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第十話 魂に染みこむ死
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最初、黒い闇が大地にわだかまっているのかと思った。
だが、その闇はもぞりと身を起こした。緑色の二つの眼がこちらを向く。
それは黒い蛇……いや、足がある。蜥蜴だ。二股の黒い舌を口から出して、細かく震わせている。猫より少し大きいぐらいの体は炭のように黒く、光沢はまるでない。光を吸い込んでしまいそうな暗い色をしている。
夜魔だ。
「その場で待機」
言われたとおり立ち止まる。先生から数歩離れた距離だ。
杖を構えた先生が一歩前に足を踏み出す。すると蜥蜴は機敏に後ずさった。先生はさらに一歩、続いて二歩と間合いを詰める。蜥蜴は後退しつつ、油断なく攻撃の隙を窺う。
私は息をひそめて見守った。留園先生、どうかご無事でと祈りながら。
押されていた蜥蜴が後退をやめ、四肢にぐっと力を込めるのが見えた。飛びかかってくる! しかし、それは先生も予測していたようで、向かってきた蜥蜴の動きを読むように杖を振りかぶり、蜥蜴が飛び上がった瞬間、先端を振り下ろした。
硬いもの同士がぶつかる音がして、蜥蜴が地面に叩きつけられた。
蜥蜴は手足をばたつかせてさらに前進しようとしたが、錫の力によって痺れたように動きが鈍くなっている。先生は杖の先端を蜥蜴の頭に押し当てた。杖を掴んだ指が白くなるほど強く押し当てている。その圧力に耐えきれないように、ぱきんと軽い音がして、蜥蜴の頭部が割れた。続いて胴体や四肢、尾も崩れるように割れて、あたりに黒い欠片が散らばった。
「せ、先生……」
あっという間に夜魔を倒してしまった。拍子抜けするほどあっけない。
「陽葉瑠、ちゃんと見ていたか?」
「は、はい」
先生は振り向くと、いつものまじめな顔で頷いた。
「夜魔は人を憎む。とりわけ紅飛斗を憎むから、必ず向かってくる。最初の一撃はそこを狙うんだ。ちゃんと錫を当てるんだぞ。錫を強く押し込めば、夜魔は割れる」
私は黒い欠片のそばにしゃがみこんで観察した。欠片はまるで艶のない黒曜石のようだ。こんなものがさっきまでは生き物のようにしなやかに動いていた。なんだか嘘みたいだ……。
「触るなよ。触れれば夜魔が魂に染みこむ。そうなれば命はない」
私は慌てて離れた。
「先生、この欠片はどうするのですか」
誰かがうっかり触ってしまったら危険ではないだろうか。先生は貫頭衣の下から竹筒を取り出し、栓を抜くと中の液体を欠片にかけた。するとたちまち夜魔の欠片は溶けて消えてしまった。
「この水筒には水と一緒に錫を入れてある。夜魔は錫と水に弱いから、<錫の水>で浄化できる」
先生は竹筒を懐にしまい、ふうと息を吐いた。
「これで、きょうの夜魔退治は終了だ。思ったより早く片付いたな……」
そのとき、先生が息をのむ音がした。
私は反射的に振り返った。
すぐ目の前に、猿がいた。地面に前足をついている。私の膝ぐらいの背丈だ。大きさからいって雪猿だろう。しかし、闇のように黒い。緑色の瞳と目が合った。猿が口を大きくあけた。まるで笑うみたいに。舌も鋭い歯も禍々しいほどに黒い。
まだ夜魔がいたなんて。一体だけだと聞いていたのに。
「陽葉瑠、下がれ!」
しかし、先生が言い終わるより先に夜魔が私に向かって飛びかかってきた。
――下がっては、やられる……。
私は夜魔に向かって杖を突き出した。大きく開けた黒い口に、杖を突っ込む形となった。うまくいった! しかし痺れている様子はない。錫が当たっているのに。もしや強い夜魔なのだろうか。
猿は幼児のような手で杖を握り、力を込めた。杖を折ろうというのか。そうはさせない。私は全力で杖を横に振る。猿が地面に横倒しになった。機を逃さす、追撃に出る。思い切り杖を奥へと突き出した。錫の部分が猿の胸に当たる。
思わず笑みがこぼれた。
全身の血が熱くたぎっている。不思議なぐらい興奮していた。
どうしてなのかわからない。ただ欲望があった。夜魔を倒したいという欲望が。
ひどく喉が渇いている。唇を舐めて、さらに手に力を込めて、錫を押し当てる。
――還れ
自分の内側から、そんな声が響いてきた気がした。その声に私は心を同調させる。
