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家に入って、昨日と同じくあたしは籠の中に下ろされることを拒絶した。
同じ室内で姿が見えているとはいっても、父と離れることが不安で堪らない。
苦笑のような困惑のような、複雑な顔で父は寸時悩む様子になり。籠の中のあたしに向けて、片手で拝む形を作った。
「悪い。ちょっとだけ、待っててくれ」
「うーー?」
不満で口を尖らせたけれど。何か理由があることだけは、理解した。
よく見ると、父の着た毛皮はあちこち泥や何やで汚れている。とりわけズボンのお尻がすっかり泥まみれ、まだ濡れているんじゃないかという色合いだった。
雪の融けかけ地面に、尻餅でもついたのだろうか。
何だか情けない顔で、父はそうした衣類の着替えを始めていた。
武士の情け、ということでそちらを見ないことにする。
着替え終わると約束通り、また抱き上げてくれた。
昨日使った布道具で、あたしを負った形に固定する。
そうしてようやく家事を始めることができる、という様子だ。
調理台に木の器を載せ、床の大きな容器から水を汲む。
「わーー、うーー」
そんな動作の合間に、あたしは目の前の硬い肩を叩いた。
まちがいなく作業の邪魔だろうけど、目的には換えられない。この日からは、もう一つ企てていたことがあった。
何しろこの昼間に、「父ちゃん」と同じくらい強力な秘密兵器を獲得していたんだ。
「――なにこえ、なに――」
「うん?」
必殺「何これ」攻撃だ。
あの託児所で、小さな子どもが何度も口にしていた。
その言葉を獲得して、あたしは会心の思いだった。
――これは、使える! 活用するべし!
思うように口が回らない身ではあるけど、この程度は発音できる。鸚鵡返しはできなくても、言葉の記憶はできる。
これを使いまくれば、あたしの所有語彙は飛躍的に増加するはず。
一歳にならない赤ん坊がそんな言葉への興味を示すものか、と怪しまれそうだけれど、今後に向けての利益を考えるとそんなこと気にしていられない。
「なにこえ?」
「ん、これか? コップだ」
意外と疑問を持つことなく、父はあっさりと教えてくれた。
うんうん頷き、あたしは大きな肩越しにさらに手を伸ばした。
木のコップ、その中身に指を向ける。
「なにこえ?」
「これは、水だ」
水自体はそれと分かっているけれど、これでこの世界の「水」に当たる言葉を知ることができた。
そんな問いと答えをくり返す。
嫌がるかとも思ったけれど、こんなやりとりに父は楽しそうに応じていた。
そうしながら、竈に薪を入れ、手を差し向ける。
薪に載せた木の皮に、ぽう、と赤く火が点る。
興奮して、あたしはぽんぽんぽんと続けて肩を叩いた。
「なに、なにこえ」
「このでかいのが竈、中に置いたのが薪、赤く燃えてるのが火、だ」
ひとつずつ、指を差して教えてくれる。
それはそれで助かるのだけれど、今のあたしの関心は別のものだった。
ぽんぽん太い腕を叩き、手を上げさせてその指先に触れた。
「こえ、こえ、だした」
「ん? ああ、どうやって手を出して火を点けたか、か。火の魔法だ」
「まほ?」
昨日の男の子が口にしていたのと同じ単語だから、「魔法」でまちがいないのだろう。
太い指をぺしぺし叩き、身体ごと乗り出して。
「なに、なに、まほ、なに?」
「ああ――話が長くなるからなあ、少し待ってくれ。まず飯にして、それからにしてくれ」
「ううーー」
そんな断り、赤ん坊に通じるつもりで言ったかは分からないけど。
確かに簡単に済む説明ではないだろう、ということで、あたしは黙ることにした。
正直なところ、お腹が空いてきていてそちらを優先すべきとも確かに思う。
父親の大きな膝の上で、乳を飲ませてもらい。
そのまま膝上に居座って、父の片手での食事を眺め。
食事をする邪魔になっていることは、重々承知なんだけど。膝筋肉が硬くてクッションに不足だろうが、支える無骨な手に力が入りすぎたりしようが、とにかくもここはあたしの指定席、譲る気はないのだ。
面倒臭そうながらまた布道具であたしを背負って夕食の後始末を終え、父は暖炉前の椅子に戻った。
改めて膝の上に座を占め、あたしはゆったりと硬い胸元に背をもたれる。
それでも今日は少し脇に寄り、上体を捻って少し髭の横顔を覗ける姿勢をとった。
食後の茶を啜る髭の下に、小さな指を差し向け。
「オータ」
「おう、俺が父ちゃんだ」
満足そうに、笑いが返った。
ご機嫌顔にこちらも気をよくして、指先を自分に向ける。
「あ……ち」
「ん? あ、そうか。お前は、イェッタだ」
「え……た?」
「そうだ。お前の名前は、イェッタ」
「エッタ」
「そうだ、イェッタ」
頑張っても、発音はまともにできないけれど。
それでも大きな進歩だ。自分の名前が、ここに判明した。
「いい名前なんだぞお。カモソーレ教の神話で、育成の女神、綺麗な花を咲かせる神様の名前なんだ。生き物すべての繁栄を司る春の女神トゥァーラの妹で――」
「…………」
日頃の無口ぶりを忘れたかのように、口上が続く。
いろいろ、興味深い話ではあるけど――。
――さすがに赤ん坊相手に難しすぎるんでないかい、父ちゃん?
