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第三十話 豊漁祭
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心がもやもやの海に沈んでいるうちに、日々は過ぎ、夏も終わりに近づいていた。
辰様とは、あれ以来会っていない。
私が避けているわけではない。どうやら辰様の引きこもりがまた始まってしまったようだった。村長宅から出てこようとはしないのだ。落ち込んでいるのだろうか。泣いていないといいけれど。もし辰様が泣いたら、風名さんが慰めるのだろうか。そう思うと私のほうが泣きそうな気持ちになる。
時々無性に会いたくなることがあった。何でもないときに。洗濯ものを干しているときとか、月がちょうど半月だったとか、お茶を飲み終わったときとか、そんなふとした瞬間に。
そういうとき、神様の顔を思い浮かべると、決まって目を細め、嬉しそうに口を開けて笑った顔を思い出した。そんなに顔いっぱいに笑ったことは滅多になかったはずなのに。もっと控えめな微笑ばかりだったはずなのに、まんまるに笑った顔を思い浮かべる。泣いてばかりだったはずなのに。まじめな顔や怖い顔をされていたこともあった。でも、そういうものを思い出そうとしたら思い出の輪郭がぼやけた。
私の記憶の中では、辰様はいつも笑顔なのだ。それが自分でも不思議だった。
もし今度辰様と会えたら、何て言おう。
行かないでと止めていいのか。送り出したほうがいいのか。感情と理屈の間で揺れている。自分でもどうしたらいいのか答えが出せずにいた。
歩みのおそい時間の流れの中、それでも日々は過ぎ、豊漁祭の日となった。
豊漁祭は、その名が示すとおり漁に関するお祭りだ。ふだんの村の行事は紅飛斗が主役のものが多いけれど、豊漁祭は漁師が主役のお祭りで、だから、もっとも村が盛り上がる。みんなが参加できるから。
でも、ことしは楽しむような気持ちになれなくて、遠慮したい気持ちもあったのだが、芽那に強く誘われて、結局顔を出すことにした。
お祭りは早朝から始まる。漁師たちが夜明けごろ、砂浜や船上で祈祷を行う。これには紅飛斗は参加しない。禁止されているわけではないが、やはり一歩下がって出しゃばらないようにする空気があった。その後、翡翠取りが始まる。賑やかになるのはここからだ。夜には踊りと宴もあって、村中が大騒ぎとなる。
昼前、翡翠取りの公正を期すための海岸の立ち入り制限が解除されると、村の若者たちは我先にと砂浜へと駆け込むのが毎年恒例だ。男性はみな粗織の腰巻だけという、ほぼ裸に近い姿で目のやり場に困ってしまう。一方、女性はというと、ふだんと変わらない小袖姿だ。
残暑の厳しい日差しに熱せられた砂浜に、私は芽那とともにやってきて、すでに準備万端といった顔の玖鎖良と芭連に声をかけた。
「調子はどう」
芽那に向かって、玖鎖良はにかっと笑った。
「絶好調。今年こそ拾ってみせる」
「絶対だからね」
「まかせとけ」
それを穏やかに見守る芭連。いつもの光景に心がなぐさめられる。
しかし、芭連が「悪いが」と言い出した。
「今年は俺がいただく」
不敵に笑う。一瞬私と目が合った。
「そうこなくっちゃ」
玖鎖良はかえってやる気が出たようだ。
「あっ、あれ、留園先生じゃない? 先生!」
芽那が手を振っている。砂浜の向こうにいた先生は私たちに気づいて、こっちに向かってきた。先生も腰巻姿だ。玖鎖良と芭連を見て、顔をしかめる。
「おまえら、遠慮というものがないのか。特に玖鎖良、ひどいぞ」
先生の言いたいことがわかって、私と芽那は目配せしあって苦笑した。
この翡翠取りは、独身男性だけ参加できる行事なのだ。
このあたりの海中には、翡翠が撒かれているのだ。昨晩に村の人が撒いておいたものだ。
この村には翡翠に関する、ある言い伝えがあった。海で翡翠を拾った男性は、年内に結婚し、生涯豊漁が約束されたというものだ。この翡翠取りは、その伝説にあやかろうという行事なのだ。
