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第1章 リュシドール子爵領

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 夫人と息子と枕を並べて休んでいた子爵の寝室の扉が、けたたましく叩かれた。
「旦那様、旦那様、大変です!」と怒鳴っているのは、執事のようだ。
 何だこんな夜中に、と不機嫌丸出しで、子爵は扉を開いた。

「大変です旦那様、狼魔獣が入ってきました!」
「何だと? 魔獣はあの柵を越えないのではなかったのか」
「分かりません! とにかく使用人棟はすでに食われた被害が出ています。もうこちら本館に入ってきています。一階に下りるのは間に合いません。天井裏に潜るしかないと思います」
「何と、そこまで急を要しているか」
「はい!」
「聞いたかお前たち、早くそこから天井裏に入れ!」
「嫌ですよ、天井裏なんて汚い」
「そんなこと言ってられるか!」

 起きてはきたが駄々をこねる妻を、怒鳴りつける。
 失礼します、と執事は夫婦のベッドに跳び乗り、手を伸ばして天井板を開いた。

「早く、坊ちゃまを!」
「やだよお、やだよお――」

 こちらも駄々こね続ける息子を無理矢理押し込み、夫人にも宥め賺《すか》して手を貸し押し上げる。
 ぶつぶつ不満を零し続けながら、子爵はそれを追ってベッドに乗った。

「誰も彼も、あの柵は完璧で魔獣など入ってこれぬと言っていたではないか。今まで足跡は見つかっても、入られたことはなかったというのに」
「訳は分かりません。とにかく――」

 言い合っている間に。
 大轟音が響き渡った。
 目を丸くした子爵が見たのは、破壊された扉板だった。

   ***

 気が遠くなるような、時間が過ぎた。
 外からは人の悲鳴や何かの破壊音、訳の分からない喧噪が引きも切らず続く。
 ずっとヴァランタンが膝を抱えて震えているうち、小さな窓から朝陽が射してきた。
 いつの間にか、喧噪も収まっている。
 それでもヴァランタンが動けずにいると、遠くから声が聞こえてきた。

「おーーい、誰かいないかあーー」

 弾かれたように、ヴァランタンは扉を開いた。

「ここに――ここにいるぞお」
「お、誰か残っていたようだ」

 階段口まで這っていくと、下から領兵が二人、昇ってきた。
 助かったあ、とヴァランタンは床に両手をついて天に感謝した。

「よく生きていたもんだなあ」
「魔獣は――魔獣はいなくなったのか?」
「ああ。領兵で対処して、二頭を征伐、残りは森に逃げ帰った」
「そうか――助かった」
「こっち側で生き残ったのは、あんただけのようだ。下に降りて。話を聞かせてくれ」
「ああ、分かった」

 三階まで降りて、兵士二人と並ぶ。
 さらに階段を下《くだ》りながら、会話を重ねた。

「あんたは? ここの使用人なんだな?」
「ああ。料理人のヴァランタンという」
「そうか。本当に、ただ一人の生き残りのようだな」
「ただ一人――本館の方でもか?」
「ああ。領主様も執事も、魔獣に食われた死体で見つかった。夫人とご子息は天井裏に隠れていたのを救出したが、無事と言っていいやらだ」
「え……何と」
「とにかくあの大牙狼《おおきばおおかみ》ってやつ、人の臭いを嗅ぎつけてどんなに隠れていてもあちこち破壊して見つけて回ったようだ。あんたよく、隠れていられたもんだな」
「階段の下まで魔獣が迫ってきたんで、アヒイの粉をぶつけて、必死に上へ逃げたんだ」
「ああ、そうか。そのアヒイで、あんたの匂いを追えなくなったわけか」
「そういうことに、なるのか」

