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第三十六話 還れ

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「辰様!」
 私は後を追おうと手を伸ばしたけれど、箱は私を通さなかった。
 赤くなってしまった箱の表面を虚しく撫でる。
「辰様……」
 もう会えない。それなのに最後に何も言ってあげられなかった。でも、今は泣いている余裕はない。しばらくしたら辰様は合図を送ると言っていた。それを待たなければならない。そして、その後は……。
 私は辰様を殺さなければならないのだ。


 異変はすぐに起こった。
 箱がかすかに振動している。と思った次の瞬間、真っ黒なものが大量に飛び出してきた。
 まるで辰様が箱に入るのを待っていたかのようだった。いや、風名は待っていたのだ。血の制約により夫はもう自分を愛さないとわかっていても、そばに来てほしかったのだ。ただの憶測だけれど、きっとそうだと思う。

 ふと、嫌な予感が胸をよぎる。これは辰様をおびき寄せるための罠だったんじゃ……。

 箱の中では、体の境界が曖昧になると辰様は言っていた。だから箱の中で辰様は風名を体内に取り込んで道連れにするつもりだけれど、逆に風名も辰様を体内に取り込むつもりなのかもしれない。自分の支配下に置くために。

 いや、だとしても、きっと辰様なら大丈夫。風名に負けたりしない。そう自分に言い聞かせた。信じよう、辰様を。


「陽葉瑠、下がれ! 一旦後退だ」
 芭連の声で、皆一斉に広場の海側のほうの出口のあたりまで後退した。そこから神々に対峙する。意図せず海を背にして、山側をにらむ立ち位置となったのは、紅飛斗の宿命みたいなものなのだろうか。

「なんか黒いもんがいっぱい出てきたな。なんだ、ありゃ」
 玖鎖良が杖を構える。広場は黒く蠢く者たちで埋め尽くされていた。見たことのない形のものばかり。角が生えた巨大な鳥、顔の半分以上が眼球で占められる猪、蛸みたいな足の生えた海星ひとで、長い尾を持つ蟹のようなもの……全部神様とまじった夜魔だと一目でわかった。闇のように黒い色をしていて、目はどれも緑色だ。不気味だけれど、どこか美しさすら感じさせる異形の姿。生臭いような異臭もする。

 黒き神々は、どことなく以前の辰様に似ていた。神様が夜魔に乗っ取られると、こういう姿になるのだろうか。

「黒ってことは……あいつらは夜魔なのか? でも神産みの箱から出てきたよな。ということは神様なのか?」
「あれらは神様と夜魔がまじったものだよ……」
「まじったって……そんなことがあり得るの?」
 芽那に向かって、私は頷く。
「本来はこの村に喜びを運ぶはずだった神様を、私たちはこれから討たねばならないの」
 これもまた私が犯した罪が引き起こしたことだ。罪悪感で胸が苦しい。
「……そうか」
 芭連が大剣をかざした。
「夜魔に侵された神は、災いをなす存在。だから倒さねばならない。そういうことなのだろう」
 玖鎖良も芽那も杖を構えた。それに勇気づけられて、私も。
 しかし、夜魔神たちは、私たちに見向きもしない。
「どうした……? 向かってこねえな……」
「ならば、こちらから行くまでだ」
 そのとき、ねじくれた角を持つ巨鳥が、金属がこすれるような音を立てた。その音に反応するかのように、芭連の持つ大剣が溶け落ちて、地面に金属の水たまりをつくった。
「な……!」
 芭連だけじゃない、杖の先端につけてある錫も溶け落ちてしまった。
「何……これ……」
 ただの木の棒になってしまった杖を見つめながら、芽那が呆然とつぶやく。
「喜びごとの反対、凶事……」
 鳥形のお姿の神様は主に鍛冶の喜びごとを運んでくださる。その悪い面が出た。
 猪が大きな目でこちらを見た。
「うっ、痛っ……!」
 目にずきずきする痛みが走った。だらだらと流れる涙を拭き、それが涙ではなく血であると知ってぞっとする。体が熱っぽい。病魔に冒されている、ということなのだろうか。吐き気をこらえて唾液をのみくだすと、口の中が奇妙に生臭い気がした。
 海星がうごめくと、強風が吹き荒れ、立っていられなくなった。民家の屋根が風で飛ぶ。壁の板材もはがれて、徐々に横倒しになる。