もちろんそんな言い伝えを信じている人は少ない。だって、もしも彼女がいない人が拾った場合、もう夏も終わりのこの時期で、これから相手探しをして、年内の結婚は難しいだろう。そもそも生涯豊漁が約束されるって何なのか。海にはしけもある。ずっと豊漁なんてあり得ない。本当かどうか疑わしい伝説だった。でも、そういう伝説が村にはあるのだからしょうがない。秋の初めに海で翡翠を拾った漁師が、結婚して幸せになった上に、魚もいっぱい獲れるようになったということなので、もうしょうがない。
「翡翠は彼女のいない先輩に譲ろうとは思わんのか……」
留園先生が競争相手に揺さぶりをかけている。
「拾ったところで、先生には渡す相手がいないじゃないですか」
玖鎖良が暴言を吐き、先生に小突かれた。
「これから探すからいいんだよ!」
「へへ、済みません……。先生頑張ってください!」
「玖鎖良、調子に乗りすぎじゃないか……?」
さらに小突かれているが、玖鎖良はにやにやしている。
いつの頃からか、拾った翡翠を意中の女性に渡して、交際を申し込むという風習が生まれていた。翡翠とともに告白されて、断る女性なんていない、らしい。よく知らないけれど。
言い伝えなんて信じていないのに、多くの男性たちが本気で翡翠を取りにいくのは、このためである。もちろんただ単に翡翠争奪戦が楽しいだけという人も多いだろう。去年までは玖鎖良も芭連も後者だったはずだ。
しかし、玖鎖良は、今年は別の目的がある。翡翠を芽那に贈るという目的が。いや、告白したい相手に渡すものを既に婚約中の相手に渡すのも、それはそれでどうなのかということで、留園先生が渋い顔をするのもわからないでもない。翡翠は毎年数個しか撒かれない。限られた告白の機会を、既に恋愛が成就している玖鎖良に奪われてたまるかと留園先生は燃えているようだ。
村長が砂浜にあらわれ、口に両手を当てて、大声を出した。
「今年は翡翠をいっぱい撒いておきましたよ。参加者はみんな拾えますから安心してくださいね」
「はあ? 全員分用意したら意味ねえじゃん」
せっかくの競争を台無しにされて、玖鎖良が不満げに声をあげた。
「いいじゃない、全員拾えるなら、それはそれで」
翡翠が手に入ることが確定した芽那は嬉しそうだ。
全員拾って、全員結婚して、全員豊漁。村長のことだから、そんな調子の良いことを考えているのだろう。
「陽葉瑠」
いつの間にか芭連がそばに立っており、私を見下ろしていた。
腰巻姿であまり近くに立たれると、ちょっと恥ずかしい。なるべく体のほうを見ないようにしようと思うせいか、顔を見るのすらためらわれる。なんとなく頬が熱い。
「一番きれいな翡翠をとってくるから、受け取ってほしい」
「ば、芭連……」
どう返事したものか。困ってしまって、さまよわせた視線の先に、辰様がいた。
久しぶりに見た辰様は、しかし怖い顔をしていた。その隣には風名さんがいて、辰様の腕に抱きつくようにしている。私を見て、顔から微笑みを消し、眉を上げた。まるで獲物を見つけた猫のよう。
この人こそが夜魔の元凶であり、いまは人間を乗っ取っている夜魔。
それを知った上であらためて見てみても、やっぱりただの人間としか思えない。日差しを受けても赤くならない白い肌、涼しげな目元に小さな鼻……でも、きつく結ばれた口元には、妹と浮気男を殺すほどの頑迷さを感じないでもない……私がそういう目で見てしまっているだけだろうか。
そんなことを考えていたら、辰様が寄ってきた。組んでいた腕をほどかれてしまった風名は私をにらみつける。にらんだ顔もぞっとするほど妖艶だ。
「陽葉瑠……私、言いましたよね。男を誘惑するのは私のいなくなった後にしてほしいと。あなたはどうしてそう男を誘惑したがるのでしょう。春先まで男を我慢できませんか?」
不穏なものが漂う声だった。芭連をにらみつける目はいつも以上に強い。
「し、辰様! あの、違うんです、というか私は男を誘惑したおぼえはないのですが……」
「さっき頬を染めた可愛らしい姿を見せて、襲ってくれといわんばかりだったじゃないですか」
言いがかりではないだろうか。というか、ずっと会えなくて、やっと会えたのに、思っていた再会と大分違う。
「紅飛斗長」
辰様は村長を振り返った。
「私も参加してよろしいでしょうか」
「えっ、辰様って独身ってことでいいんでしたっけね? まあいいか! この時期の海はくらげがいるから気をつけてくださいね。あ、お着替えは、あそこにある子葉の建物でどうぞ。見られても平気でしたら、ここで脱がれてもいいですよ」
