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第二十八話 不幸のはじまり
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「風名さんが夜魔……? そんな……誰よりも夜魔を殺している旗星なのに……」
夫と妹に裏切られ、夜魔となった天女。それが旗星だなんて、とても信じられなかった。
それに彼女は見た目も人間にしか見えない。そもそも風名さんはこの村生まれ、この村育ちだ。どこかからか突然やってきた人ではない。私も幼い頃から知っている。彼女も幼い頃は種砂に通って、十八歳になったら子葉で学び、紅飛斗になった。たくさんの男性たちを虜にしてきた風名さんは村の有名人でもある。そんな人がいつどうやって夜魔になるというのだろう。
「あの娘はもともとは人間だったのですが、幼いころに風名に勝負を挑んだそうです。親のかたきを討とうとしたということのようですね……。幼い身で風名のいる山奥までひとりでたどり着いた子です、さぞ優秀だったことでしょう。でも勝ったのは風名だった。それ以来、体を乗っ取って風名と改名し、人間のふりをしてこの村に潜伏していたようです」
「潜伏って、何のためにですか」
「天界に還るために。彼女は青帝に迎えにきてもらいたくて、村で暮らし始めたのです。夜魔に堕ちてしまった彼女は天女としての力を喪失しているので、単身では天界に戻れない。しかし、いくら待っても夫が迎えにこないので、ついに使者を送った。それが不幸のはじまりでした」
「不幸の……?」
何もかもを諦めたような静かな倦怠感の漂う顔で、辰様は頷く。
不幸の詳細も気になったが、私はもっと気になることがあった。風名さんのことだ。彼女が夜魔の母であり、伝説にある天女――紅人であるのなら、その風名が今もなお愛する相手は……。
思い出す。辰様と彼女が初めて会った夜を。
頬を染めて見つめていた。
夕立の日も。
辰様と雨宿りをしていて、私を追おうとした辰様を引き止めた。
そして、今夜。
口づけをねだっていた。
ならば導かれる結論は一つしかなかった。
「辰様は青帝なのですか」
泣きそうに、寂しそうに微笑む。時折見せる、あの優しい、けれど泣きだす寸前みたいな顔。
「ああ、結局全て知られてしまいましたね。悪事というのは必ず暴かれるものなのかもしれません。そうです、ここに青帝がいます」
辰様は自分の胸に手を置いた。
「でも、私自身が青帝なわけではないのです。私は……」
声がかすれて、喉元がひくついた。
「私は陽葉瑠にもう一度会いたい一心で、青帝を喰らい、一体化しました。それが私のもう一つの罪なのです」
「青帝を……喰らう……?」
そんなことがあり得るのか……。しかし、違和感の正体がやっとわかって、妙に納得するものがあった。以前の辰様とは違う、怖くて、知らないものが辰様の中にあるという直感。天界の帝だなんて、神話の世界の人物だ。神様よりもっと遠い世界の人。そんなものの正体をみきわめるのは難しく、また怖くて当然だ。神産みの箱から産まれる神様とは違う、本当の意味での神様だ。私たちが困ったときや嬉しいときに祈るほうの神様。
大いなるものへの畏怖。それが怖さの正体だった。
私は半分が夜魔だからでしょうか、と辰様は話し始めた。
「青帝を喰らうだなんて、普通の神にはできないはずです。しかし、私にはできてしまった」
遠く夜空を見上げる。その碧の目は、空の向こうに天界を探しているかのようだった。
神様はゆっくり語り始めた。
――あの日。
全ての運命が歪むこととなった大切な日。
黒紀酒がいつもよりずっと美味しく感じた。これは変だと気づきながら、欲望のまま飲み干した。陽葉瑠の血だとわかって、自分を抑えていた自制心が消え失せた。飢えた身にはあまりに甘露だった。
あの子が欲しい。あの子が欲しい。それしか考えられなくなった。
欲望のままにあの子を襲った。震える触手を伸ばし、絡め取る。魂ごと食い尽くそうとした。すると、あの子の心が伝わってきた。ああ、自分をこんなにも思ってくれているのか。なんて優しい子。私はこんな子を食べてしまおうというのか。自分があまりに醜くて、こんな醜い私なんか消えてしまうべきだと思った。
