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【第2章】
第42話 シリウスの過去⑧
しおりを挟む俺が転移した先、野戦病院は、それはもう酷い有様だった。
テントの至るところに血がこびりつき、いくつもの呻きや叫びが響いている。
「痛い! もう嫌だ、殺してくれ!」
「麻酔は無いのか!? 麻酔を打ってくれ!」
「片腕が無くても、まだ生きているなら、戦わないと……」
俺はその場から動くことが出来なかった。
俺は冥界で、何億もの魂を見てきた。
何億もの死の記憶を見てきた。
だがそれは所詮、他人の記憶でしかなかったのだ。
目の前に広がっているのは、現実の「死」であり「死と戦う者たち」だった。
突然テントに現れた俺に気付いた看護師が鋭い声を発したが、俺はテントの中の光景に目が釘付けになっていて、返事をするどころではなかった。
サッと自分の血の気が引いていくのを感じる。
「…………シリウス?」
聞き覚えのある声が耳に入り、やっと我に返った。
「あなた、本当にシリウスなの? どうしてここに?」
忘れるわけのない声、マリアンヌだ。
俺はすぐに声のする方に顔を向けた。
しかし目の前に現れたのは、俺の知るマリアンヌには程遠い、くたびれて澱んだ眼をした女だった。
「マリアンヌ……だよな?」
「ええ、そうよ。それより、なぜあなたがここにいるの?」
「忠告をしに来た。君だって分かっているだろう……君は、救いすぎた」
マリアンヌは同僚の看護師に一声かけると、テントの外に俺を連れ出した。
テントの外にいても、テント内の悲痛な叫び声が聞こえてきた。
俺は大きく首を振って頭の中から叫び声を追い出したが、何度追い出しても、叫び声は次から次へと生まれてくる。
……これが、戦争。
「私は戦争を舐めていた……いいえ、あまりにも無知だったのよ」
目の前のマリアンヌは、澱んだ眼をしたまま呟いた。
「それは俺も同じだ。知識では知っていたけど、これは……」
「まるで地獄よ。寝ても覚めても、悲鳴と呻き声が耳から離れないの」
マリアンヌは、長い長い溜息を吐いた。
「それにね、“生を司る能力”は、万能ではなかったの」
「死んだ者を生き返らせることが出来るのに、か?」
「そうよ。“生を司る能力”では、蘇るのに必要な最低限の機能は回復するけど、千切れた手足は生えてこない。痛みも無くならない。そもそも生きている人間の怪我を治すことが出来ない」
疲れ切ったマリアンヌの声は、今にも消えてしまいそうだった。
「私には彼らの苦痛を減らすことが出来ないの。私に出来るのは、生き永らえらせて苦しめることだけ。それなのに次から次へと血まみれの患者がやってくる」
この話をしている間にも、テントには新たな患者が運ばれてきた。
患者を運んでいる兵士も酷い怪我を負っている。
「戦争行きに反対した俺が言うことでもないが、自信を持て。マリアンヌは死者を蘇らせているだろう。それは人間にとって喜ぶべきことのはずだ」
俺は心からそう思っていた。
だから、沈んでいるマリアンヌに励ましの言葉を投げた。
しかし俺は、人間の感情にあまりにも無知だった。
「俺はどうして生きているんだ!?」
「もう戦場に出たくない!」
「いっそ殺してくれ!」
マリアンヌが突然大声を出した。
その様子があまりにも迫真だったため、誰かに乗り移られたかのように見えた。
「何度も聞いたわ! 何度もね!」
「……マリアンヌ」
「そうよね、当然よ! 痛い思いをして死んだと思ったら、蘇ってまた痛い思いをしに戦場へ戻らなければならないなんて、誰だって嫌よね!」
「マリアンヌ、落ち着いてくれ」
「口では、『また戦えるのはあなたのおかげです』なんて言っている兵士も、きっと私のことを恨んでいるわ! 私が蘇らせた兵士を殺した相手国の兵士も、私を恨んでいるわ! 救えば救うほど、私はみんなに恨まれる!」