――還れ
――還れ
――おまえはこの世界にいて良い存在ではない。もとのところに還れ。
全身の血が震えるような感覚とともに、猿が光った。いや、違う、杖だ。杖の先端が光っているのだ。
光を浴びた猿は、どろりと溶けた。光はどんどん強くなり、まばゆい閃光があたりを包んだ。
「陽葉瑠!」
先生の声に、はっとして目をあける。戦いの最中に目を閉じるなんて愚かなことをしてしまった。
杖はもう光っていなかった。夜魔ももういない。欠片すら残っていなかった。先ほどの光で溶けてしまったようだ。
私から少し離れた位置に立っている先生は、顔をしかめ、けれど、どこか気まずいような奇妙な表情をしていた。
「先生、今のって何でしょうか」
「あ、ああ……」
動揺している様子の先生は、視線を逸らした。
「今のは……。いや、でも夜魔を倒したな。猿の夜魔だった。なかなか強いやつだ。よくやったな」
咳払いをして、そんなことを言う。
「先生……? 何か変です。一体どうなさったのですか」
「いや、それは……、説明してやりたいところだが俺には言えん、勘弁してくれ……」
先生はなぜか顔を赤くしている。
わけがわからず、さらに質問を重ねようとそばに寄ると、先生は耳まで赤くして、なぜか慌てた様子で後ろにさがった。
そのとき、はっきり見えた。木の陰から黒い兎が飛び出してきて、先生に跳びかかるのが。
私が息を飲むのとほぼ同時に先生は振り返ったが、間に合わない。黒兎は先生の背中に吸い込まれるように消えてしまった。
留園先生はその場に崩れ落ちた。
「先生……っ!」
地面にうつぶせに倒れていた先生を仰向かせ、顔をのぞきこんだけれど、既に意識がなかった。四肢もぐったりとして動かない。
ああ、先生が夜魔に侵されてしまうなんて。
「ど、どうしよう……」
がちがちと歯が鳴った。どうしよう。夜魔に侵された人間は消えてしまう。それこそ遺体も残さず消失する。
このままでは先生が消えてしまう。
幼い頃から知っている人が、たくさんのことを教えてくれた先生が、一緒におままごとをしたお兄ちゃんが消えてしまう。そんなのは嫌だ!
「せ、先生……! 私どうしたらいんでしょう、どうすれば先生を救えますか! 教えてください!」
泣いているのか叫んでいるのかわからないぐらいの声で尋ねる。どうか答えて!
だが、その闇はもぞりと身を起こした。緑色の二つの眼がこちらを向く。
それは黒い蛇……いや、足がある。蜥蜴だ。二股の黒い舌を口から出して、細かく震わせている。猫より少し大きいぐらいの体は炭のように黒く、光沢はまるでない。光を吸い込んでしまいそうな暗い色をしている。
夜魔だ。
「その場で待機」
言われたとおり立ち止まる。先生から数歩離れた距離だ。
杖を構えた先生が一歩前に足を踏み出す。すると蜥蜴は機敏に後ずさった。先生はさらに一歩、続いて二歩と間合いを詰める。蜥蜴は後退しつつ、油断なく攻撃の隙を窺う。
私は息をひそめて見守った。留園先生、どうかご無事でと祈りながら。
押されていた蜥蜴が後退をやめ、四肢にぐっと力を込めるのが見えた。飛びかかってくる! しかし、それは先生も予測していたようで、向かってきた蜥蜴の動きを読むように杖を振りかぶり、蜥蜴が飛び上がった瞬間、先端を振り下ろした。
硬いもの同士がぶつかる音がして、蜥蜴が地面に叩きつけられた。
蜥蜴は手足をばたつかせてさらに前進しようとしたが、錫の力によって痺れたように動きが鈍くなっている。先生は杖の先端を蜥蜴の頭に押し当てた。杖を掴んだ指が白くなるほど強く押し当てている。その圧力に耐えきれないように、ぱきんと軽い音がして、蜥蜴の頭部が割れた。続いて胴体や四肢、尾も崩れるように割れて、あたりに黒い欠片が散らばった。
「せ、先生……」
あっという間に夜魔を倒してしまった。拍子抜けするほどあっけない。
「陽葉瑠、ちゃんと見ていたか?」
「は、はい」
先生は振り向くと、いつものまじめな顔で頷いた。
「夜魔は人を憎む。とりわけ紅飛斗を憎むから、必ず向かってくる。最初の一撃はそこを狙うんだ。ちゃんと錫を当てるんだぞ。錫を強く押し込めば、夜魔は割れる」
私は黒い欠片のそばにしゃがみこんで観察した。欠片はまるで艶のない黒曜石のようだ。こんなものがさっきまでは生き物のようにしなやかに動いていた。なんだか嘘みたいだ……。
