日蝕ただなかにありて

ゴオルド

文字の大きさ
上 下
6 / 9

第六話

しおりを挟む
 母は絵が描けないのだから、私も絵が苦手でなければならない。母にできないことを私ができるのは、母への冒涜であり裏切りであり反逆である。だから私は自分の記憶を操作した。私が得意なこと、好きなこと、欲しいものは全部母が教えてくれる。そのとおりにすれば、きっと母が私を愛してくれるはずだから。

 ああ、そうだった。私は「人に尽くすのが好き」というのも、母が教えてくれたんだった。自分を犠牲にしてでも、みんなのために尽くしたいと思っている。私は母の愚痴を聞くのが大好きで、人の愚痴を聞くのが大好きで、だから臨床心理士になりたかったのだ。
 もう一人の私が問いかけてくる。
(本当は違うんじゃないの?)
 母が笑って、もう一人の私をひねり潰す。
「仁美のことはお母さんが一番よくわかってるんだからね。仁美は何をやらせてもだめな子だから、お母さんのいうとおりにするのが一番いいの」

 突然泣き出してしまった。

 自分でもわけがわからない。目の前には作本先生もいるし、恥ずかしくてたまらなくて、でも涙がとまってくれなくて、消えてしまいたいような気持ちだった。

「さ、作本せんせ、すみ……すみませっ……」
 ソファの左側がゆっくりと沈むのを感じた。それとほぼ同時に背中を撫でてくれる手の感触。恥ずかしい。絶対引かれているのに違いない。いい年した大人なのに。鼻水も出てきた。もういっそ消えたい。ハンカチを渡された。タンポポの刺繍が入っている。作本先生は可愛いものが好きなのだという。以前こっそり見せてくれたが、先生のスマホケースはクマちゃんのイラスト入りだった。

「うう……」
 私はこの優しいタンポポを汚すことなんてできなくて、ハンカチを握りしめて、涙と鼻水よとまれと念じた。自己暗示法の一種だ。きっと効くはず。そう自分に暗示をかけた。

 しばらくして涙がひいて、恥ずかしさだけが残った。
 自分の膝を見つめながら、ひとりごとみたいに小声でしゃべる。
「私、絵が下手なんだって、ずっと思っていました。たくさんの人が褒めてくれていたのに、全部忘れていました。私は絵が苦手だと思い込んでいて、記憶まで改ざんしていたみたいです」
「そういうの、ちょっとわかります」
「え……」
 気まずさを誤魔化すための話で、だから、わかってもらえるなんて期待してなかったから、逆にびっくりして顔を上げてしまった。
 作本先生のほっぺたに、えくぼが浮かんでいた。
「最近、生徒たちにアンケートを取ったんですよ。そうしたら生徒の半数近くが「自分はスポーツが下手だ」っていうんです。でも、私が見た感じでは、本当にスポーツが下手な子は1割もいない。覚えの早い子と遅い子がいるだけなんです。下手だっていうのは、単なる思い込みなんだと思うんですよね」
「単なる思い込み……」

 目元をぬぐってから、先生の話について考えてみた。確かに生徒の中には自信がない、だめだと決めつけている生徒はいた。それも少なくない数が。

「テレビとかでも、最近の子はどうのこうのって悪く言いますからね。そういう情報に晒されて育った世代が自信をなくすのも当然なのかもしれないですね。でも記憶まで改ざんしちゃうなんてのはなあ。あんなに絵がうまいのに、どうしてそこまで強く思い込んじゃったんですかね」

「私の場合は母の影響が大きいと思います」
 もういまさら取り繕っても意味がない気がして、正直に話した。

「親って子供にとっては神様みたいなもんですもんね、良くも悪くも」
「ええ、本当に。もしかしたらスポーツも同じかもしれませんね。親がスポーツを好きか嫌いか、それが子供に影響を与えている可能性もあるのかも……。保護者にアンケート調査をしてみたら何かわかるかもしれません」

 このとき私は大規模なアンケート調査を想定して話をしていた。どれぐらいの人数からデータを取れば正確なことがわかるだろう。計算しないとはっきりしたことは言えないが、二千人分ぐらいあれば何とかなるかな。いや、もっと必要だろうか。アンケート調査なんて学部生のころにやったっきりで、すっかりやり方を忘れてしまった。

「七海先生」
「はい」
「そのアンケート調査、やってくれません?」
「は、はい。……はい?」

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【R15】メイド・イン・ヘブン

あおみなみ
ライト文芸
「私はここしか知らないけれど、多分ここは天国だと思う」 ミステリアスな美青年「ナル」と、恋人の「ベル」。 年の差カップルには、大きな秘密があった。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

一人用声劇台本

ふゎ
恋愛
一人用声劇台本です。 男性向け女性用シチュエーションです。 私自身声の仕事をしており、 自分の好きな台本を書いてみようという気持ちで書いたものなので自己満のものになります。 ご使用したい方がいましたらお気軽にどうぞ

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

海街の人魚姫

ガイア
ライト文芸
主人公の阿木沼小唄(あぎぬまこうた)は、歌手になりたくて東京に上京したが、うまくいかなくて海の町である実家のある海城町に帰ってきていた。 夢も失い目の前が真っ暗。何もする気が起きない小唄は、ふらふらと高台の教会にたどり着く。 そこで出会ったのは足でピアノを弾く少女。 【海城町の人魚姫】といわれいる少女との出会いが、深海に射す陽の光のように小唄の心を導いていく。

ブラック企業を退職したら、極上マッサージに蕩ける日々が待ってました。

イセヤ レキ
恋愛
ブラック企業に勤める赤羽(あかばね)陽葵(ひまり)は、ある夜、退職を決意する。 きっかけは、雑居ビルのとあるマッサージ店。 そのマッサージ店の恰幅が良く朗らかな女性オーナーに新たな職場を紹介されるが、そこには無口で無表情な男の店長がいて……? ※ストーリー構成上、導入部だけシリアスです。 ※他サイトにも掲載しています。

日給二万円の週末魔法少女 ~夏木聖那と三人の少女~

海獺屋ぼの
ライト文芸
ある日、女子校に通う夏木聖那は『魔法少女募集』という奇妙な求人広告を見つけた。 そして彼女はその求人の日当二万円という金額に目がくらんで週末限定の『魔法少女』をすることを決意する。 そんな普通の女子高生が魔法少女のアルバイトを通して大人へと成長していく物語。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...