きょとんと目を開いて横顔を凝視していると、さすがに自分でもそのことに思い当たったみたいだ。
顔をあちら横に向けてコホンと咳をし、ぐしぐしとあたしの頭を撫でる。
「とにかく、いい名前なんだ」
「うん」
「――いやそれにしても、イェッタお前――」
「ん?」
「俺の話、分かって聞いているのか? そんなことって、あるのか? まだ生後十ヶ月程度の赤ん坊が」
「んーー」
ナンノコトカナ? とばかり、首を傾げてみせる。
ちら、と横目で見て、それから父は首を振った。
「何だか、よく分かんねえ。赤ん坊ってこんなものなのか? 何しろ子どもを育てるのは初めてで、他所の子を見たこともほとんどないからなあ」
「うーー」
「ま、いいか。子どもが賢くて、困ったこともないだろう」
「うんうん」
頷いてやると。
また、胡散臭いものを見るみたいな横目が向けられてきた。
けれど、気にしないことにする。
頭を撫でる、太い手を掴んで。
「はーし、お、はらし」
「はらし? あ、お話か」
「うんうん」
「いやなんで、ここでやりとりが成立するかなあ」
「おはらし――まほ、まほ、なに?」
「おお、それな」
同じ室内で姿が見えているとはいっても、父と離れることが不安で堪らない。
苦笑のような困惑のような、複雑な顔で父は寸時悩む様子になり。籠の中のあたしに向けて、片手で拝む形を作った。
「悪い。ちょっとだけ、待っててくれ」
「うーー?」
不満で口を尖らせたけれど。何か理由があることだけは、理解した。
よく見ると、父の着た毛皮はあちこち泥や何やで汚れている。とりわけズボンのお尻がすっかり泥まみれ、まだ濡れているんじゃないかという色合いだった。
雪の融けかけ地面に、尻餅でもついたのだろうか。
何だか情けない顔で、父はそうした衣類の着替えを始めていた。
武士の情け、ということでそちらを見ないことにする。
着替え終わると約束通り、また抱き上げてくれた。
昨日使った布道具で、あたしを負った形に固定する。
そうしてようやく家事を始めることができる、という様子だ。
調理台に木の器を載せ、床の大きな容器から水を汲む。
「わーー、うーー」
そんな動作の合間に、あたしは目の前の硬い肩を叩いた。
まちがいなく作業の邪魔だろうけど、目的には換えられない。この日からは、もう一つ企てていたことがあった。
何しろこの昼間に、「父ちゃん」と同じくらい強力な秘密兵器を獲得していたんだ。
「――なにこえ、なに――」
「うん?」
必殺「何これ」攻撃だ。
あの託児所で、小さな子どもが何度も口にしていた。
その言葉を獲得して、あたしは会心の思いだった。
――これは、使える! 活用するべし!