「触るなよ。触れれば夜魔が魂に染みこむ。そうなれば命はない」
私は慌てて離れた。
「先生、この欠片はどうするのですか」
誰かがうっかり触ってしまったら危険ではないだろうか。先生は貫頭衣の下から竹筒を取り出し、栓を抜くと中の液体を欠片にかけた。するとたちまち夜魔の欠片は溶けて消えてしまった。
「この水筒には水と一緒に錫を入れてある。夜魔は錫と水に弱いから、<錫の水>で浄化できる」
先生は竹筒を懐にしまい、ふうと息を吐いた。
「これで、きょうの夜魔退治は終了だ。思ったより早く片付いたな……」
そのとき、先生が息をのむ音がした。
私は反射的に振り返った。
すぐ目の前に、猿がいた。地面に前足をついている。私の膝ぐらいの背丈だ。大きさからいって雪猿だろう。しかし、闇のように黒い。緑色の瞳と目が合った。猿が口を大きくあけた。まるで笑うみたいに。舌も鋭い歯も禍々しいほどに黒い。
まだ夜魔がいたなんて。一体だけだと聞いていたのに。
「陽葉瑠、下がれ!」
しかし、先生が言い終わるより先に夜魔が私に向かって飛びかかってきた。
――下がっては、やられる……。
私は夜魔に向かって杖を突き出した。大きく開けた黒い口に、杖を突っ込む形となった。うまくいった! しかし痺れている様子はない。錫が当たっているのに。もしや強い夜魔なのだろうか。
猿は幼児のような手で杖を握り、力を込めた。杖を折ろうというのか。そうはさせない。私は全力で杖を横に振る。猿が地面に横倒しになった。機を逃さす、追撃に出る。思い切り杖を奥へと突き出した。錫の部分が猿の胸に当たる。
思わず笑みがこぼれた。
全身の血が熱くたぎっている。不思議なぐらい興奮していた。
どうしてなのかわからない。ただ欲望があった。夜魔を倒したいという欲望が。
ひどく喉が渇いている。唇を舐めて、さらに手に力を込めて、錫を押し当てる。
――還れ
自分の内側から、そんな声が響いてきた気がした。その声に私は心を同調させる。
――還れ
――還れ
――おまえはこの世界にいて良い存在ではない。もとのところに還れ。
全身の血が震えるような感覚とともに、猿が光った。いや、違う、杖だ。杖の先端が光っているのだ。
光を浴びた猿は、どろりと溶けた。光はどんどん強くなり、まばゆい閃光があたりを包んだ。
「陽葉瑠!」
先生の声に、はっとして目をあける。戦いの最中に目を閉じるなんて愚かなことをしてしまった。
杖はもう光っていなかった。夜魔ももういない。欠片すら残っていなかった。先ほどの光で溶けてしまったようだ。
私から少し離れた位置に立っている先生は、顔をしかめ、けれど、どこか気まずいような奇妙な表情をしていた。
「先生、今のって何でしょうか」
「あ、ああ……」
動揺している様子の先生は、視線を逸らした。
「今のは……。いや、でも夜魔を倒したな。猿の夜魔だった。なかなか強いやつだ。よくやったな」
咳払いをして、そんなことを言う。
「先生……? 何か変です。一体どうなさったのですか」
「いや、それは……、説明してやりたいところだが俺には言えん、勘弁してくれ……」
先生はなぜか顔を赤くしている。
わけがわからず、さらに質問を重ねようとそばに寄ると、先生は耳まで赤くして、なぜか慌てた様子で後ろにさがった。
そのとき、はっきり見えた。木の陰から黒い兎が飛び出してきて、先生に跳びかかるのが。
私が息を飲むのとほぼ同時に先生は振り返ったが、間に合わない。黒兎は先生の背中に吸い込まれるように消えてしまった。
留園先生はその場に崩れ落ちた。
「先生……っ!」
地面にうつぶせに倒れていた先生を仰向かせ、顔をのぞきこんだけれど、既に意識がなかった。四肢もぐったりとして動かない。
ああ、先生が夜魔に侵されてしまうなんて。
「ど、どうしよう……」
がちがちと歯が鳴った。どうしよう。夜魔に侵された人間は消えてしまう。それこそ遺体も残さず消失する。
このままでは先生が消えてしまう。
幼い頃から知っている人が、たくさんのことを教えてくれた先生が、一緒におままごとをしたお兄ちゃんが消えてしまう。そんなのは嫌だ!
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