まるでノイローゼだった。
突如叫んだマリアンヌは、今度はわっと泣き始めた。
「だけど、救わずにはいられないの……だって、目の前で人が死んでいくのよ? そして私は、“生を司る能力”を持っている。恨まれたって、力を使って蘇らせないと。その人を待っている家族がいるかもしれない。その人の未来は明るいかもしれない……だから、救わないと」
俺は何も言えなかった。
言うべき言葉が、ただの一つも見つからなかったのだ。
しばらくの間、マリアンヌの鼻をすする音とテントの中の呻き声だけが響いていた。
「……ねえ、シリウス。あなたの回復魔法で救えないの? 野戦病院の魔法使いは、全員限界なのよ」
質問形式の言葉だったが、マリアンヌも答えは分かっているのだろう。
マリアンヌの声には一切の期待が乗っていなかった。
「マリアンヌの知っていることがすべてだ。回復魔法と言うと聞こえは良いが、実際は、相手の寿命を使って自己治癒力を高めさせるか、怪我や病を同種別個体に移動させる。そのどちらかの魔法を使う」
「あなたなら、いくら怪我や病を移動されても死なないわ」
「……俺は同種別個体には当てはまらない。俺は、人間ではない、から」
マリアンヌは、澱んだ眼に少しの悲しみを浮かべた。
「そうよね。私も自分に怪我を移そうとしたけど、駄目だった。私たちは人間じゃないから。この世界では、異物だから」
人間じゃない。異物。
そう言っているマリアンヌは、しかし人間のことを他人事とは思っていないようだった。
「“生を司る能力”を使わずに、兵士をそのまま死なせたこともあったわ。あまりにも酷い怪我で、蘇らせて再びの苦痛を与えることが戸惑われる兵士……この野戦病院はね、麻酔薬の数が限られていて自由には使えないの。だから、そのまま…………彼は、静かに逝ったわ。ここの患者のように呻いたり叫んだりせずにね」
俺の知る、無知ゆえにまっすぐで、純粋な希望に輝いていたマリアンヌは、もういない。
目の前にいるのに、マリアンヌがどこか遠くへ行ってしまったような気がした。
「私にはもう、何が正しいのか分からないわ。私は人間が好きで……ただ、生きてほしかっただけなのに」
「……マリアンヌ、もういいんだ。もう十分だ。君はもう必要分の魂を救っている。だから戦争から離れて、また一緒にのんびり暮らそう」
一縷の望みをかけ、マリアンヌをこちら側へ引き戻そうとした。
また一緒に、地上で楽しく暮らせるように。
しかし、それは叶わぬ願いだった。
「駄目よ。私はすでに関わってしまったもの。戦争と無関係な頃の私には戻れない」
「マリアンヌは人間に感情移入しすぎだ。もっと冥界で働いていた頃のように……」
「こんなに近くで生きているのに、感情移入しない方が難しいわ! 冷静なフリをしているあなたも、きっともう手遅れよ!」
俺はマリアンヌを連れ帰ろうと腕を掴んだが、掴んだ手は振り払われた。
「だから……私は最後までやるわ。勝手に人間同士の戦争に関わっておいて、自分の用事が済んだからハイおしまい、なんて許されない。戦場はそんな都合の良い話が通る場所じゃないの。関わったからには、私はすべてを背負うわ」
このとき、俺は、無理やりにでもマリアンヌを連れ戻すべきだった。
だが、俺には出来なかった。
ここまで覚悟を決めたマリアンヌを、無知な俺が理想だけを語って連れ戻すなど、到底無理な話だった。
* * *
それからしばらくして、戦争は終結した。
当然のことだが、マリアンヌが手を貸した方の国が勝利を収める結果となった。
それに伴い、都では勝利を記念した大々的なパレードが開催された。
戦争で功績をあげた軍人たちの横に並んで、マリアンヌも表彰されていた。
死んだと思われた兵士たちを蘇らせたマリアンヌのことを、誰かが『聖女』と呼んだ。
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