「……向こうで着替えてきます……」
そういうわけで、ことしは神様も参加する翡翠取りとなった。
辰様とは、あれ以来会っていない。
私が避けているわけではない。どうやら辰様の引きこもりがまた始まってしまったようだった。村長宅から出てこようとはしないのだ。落ち込んでいるのだろうか。泣いていないといいけれど。もし辰様が泣いたら、風名さんが慰めるのだろうか。そう思うと私のほうが泣きそうな気持ちになる。
時々無性に会いたくなることがあった。何でもないときに。洗濯ものを干しているときとか、月がちょうど半月だったとか、お茶を飲み終わったときとか、そんなふとした瞬間に。
そういうとき、神様の顔を思い浮かべると、決まって目を細め、嬉しそうに口を開けて笑った顔を思い出した。そんなに顔いっぱいに笑ったことは滅多になかったはずなのに。もっと控えめな微笑ばかりだったはずなのに、まんまるに笑った顔を思い浮かべる。泣いてばかりだったはずなのに。まじめな顔や怖い顔をされていたこともあった。でも、そういうものを思い出そうとしたら思い出の輪郭がぼやけた。
私の記憶の中では、辰様はいつも笑顔なのだ。それが自分でも不思議だった。
もし今度辰様と会えたら、何て言おう。
行かないでと止めていいのか。送り出したほうがいいのか。感情と理屈の間で揺れている。自分でもどうしたらいいのか答えが出せずにいた。
歩みのおそい時間の流れの中、それでも日々は過ぎ、豊漁祭の日となった。
豊漁祭は、その名が示すとおり漁に関するお祭りだ。ふだんの村の行事は紅飛斗が主役のものが多いけれど、豊漁祭は漁師が主役のお祭りで、だから、もっとも村が盛り上がる。みんなが参加できるから。
でも、ことしは楽しむような気持ちになれなくて、遠慮したい気持ちもあったのだが、芽那に強く誘われて、結局顔を出すことにした。
お祭りは早朝から始まる。漁師たちが夜明けごろ、砂浜や船上で祈祷を行う。これには紅飛斗は参加しない。禁止されているわけではないが、やはり一歩下がって出しゃばらないようにする空気があった。その後、翡翠取りが始まる。賑やかになるのはここからだ。夜には踊りと宴もあって、村中が大騒ぎとなる。
昼前、翡翠取りの公正を期すための海岸の立ち入り制限が解除されると、村の若者たちは我先にと砂浜へと駆け込むのが毎年恒例だ。男性はみな粗織の腰巻だけという、ほぼ裸に近い姿で目のやり場に困ってしまう。一方、女性はというと、ふだんと変わらない小袖姿だ。
残暑の厳しい日差しに熱せられた砂浜に、私は芽那とともにやってきて、すでに準備万端といった顔の玖鎖良と芭連に声をかけた。
「調子はどう」
芽那に向かって、玖鎖良はにかっと笑った。
「絶好調。今年こそ拾ってみせる」
「絶対だからね」
「まかせとけ」
それを穏やかに見守る芭連。いつもの光景に心がなぐさめられる。
しかし、芭連が「悪いが」と言い出した。
「今年は俺がいただく」
不敵に笑う。一瞬私と目が合った。
「そうこなくっちゃ」
玖鎖良はかえってやる気が出たようだ。
「あっ、あれ、留園先生じゃない? 先生!」
芽那が手を振っている。砂浜の向こうにいた先生は私たちに気づいて、こっちに向かってきた。先生も腰巻姿だ。玖鎖良と芭連を見て、顔をしかめる。
「おまえら、遠慮というものがないのか。特に玖鎖良、ひどいぞ」
先生の言いたいことがわかって、私と芽那は目配せしあって苦笑した。
この翡翠取りは、独身男性だけ参加できる行事なのだ。
このあたりの海中には、翡翠が撒かれているのだ。昨晩に村の人が撒いておいたものだ。
この村には翡翠に関する、ある言い伝えがあった。海で翡翠を拾った男性は、年内に結婚し、生涯豊漁が約束されたというものだ。この翡翠取りは、その伝説にあやかろうという行事なのだ。
もちろんそんな言い伝えを信じている人は少ない。だって、もしも彼女がいない人が拾った場合、もう夏も終わりのこの時期で、これから相手探しをして、年内の結婚は難しいだろう。そもそも生涯豊漁が約束されるって何なのか。海にはしけもある。ずっと豊漁なんてあり得ない。本当かどうか疑わしい伝説だった。でも、そういう伝説が村にはあるのだからしょうがない。秋の初めに海で翡翠を拾った漁師が、結婚して幸せになった上に、魚もいっぱい獲れるようになったということなので、もうしょうがない。