 庭には、ふだん町方向にある兵舎から領兵が総出したようで、大勢が動き回っていた。
 魔獣との戦闘で兵士にもかなり負傷者が出たらしく、庭の隅で治療され唸っている姿が見える。
 現在指揮を執っているという中隊長のもとに連れられていき、ヴァランタンは一通り知ることを話した。
 結果聞いていた全員から、お前が助かったのは奇跡だ、お前は信じられない幸運者だ、と感心された。
 一度解放されて、本館に近づく。
 使用人棟もそうだったが、こちらも目を覆いたくなる惨状だ、ほとんどの扉が破壊され、窓もあちこち破られ、血痕が散らばっている。
 建物の中からけたたましい笑い声が聞こえてきて、覗くと、子爵夫人が女性兵士に世話を受けているところだ。
 聞くと、息子と共に天井裏から発見されたが、すでに正気を失っていたという。息子はその横で泣きっ放しで、怪我はないようだがどういう精神状態かも分からない。
 まあ無理もないか、とヴァランタンは思った。
 ヴァランタンと同様に死にそうな思いで身を潜めていたのだろうが、おそらく領兵たちが到着するまで、ずっとすぐ真下で魔獣たちの蹂躙が続いていたに違いない。

 厨房を覗くと、誰もいない。中の状況も、奇跡的に無傷のようだ。作業後は食品などを置いていないので、魔獣にとっても用のない場所だったのだろう。
 何となく無感動に眺め回していると、甲高い声がかけられた。

「ああ、料理長、無事だったんかい!」
「驚いたねえ」

 下働きの女二人が、急報を聞いて駆けつけたらしい。
 ここだけ日常に戻ったような賑やかさに、ヴァランタンは苦笑してしまう。
 自分一人助かった経緯を説明すると、兵士たちと同様に真顔で感心された。

「アヒイのお陰で、助かったわけかい」
「てことは、あのお嬢様のお陰ってことにもなるねえ」
「そういうことになりそうだな」
「ところで、そうするとさあ、料理長」

 女の一人が、声をひそめた。

「あのお嬢様のこと、訊かれたらどう答えたらいいんだろう」
「ああ、それは俺も考えていた」
「何と言うか、正直に答えたら大変なことになる気がするんさあ」
「お前もそう思うか?」
「出ていったお嬢様、北へ向かったんなら絶対助かっているわけがないよねえ。あたしたちにもその責任があるってことになるんじゃないかい」
「そうなると思うべきだろうな。ずっと使用人扱いされるのをただ見ていたというか、むしろ協力していたということになるし。出ていったときも、何も助けようとしなかったんだから」
「困るよお。そんなことで責任をとれなんて言われても」
「あたしたち、何もしていないのにさあ」

 女二人で、泣きそうな顔を見合わせている。
 渋い顔で、ヴァランタンはさらに声を低めた。

「それで、思ったんだけどよ。そのことについて知っている者で、生き残ったのはこの三人だけのはずだ」
「そうなのかい?」
「お嬢様というか、弟様も含めて、あんな扱いをされていたことについては、屋敷の者しか知らないはずだ。実際、一時厨房に来ていた領兵も、手伝いをしていたお嬢様に気がついていない」
「ああ、そうだったねえ」
「だから、この三人が何も言わなければ、あの二人のことについては知られなくて済むはずだ。だからどうだ、何も言わないと決めることにしないか」
「ああ」
「旦那様が亡くなったという以上、絶対あの二人がどうなったか問題にされるはずだが、知らぬ存ぜぬでいこう。お嬢様が厨房で働いていたことなど、絶対言わない。奥でご姉弟《きょうだい》二人で暮らしていたはず、というだけにしよう。あとは、一昨日《おとつい》突然二人ともいなくなった、詳しくは知らない、と。ああ、弟様はミニョレー伯爵様に連れられていった、というのは言っていいか。他の貴族が絡んでいると知ったら、調べる人も調べにくくなるはずさ」
「なるほどねえ」
「それでうまくいくんなら、それでいこうよ」
「そうだねえ」
「それじゃあ、約束だぞ、この三人のうち一人でも喋ったら、三人とも牢屋行きになりかねねえ」
「分かったよ」
「約束するよ」

 最大限声をひそめて、三人は頷き合った。

   ***

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