神産みの箱に戻ろう。あの箱は生きている人間は通過できないし、神が入れば、ばらばらに分解されて、次の神づくりの材料になる。最良の選択だと思った。
実際のところ、陽葉瑠はそれで助かった。本当に良かった。それだけは良かった。
でも、誤算もあった。箱に入ってみても、私はばらばらにならなかった。箱は長年の栄養不足により、神を崩す力が残っていなかった。あるいは、陽葉瑠の血で力を得ていたからか。箱は私を分解できなかった。
箱の中には、次に産まれる予定の神が眠っていた。とても強い神。おそらく世界で一番強い神、青帝が眠っていた。青帝は強いだけでなく、とても美しかった。人間の男性にそっくりな体を持っていた。羨ましいと思った。私がこのような姿であったら、陽葉瑠は私を男として愛してくれるかもしれない。
間違った考えが、私を支配した。
青帝を喰らって、その力を自分のものにし、再び神産みの箱から産まれ直す。
そうすれば、また陽葉瑠と会える。
美しい男の姿で、陽葉瑠に会える。
欲望に逆らえなかった。
なぜ天界を支配する帝が、こんな箱の中で眠っているのか。何か理由があるはずだ。だが、そんなことはどうでもよかった。陽葉瑠に会いたい。美しくて強くて正しい私になって、会いにいきたい。
私は、眠る青帝を喰らった。
普通なら食われるのは私のほうだ。圧倒的に格が違うのだから、かなうわけがない。でも、そのときはまだ自覚していなかったけれど、私には夜魔の力があった。相手を喰らい、自分のものとする力が。
青帝を喰らうと、青帝の記憶が流れ込んできた。
この数百年の間、この村で起きた出来事を全て見ていた。ずっと風名を見守っていた。風名が夜魔を産み、紅飛斗がそれを討つ。人間たちは時に命を失いながらも戦い続ける。その歴史を見つめていた。
どちらを応援すればいいのか、おのれの立場も決められないままに。
紅飛斗と村人を皆殺しにすれば、風名の気は済むだろう。そうさせてやりたい。だが、青帝としてそれを許すわけにはいかない。二つの気持ちの間で揺れ続けていた。
愛していた。何百年も変わらず風名を愛していた。
風名への愛とともに、私自身のことも知った。
私は、なぜ自分が醜く産まれたのか。それは神産みの箱に、夜魔が入り込んだからだ。その夜魔は、風名の使者だった。天に還りたいと青帝に伝えるために箱に入ったのだ。神産みの箱は、天界に通じているから。
夜魔は風名の思いを天に伝えることで役目を終え、しかし、箱の外には出られず、天界への行き方も知らなかった。行き場をなくした夜魔は、産まれる日を待って眠っていた私と混ざった。
風名の思いを知り、青帝は村に迎えにいくことにした。
しかし青帝の力はあまりに強大で、そのままでは人間界におりることはできなかった。だから弱体化した状態――神産みの箱から産まれた神という形になって、村に行くことにした。風名と再会したら、二人で箱に入り、天界に戻るはずだった。
そんなこともしらず、私は青帝を喰らってしまった。
風名は夜魔を産む存在だから、天界に戻れば、こちらの世界から夜魔はいなくなる。村は平和になるはずだった。もう誰も夜魔に襲われる心配をしなくていいのだ。
私がそれをぶち壊した。訪れるはずだった平和な結末を、永遠に消し去った。
おそろしい罪を犯したことを、その重さを、私は一生背負うこととなった。
青帝はもういない。
ひとり残された風名は、私に気づいた。私の中にのこる青帝の残滓を。夜魔に村を襲わせることで、私に光の雨を使わせた。青帝にしか使えない力。それで確信した。
風名が愛おしげに私を見つめる。
心がざわつく。風名を愛しいと思ってしまう。青帝を抑えきれない。
でも、風名が私を夫として認めるのであれば、まだ取り返しがつくのかもしれないと思った。この村の人々が夜魔に襲われることのない平和が訪れる可能性が、まだ残されているのだ。
私は醜い神。出来損ないの間違った神。でも、この村に喜びごとを運ぶ務めがある。この村の人々を幸せにしたい。欲望のままに罪を犯した私は、今度こそ正しいことをしたい。神として正しくありたい。
――だから、青帝のかわりに、私は風名を連れて天界に帰ります。
「これが、私の罪と償い。私が陽葉瑠とはもう一緒にはいられない理由なのです。隠していてごめんなさい。でも、陽葉瑠には知られなくなかった……。陽葉瑠にだけはこんなにも醜い私を知られたくなかった。私を大事に思ってくれているあなただからこそ、何も言わずにお別れをしようと思いました」