「翡翠は彼女のいない先輩に譲ろうとは思わんのか……」
留園先生が競争相手に揺さぶりをかけている。
「拾ったところで、先生には渡す相手がいないじゃないですか」
玖鎖良が暴言を吐き、先生に小突かれた。
「これから探すからいいんだよ!」
「へへ、済みません……。先生頑張ってください!」
「玖鎖良、調子に乗りすぎじゃないか……?」
さらに小突かれているが、玖鎖良はにやにやしている。
いつの頃からか、拾った翡翠を意中の女性に渡して、交際を申し込むという風習が生まれていた。翡翠とともに告白されて、断る女性なんていない、らしい。よく知らないけれど。
言い伝えなんて信じていないのに、多くの男性たちが本気で翡翠を取りにいくのは、このためである。もちろんただ単に翡翠争奪戦が楽しいだけという人も多いだろう。去年までは玖鎖良も芭連も後者だったはずだ。
しかし、玖鎖良は、今年は別の目的がある。翡翠を芽那に贈るという目的が。いや、告白したい相手に渡すものを既に婚約中の相手に渡すのも、それはそれでどうなのかということで、留園先生が渋い顔をするのもわからないでもない。翡翠は毎年数個しか撒かれない。限られた告白の機会を、既に恋愛が成就している玖鎖良に奪われてたまるかと留園先生は燃えているようだ。
村長が砂浜にあらわれ、口に両手を当てて、大声を出した。
「今年は翡翠をいっぱい撒いておきましたよ。参加者はみんな拾えますから安心してくださいね」
「はあ? 全員分用意したら意味ねえじゃん」
せっかくの競争を台無しにされて、玖鎖良が不満げに声をあげた。
「いいじゃない、全員拾えるなら、それはそれで」
翡翠が手に入ることが確定した芽那は嬉しそうだ。
全員拾って、全員結婚して、全員豊漁。村長のことだから、そんな調子の良いことを考えているのだろう。
「陽葉瑠」
いつの間にか芭連がそばに立っており、私を見下ろしていた。
腰巻姿であまり近くに立たれると、ちょっと恥ずかしい。なるべく体のほうを見ないようにしようと思うせいか、顔を見るのすらためらわれる。なんとなく頬が熱い。
「一番きれいな翡翠をとってくるから、受け取ってほしい」
「ば、芭連……」
どう返事したものか。困ってしまって、さまよわせた視線の先に、辰様がいた。
久しぶりに見た辰様は、しかし怖い顔をしていた。その隣には風名さんがいて、辰様の腕に抱きつくようにしている。私を見て、顔から微笑みを消し、眉を上げた。まるで獲物を見つけた猫のよう。
この人こそが夜魔の元凶であり、いまは人間を乗っ取っている夜魔。
それを知った上であらためて見てみても、やっぱりただの人間としか思えない。日差しを受けても赤くならない白い肌、涼しげな目元に小さな鼻……でも、きつく結ばれた口元には、妹と浮気男を殺すほどの頑迷さを感じないでもない……私がそういう目で見てしまっているだけだろうか。
そんなことを考えていたら、辰様が寄ってきた。組んでいた腕をほどかれてしまった風名は私をにらみつける。にらんだ顔もぞっとするほど妖艶だ。
「陽葉瑠……私、言いましたよね。男を誘惑するのは私のいなくなった後にしてほしいと。あなたはどうしてそう男を誘惑したがるのでしょう。春先まで男を我慢できませんか?」
不穏なものが漂う声だった。芭連をにらみつける目はいつも以上に強い。
「し、辰様! あの、違うんです、というか私は男を誘惑したおぼえはないのですが……」
「さっき頬を染めた可愛らしい姿を見せて、襲ってくれといわんばかりだったじゃないですか」
言いがかりではないだろうか。というか、ずっと会えなくて、やっと会えたのに、思っていた再会と大分違う。
「紅飛斗長」
辰様は村長を振り返った。
「私も参加してよろしいでしょうか」
「えっ、辰様って独身ってことでいいんでしたっけね? まあいいか! この時期の海はくらげがいるから気をつけてくださいね。あ、お着替えは、あそこにある子葉の建物でどうぞ。見られても平気でしたら、ここで脱がれてもいいですよ」
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