりしていたんだ」と笑いながら話してくれた。
 とは言うものの、近藤のお母さんは、関東大震災に亡くなったのだけれど。
 だから、ボクにとって、話している近藤の目はどこか寂しげに見えた。ボクのお母さんはまだ生きていると思うけれど、じっちゃんを亡くした重みを知っているボクだからこそ、そう見えたのかもしれない。
 三日後、バタビアを出港。拾った貝殻はちゃんと真水で洗って、海水を落として大切に飾っておいた。海水がついたままだと、乾いた時に塩が結晶化して厄介なことになるからと、近藤が教えてくれたのだ。
 それから八日ほど航海が続き、同月二十九日にオーストラリアの南西に位置するフリーマントルに寄港。ボクら候補生はここで、初めて白服で元旦を迎えたのだった。
 そして、このフリーマントルで、ボクは生涯忘れられない体験をしたんだ。
 
 オーストラリアに入港した後、ボクは同期の扇と一緒にフリーマントルからパースというところまで、汽車で小さな旅行をした。近藤は他の同期と、大井は譲と一緒に行動していたのだそう。その帰りの汽車で、偶然同じコンパートメントに同乗していたギリシャの青年と意気投合し、フリーマントルに着くまで話をしていた。
 青年は、エリックと名乗った。英語が流暢であったエリックは揺れる汽車の中で話しているうちに、ボクが一番興味を引いたことを話し始めた。
「ここ数年で、ギリシア文明が一気に衰退してしまった。僕はギリシア文明の通りに生活していたのに、衰退してしまって、今やほとんどの人が文明を忘れてしまっている。悲しいよ」
 英語ができるくせに話の内容が理解できなかったのか、扇は不思議そうにボクに「どういうことなんだ?」と質問していたが、ボクはこの話に強い印象を受けた。
「だって、文明が衰退するのは、その国の文化がなくなるのと等しいことなんだよ? それほど悲しいことはないさ」
 今のギリシャはそんな状況に陥っているのかと、ボクは悲観の声をあげる。
「大丈夫さ。最近、僕の家族が文明を復旧させようと動いている。でも何もできない僕は、時期に文明が回復することを願っているしかないんだ」
 僕はこの時思いもしなかった。まさか二十三年後に、日本がギリシャと同じような境遇に見舞われるだなんて。
 そのあと、エリックは僕らの艦艇まで見送りに来てくれて、最後にこう言った。
「僕も頑張る。あなたたちに勇気を貰った。だから、あなたたちも国の為にできるこ
とをしてほしい」
 そうして一月三日、大勢の観客に帽振れで見守られながら、僕らの乗る八雲はフリーマントルを出港した。
 出港して少しした後、ボクは艦内で考える。
 エリックの言葉がどうしても引っかかっているのだ。ボクらが出来る国の為とは、なんなのだろうと。
 近くにいた扇が心配そうにボクを見つめる。
「また考え事かい?」
 尋ねて来た扇に、ボクは言った。
「外国人は、日本人の頭を悩ませることばかり言うものだね」と。
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