夫と妹に裏切られ、夜魔となった天女。それが旗星だなんて、とても信じられなかった。
それに彼女は見た目も人間にしか見えない。そもそも風名さんはこの村生まれ、この村育ちだ。どこかからか突然やってきた人ではない。私も幼い頃から知っている。彼女も幼い頃は種砂に通って、十八歳になったら子葉で学び、紅飛斗になった。たくさんの男性たちを虜にしてきた風名さんは村の有名人でもある。そんな人がいつどうやって夜魔になるというのだろう。
「あの娘はもともとは人間だったのですが、幼いころに風名に勝負を挑んだそうです。親のかたきを討とうとしたということのようですね……。幼い身で風名のいる山奥までひとりでたどり着いた子です、さぞ優秀だったことでしょう。でも勝ったのは風名だった。それ以来、体を乗っ取って風名と改名し、人間のふりをしてこの村に潜伏していたようです」
「潜伏って、何のためにですか」
「天界に還るために。彼女は青帝に迎えにきてもらいたくて、村で暮らし始めたのです。夜魔に堕ちてしまった彼女は天女としての力を喪失しているので、単身では天界に戻れない。しかし、いくら待っても夫が迎えにこないので、ついに使者を送った。それが不幸のはじまりでした」
「不幸の……?」
何もかもを諦めたような静かな倦怠感の漂う顔で、辰様は頷く。
不幸の詳細も気になったが、私はもっと気になることがあった。風名さんのことだ。彼女が夜魔の母であり、伝説にある天女――紅人であるのなら、その風名が今もなお愛する相手は……。
思い出す。辰様と彼女が初めて会った夜を。
頬を染めて見つめていた。
夕立の日も。
辰様と雨宿りをしていて、私を追おうとした辰様を引き止めた。
そして、今夜。
口づけをねだっていた。
ならば導かれる結論は一つしかなかった。
「辰様は青帝なのですか」
泣きそうに、寂しそうに微笑む。時折見せる、あの優しい、けれど泣きだす寸前みたいな顔。
「ああ、結局全て知られてしまいましたね。悪事というのは必ず暴かれるものなのかもしれません。そうです、ここに青帝がいます」
辰様は自分の胸に手を置いた。
「でも、私自身が青帝なわけではないのです。私は……」
声がかすれて、喉元がひくついた。
「私は陽葉瑠にもう一度会いたい一心で、青帝を喰らい、一体化しました。それが私のもう一つの罪なのです」
「青帝を……喰らう……?」
そんなことがあり得るのか……。しかし、違和感の正体がやっとわかって、妙に納得するものがあった。以前の辰様とは違う、怖くて、知らないものが辰様の中にあるという直感。天界の帝だなんて、神話の世界の人物だ。神様よりもっと遠い世界の人。そんなものの正体をみきわめるのは難しく、また怖くて当然だ。神産みの箱から産まれる神様とは違う、本当の意味での神様だ。私たちが困ったときや嬉しいときに祈るほうの神様。
大いなるものへの畏怖。それが怖さの正体だった。
私は半分が夜魔だからでしょうか、と辰様は話し始めた。
「青帝を喰らうだなんて、普通の神にはできないはずです。しかし、私にはできてしまった」
遠く夜空を見上げる。その碧の目は、空の向こうに天界を探しているかのようだった。
神様はゆっくり語り始めた。
――あの日。
全ての運命が歪むこととなった大切な日。
黒紀酒がいつもよりずっと美味しく感じた。これは変だと気づきながら、欲望のまま飲み干した。陽葉瑠の血だとわかって、自分を抑えていた自制心が消え失せた。飢えた身にはあまりに甘露だった。
あの子が欲しい。あの子が欲しい。それしか考えられなくなった。
欲望のままにあの子を襲った。震える触手を伸ばし、絡め取る。魂ごと食い尽くそうとした。すると、あの子の心が伝わってきた。ああ、自分をこんなにも思ってくれているのか。なんて優しい子。私はこんな子を食べてしまおうというのか。自分があまりに醜くて、こんな醜い私なんか消えてしまうべきだと思った。
神産みの箱に戻ろう。あの箱は生きている人間は通過できないし、神が入れば、ばらばらに分解されて、次の神づくりの材料になる。最良の選択だと思った。
実際のところ、陽葉瑠はそれで助かった。本当に良かった。それだけは良かった。