 夜魔神たちは、自分の力を試すかのように、次々と凶事を運び始めた。

「早く倒さないと……!」
 錫がほとんど残っていない杖を握り、一番近くにいた夜魔神に突進した。細長い棒を何重にも束ねたような姿の神様は、しかし、素早くかわすと、そのまま広場を突っ切り、私たちがいる海側の出口ではなく反対の山側の出口のほうから出ていった。
「逃げた!?」
「紅飛斗に向かってこないとは……」

 夜魔神たちは私たちを無視して広場を出ていこうとしている。きっとそれが風名の狙いだ。あれらを世界に拡散するつもりなのだ。紅飛斗に向かっていったら戦闘になり、先ほどの岩神のように倒されてしまうかもしれないから、紅飛斗から逃げるように命じたのだろう。

 あるいは、私にこれから起こる惨事を見せつけるために、私を生かしておくつもりなのかもしれない……、こうなったのはおまえのせいだと……、いや、悪く考え過ぎだろうか。

 神様たちは、村を出るついでとばかりに、家々を破壊しながら進む。海を向いた家ばかりを狙う。紅飛斗ではない家の人たちが、破壊された家屋の下敷きになってしまう。
「とめなきゃ!」
 そう言ったものの、どうしようもない。杖も剣もなく、一体どうすれば……。
 自然と右手が上がっていた。
「陽葉瑠?」
 芭連の声が遠くに聞こえる。それよりも大きな声が頭に響く。

 ――還れ。
 ――もとの世界に還れ。

 上に向けた手のひらは、天の力を受ける器。器には光がたまる。満ちる。私はそれを降ろすだけ。

 ――天に還れ、紅人よ。

 ああ、この声。
 これがきっと青帝の声。
 私に力を授けてくれたのは……光の力を授けてくれたのは、辰様じゃなかった。辰様の体を通じて、この運命を打ち砕く力を与えてくださったのは青帝。
 私には使えるのだ、青帝の力が。そう確信し、手を振り下ろした。
 光の雨が、夜魔神たちを一掃した。
 闇のような神々は跡形もなく消滅し、芽那たちは安堵の息を漏らす。目からの出血もとまり、体の不調が消えていた。神の運んだ凶事の一つ、疫病の災いも消失したようだ。

 私は自分の右手を見た。さっきまで光を受け止めた手のひら。特に異変はないし、思ったより疲労感もない。しかし、奇妙な脱力感があった。
「陽葉瑠……今の光の雨だよね。一体どうして……」
「芽那、ごめん、いまは説明している時間がないの。辰様が合図を送ってくるまで、耐えないといけない」
 辰様……。私には天人廟で合図を待つよう言っていたけれど、みんなが戦っているのに私だけ隠れているわけにもいかない。
 合図は一体いつくるのか。聞き逃さないようにしないと。

 赤い箱の表面が振動している。嫌な予感がする……。やはり再び黒いものが大量に飛び出してきた。新たな夜魔神たちだ。小さいものから大きいものまで、全部で三十体ほどいるだろうか。
「悪い神様が村を出ていくのを食い止めなきゃ。紅飛斗のいない村が襲われたらひとたまりもない」
「そ、そっか、わかった。でも、杖が……芭連も剣がないと戦えない」
「おおい!」
 戦装束に身を包んだ紅飛斗の集団が、別の入り口から広場に入ってきた。先頭には留園先生と紅飛斗長、副長の父もいた。
 紅飛斗長は、発生したばかりの夜魔神を見るなり、「これは尋常ではありませんな」と杖を構えた。父も並んで杖を構える。紅飛斗の一人が、私たちに杖や剣を投げて寄越してくれた。芭連がさっそく手近な夜魔神に斬りかかる。玖鎖良と芽那も連携に入った。
 紅飛斗たちの奮闘により、近くにいた数体は倒せた。しかし、ほとんどの夜魔神たちは紅飛斗との戦いを避けて、広場から出ていってしまった。
「長! お父さん! 彼らは夜魔と神様があわさったもの、凶事をばらまき世界を滅びに導くものです! 村から出さないで!」
 紅飛斗たちが神様の行列を追いかける。すると、最後尾にいた蛙を潰したような神様が、茶色い霧を吐き出した。紅飛斗たちは袖で口元を覆って、うしろに下がる。
 このままでは、村を出ていってしまう。光の雨が届かないところまで行ってしまう前に、倒さなければ。