思うように口が回らない身ではあるけど、この程度は発音できる。鸚鵡返しはできなくても、言葉の記憶はできる。
これを使いまくれば、あたしの所有語彙は飛躍的に増加するはず。
一歳にならない赤ん坊がそんな言葉への興味を示すものか、と怪しまれそうだけれど、今後に向けての利益を考えるとそんなこと気にしていられない。
「なにこえ?」
「ん、これか? コップだ」
意外と疑問を持つことなく、父はあっさりと教えてくれた。
うんうん頷き、あたしは大きな肩越しにさらに手を伸ばした。
木のコップ、その中身に指を向ける。
「なにこえ?」
「これは、水だ」
水自体はそれと分かっているけれど、これでこの世界の「水」に当たる言葉を知ることができた。
そんな問いと答えをくり返す。
嫌がるかとも思ったけれど、こんなやりとりに父は楽しそうに応じていた。
そうしながら、竈に薪を入れ、手を差し向ける。
薪に載せた木の皮に、ぽう、と赤く火が点る。
興奮して、あたしはぽんぽんぽんと続けて肩を叩いた。
「なに、なにこえ」
「このでかいのが竈、中に置いたのが薪、赤く燃えてるのが火、だ」
ひとつずつ、指を差して教えてくれる。
それはそれで助かるのだけれど、今のあたしの関心は別のものだった。
ぽんぽん太い腕を叩き、手を上げさせてその指先に触れた。
「こえ、こえ、だした」
「ん? ああ、どうやって手を出して火を点けたか、か。火の魔法だ」
「まほ?」
昨日の男の子が口にしていたのと同じ単語だから、「魔法」でまちがいないのだろう。
太い指をぺしぺし叩き、身体ごと乗り出して。
「なに、なに、まほ、なに?」
「ああ――話が長くなるからなあ、少し待ってくれ。まず飯にして、それからにしてくれ」
「ううーー」
そんな断り、赤ん坊に通じるつもりで言ったかは分からないけど。
確かに簡単に済む説明ではないだろう、ということで、あたしは黙ることにした。
正直なところ、お腹が空いてきていてそちらを優先すべきとも確かに思う。
父親の大きな膝の上で、乳を飲ませてもらい。
そのまま膝上に居座って、父の片手での食事を眺め。
食事をする邪魔になっていることは、重々承知なんだけど。膝筋肉が硬くてクッションに不足だろうが、支える無骨な手に力が入りすぎたりしようが、とにかくもここはあたしの指定席、譲る気はないのだ。
面倒臭そうながらまた布道具であたしを背負って夕食の後始末を終え、父は暖炉前の椅子に戻った。
改めて膝の上に座を占め、あたしはゆったりと硬い胸元に背をもたれる。
それでも今日は少し脇に寄り、上体を捻って少し髭の横顔を覗ける姿勢をとった。
食後の茶を啜る髭の下に、小さな指を差し向け。
「オータ」
「おう、俺が父ちゃんだ」
満足そうに、笑いが返った。
ご機嫌顔にこちらも気をよくして、指先を自分に向ける。
「あ……ち」
「ん? あ、そうか。お前は、イェッタだ」
「え……た?」
「そうだ。お前の名前は、イェッタ」
「エッタ」
「そうだ、イェッタ」
頑張っても、発音はまともにできないけれど。
それでも大きな進歩だ。自分の名前が、ここに判明した。
「いい名前なんだぞお。カモソーレ教の神話で、育成の女神、綺麗な花を咲かせる神様の名前なんだ。生き物すべての繁栄を司る春の女神トゥァーラの妹で――」
「…………」
日頃の無口ぶりを忘れたかのように、口上が続く。
いろいろ、興味深い話ではあるけど――。
――さすがに赤ん坊相手に難しすぎるんでないかい、父ちゃん?
きょとんと目を開いて横顔を凝視していると、さすがに自分でもそのことに思い当たったみたいだ。
顔をあちら横に向けてコホンと咳をし、ぐしぐしとあたしの頭を撫でる。
「とにかく、いい名前なんだ」
「うん」
「――いやそれにしても、イェッタお前――」
「ん?」
「俺の話、分かって聞いているのか? そんなことって、あるのか? まだ生後十ヶ月程度の赤ん坊が」
「んーー」
ナンノコトカナ? とばかり、首を傾げてみせる。
ちら、と横目で見て、それから父は首を振った。
「何だか、よく分かんねえ。赤ん坊ってこんなものなのか? 何しろ子どもを育てるのは初めてで、他所の子を見たこともほとんどないからなあ」
「うーー」
「ま、いいか。子どもが賢くて、困ったこともないだろう」
「うんうん」
頷いてやると。
また、胡散臭いものを見るみたいな横目が向けられてきた。
けれど、気にしないことにする。
頭を撫でる、太い手を掴んで。
「はーし、お、はらし」
「はらし? あ、お話か」
「うんうん」
「いやなんで、ここでやりとりが成立するかなあ」
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「おお、それな」
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