でも、誤算もあった。箱に入ってみても、私はばらばらにならなかった。箱は長年の栄養不足により、神を崩す力が残っていなかった。あるいは、陽葉瑠の血で力を得ていたからか。箱は私を分解できなかった。
箱の中には、次に産まれる予定の神が眠っていた。とても強い神。おそらく世界で一番強い神、青帝が眠っていた。青帝は強いだけでなく、とても美しかった。人間の男性にそっくりな体を持っていた。羨ましいと思った。私がこのような姿であったら、陽葉瑠は私を男として愛してくれるかもしれない。
間違った考えが、私を支配した。
青帝を喰らって、その力を自分のものにし、再び神産みの箱から産まれ直す。
そうすれば、また陽葉瑠と会える。
美しい男の姿で、陽葉瑠に会える。
欲望に逆らえなかった。
なぜ天界を支配する帝が、こんな箱の中で眠っているのか。何か理由があるはずだ。だが、そんなことはどうでもよかった。陽葉瑠に会いたい。美しくて強くて正しい私になって、会いにいきたい。
私は、眠る青帝を喰らった。
普通なら食われるのは私のほうだ。圧倒的に格が違うのだから、かなうわけがない。でも、そのときはまだ自覚していなかったけれど、私には夜魔の力があった。相手を喰らい、自分のものとする力が。
青帝を喰らうと、青帝の記憶が流れ込んできた。
この数百年の間、この村で起きた出来事を全て見ていた。ずっと風名を見守っていた。風名が夜魔を産み、紅飛斗がそれを討つ。人間たちは時に命を失いながらも戦い続ける。その歴史を見つめていた。
どちらを応援すればいいのか、おのれの立場も決められないままに。
紅飛斗と村人を皆殺しにすれば、風名の気は済むだろう。そうさせてやりたい。だが、青帝としてそれを許すわけにはいかない。二つの気持ちの間で揺れ続けていた。
愛していた。何百年も変わらず風名を愛していた。
風名への愛とともに、私自身のことも知った。
私は、なぜ自分が醜く産まれたのか。それは神産みの箱に、夜魔が入り込んだからだ。その夜魔は、風名の使者だった。天に還りたいと青帝に伝えるために箱に入ったのだ。神産みの箱は、天界に通じているから。
夜魔は風名の思いを天に伝えることで役目を終え、しかし、箱の外には出られず、天界への行き方も知らなかった。行き場をなくした夜魔は、産まれる日を待って眠っていた私と混ざった。
風名の思いを知り、青帝は村に迎えにいくことにした。
しかし青帝の力はあまりに強大で、そのままでは人間界におりることはできなかった。だから弱体化した状態――神産みの箱から産まれた神という形になって、村に行くことにした。風名と再会したら、二人で箱に入り、天界に戻るはずだった。
そんなこともしらず、私は青帝を喰らってしまった。
風名は夜魔を産む存在だから、天界に戻れば、こちらの世界から夜魔はいなくなる。村は平和になるはずだった。もう誰も夜魔に襲われる心配をしなくていいのだ。
私がそれをぶち壊した。訪れるはずだった平和な結末を、永遠に消し去った。
おそろしい罪を犯したことを、その重さを、私は一生背負うこととなった。
青帝はもういない。
ひとり残された風名は、私に気づいた。私の中にのこる青帝の残滓を。夜魔に村を襲わせることで、私に光の雨を使わせた。青帝にしか使えない力。それで確信した。
風名が愛おしげに私を見つめる。
心がざわつく。風名を愛しいと思ってしまう。青帝を抑えきれない。
でも、風名が私を夫として認めるのであれば、まだ取り返しがつくのかもしれないと思った。この村の人々が夜魔に襲われることのない平和が訪れる可能性が、まだ残されているのだ。
私は醜い神。出来損ないの間違った神。でも、この村に喜びごとを運ぶ務めがある。この村の人々を幸せにしたい。欲望のままに罪を犯した私は、今度こそ正しいことをしたい。神として正しくありたい。
――だから、青帝のかわりに、私は風名を連れて天界に帰ります。
「これが、私の罪と償い。私が陽葉瑠とはもう一緒にはいられない理由なのです。隠していてごめんなさい。でも、陽葉瑠には知られなくなかった……。陽葉瑠にだけはこんなにも醜い私を知られたくなかった。私を大事に思ってくれているあなただからこそ、何も言わずにお別れをしようと思いました」
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