 私は再び手をあげる。手に光を受けて、振り下ろす。光の粒が、神様たちを消し去った。
 膝を突いた。なんだろう。不思議と体が軽い。それなのに、力が入らない。ふわふわしている。

 倒れ込みそうになるのを、誰かが支えてくれた。見ると芭連が私の肩を抱いていた。
「その光の雨は、あまり使わないほうがいい。人間の身で扱える力ではないのかもしれない」
 そうなのかもしれない。でも、そうも言っていられない。辰様からの合図はまだない。

 箱が震える。また新たな夜魔神たちが出現した。

「戦え!」
 紅飛斗長が指示を出す。
 しかし、錫の杖や鉄の剣が再び溶かされてしまう。予備の武器ももうない。私たちはあまりに無力だった。これが紅飛斗かと泣きたくなる。何のための修行、何のための……。

 闇を固めたような夜魔神たちが、災いを運びながら、道を行く。世界中に散らばろうとしている。

 私は何度も光の雨を降らせる。箱が神を産むたび、何度でも。
 体に力が入らない。もう立っているのか横になっているのかもよくわからない。目もかすんでしまって見えなくなっている。
「陽葉瑠……!」
 芽那の声だ。泣いている。
 負けられない。倒れてしまうわけにはいかない。自分でまいた種なんだから。

 何も見えない暗闇の中で、風名の声が聞こえた。
「あの人からたくさん愛されたのね。こんなに力が強いなんて。でも、それもせいぜい数ヶ月でしょう。私は何千年もあの人から愛されていた」

「おい、何だ、あれは……大きすぎる」
 また新しい夜魔神が産まれたようだ。目が見えないからわからないけれど。しかし、あたりが暗くなったことはわかった。急激な寒気に襲われる。
「太陽を隠すほどの……災いの化身だ……」

 風名が嘲う。
「数千年分の愛に勝てるかしら?」

 その愛を捨てて、人間の男に恋をしたくせに。

 負けるはずがない。
 私が負けるはずがないんだ。
 そうでしょう、辰様。

 吸い込む息が冷たい。胸の奥が凍り付きそうだ。
 息を吐き、ありったけの願いと祈りを込めて、光の雨を放った。

「やったぞ……!」

「あなたたち人間は私の邪魔ばかりね! こんな世界滅べばいいんだわ。愛も裏切りももうたくさん!」
 風名が叫んだ。いや、それは泣きわめく声といったほうが近いかもしれない。

「そんな……」
「新手だ……。しかも、あんなにたくさん……」
 ああ……。もう手をあげるのも難しいのに。寒さで凍えそうだ。


「今です」
 辰様だ。辰様の声だ。良かった、無事だったんだ。目がじんと熱くなった。
「私に命じてください。そうすれば、風名とともに消えることができる。世界が救われる」
 待ち焦がれた声、だけどずっと聞きたくなかった声。

「神産みの箱から産まれた神として、最後の務めを果たさせてください。この村に喜びを運びたいのです」

 辰様。

「私に死ねと、命じて」

 あなたを殺すぐらいなら、世界など滅んでもいい。

 そう思うのに、だけど、そんなことは……きっと辰様は喜ばないだろうから。辰様が私への愛情と板挟みになりながらも、それでも守ろうとした神としての矜持を大事にしたい。いまさら私がそんなことを思う資格はないのかもしれないけれど。

 あなたが求めた美しさを。
 あなたが求めた強さを。
 あなたが求めた正しさを。
 あなたが求めた優しさを。

 あなたがあなたの望むあなたであるようにと。私たちは何度も間違え、罪を犯した。欲望や嫉妬や衝動といったものに振り回されてきた。それでも最後には、少しでも希望に近づけるようにと願わずにはいられない。そのために私にできることがあるのならば、何をためらうことがある?

 辰様の笑顔を心に思い浮かべる。大丈夫。辰様がいなくなっても、こうして思い出せるから。ずっと忘れないから。
 涙が頬を伝う感触がする。だんだん意識が遠くなる。私が最後に願うこと。

「辰様に命じます」
 ちゃんと念じよう、心から。
「死んで、そして生き返って、私のところに戻ってきてください」
 最後に一つだけ付け加えるとしたら。
「愛しています」

 何かが割れて弾ける音がした。澄んだ高音が、尾を引いて広場に響き渡る。
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