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【第1章】

第1話 「力が欲しいか」と聞かれたら

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「あの女に騙されてはいけません。彼女は聖女ではなく、承認欲求の化け物です。清らかな心の持ち主である本物の聖女は、ここにいます!

 ……これでいいんですよね、シリウス様? どうでしたか、私の凛々しい姿は! 惚れました? 惚れましたよね!? ほら、今すぐ愛しい私の唇を奪っちゃってもいいんですよ……って、無視はやめてくださーい!」


**********


 今日も私は埃っぽい倉庫で目を覚ました。とても侯爵家で暮らす人間の目覚めとは言えないだろうこの目覚めも、私にとっては日常だ。何故なら私、クレア・クランドルは、侯爵家の私生児だからだ。

「うーん……」

 朝日を浴びようと倉庫から出たが、まだ太陽の姿は見えない。それでも二度寝をする時間は無い。私は大きく伸びをすると、腕まくりをした。

 まずは倉庫から箒を持ち出して家の周りの掃除から始める。
 ついでに倉庫も掃除すれば効率がいいとは思うのだが、そのためにはさらに早起きをしなくてはならない。
 睡眠と衛生を天秤にかけた結果、睡眠を選択し続けているため、私は毎日埃っぽい倉庫で眠る羽目になっている。

「カアァァ……カアァ……」

 掃き掃除をしていると、弱々しい鳴き声が耳に飛び込んできた。
 導かれるように声のする方へ向かうと一羽のカラスが薪の束に埋もれていた。きっと薪で出来た山の近くを歩いている際に、薪の束が雪崩を起こしたのだろう。
 あの薪を積んだのは私だ。不安定な積み方をしていたのかもしれない。何だか罪悪感が湧いてくる。

「ちょっと待っていてください。今、退かしますから」

 箒を地面に置いて、薪を一つ一つ退かしていく。カラスは私が何をしているか分かっているようで、大人しく薪が退かされるのを待っていた。
 よく見るとカラスの足首には小さなリングが付けられている。
 誰かに調教を受けているカラスだから頭が良いのかもしれない。

「はい、これで動けるはずです。怪我はしてませんか?」

 カラスはその場で軽く羽を動かした後、空高く飛んで行った。どうやら大きな怪我は無かったようだ。
 ふと薪に視線を戻すと、薪の間に光る物が見えた。手を伸ばしてそれを掴む。光っていたのはガラスの破片だった。

「もしかしてあのカラスは、これを取ろうとして?」

 カラスは光る物が好きだと聞いたことがある。このガラスの破片を取ろうとして無理に薪の間に身体を捻じ込んだせいで、薪が崩れ落ちたのかもしれない。

「……って、こんなことしてる場合じゃなかった! 急がないと!」

 私は急いで中断していた掃き掃除を再開した。


 掃き掃除が終わった後は、近場の川へ水を汲みに行く。
 これが結構重労働だ。しかも一日に何度も水を汲みに行くから辛い。
 毎日水汲みをしているおかげで私はガリガリの身体だけど健脚ではある。理由が理由なので幸か不幸かは分からないが。

 水を汲み終わったら次は朝食の準備だ。野菜を洗い、皮を剥いていく。

「おおっと、またしても厚く剥いてしまったぞ。私の不器用さん」

 剥いた皮は細かく刻んで私が食べるので、やや厚めに剥く。
 わざと厚く剥いていることがバレたら皮ですら没収されそうなので、あくまで不器用なために厚く剥いてしまったと誤魔化せる程度の厚さで。逆に器用だと毎日自分で自分を褒めている。

「こんなことが上手い侯爵家の娘はきっと私だけ。オンリーワン技能。私すごい、私天才」

 私の自画自賛を聞く者はいない。他の家族はまだ幸せな眠りの中だろう。

 皮を剥いた野菜を一口大に切り終わったら、次は火起こしだ。
 最初は苦労した火起こしも、もう慣れたものだ。
 鍋が沸くのを待っている間に調味料を用意する。私自身の食べる料理には使用の認められていない調味料。味見の際にだけ味わうことが出来る。

「朝食だから優しくてあっさりした味にして、これと、これと……」

 以前自分の食べる料理にこっそり調味料を使ったことがあるが、そのことが兄であるジャン・クランドルにバレてしまい、仕置きとして何度も殴打された。
 それをきっかけに私を殴ることに楽しみを覚えたジャンは、機嫌が悪くなると大した理由もなく私を殴るようになってしまった。

 早く大人になってこんな家からは脱出したいが、そのための資金はまるで無い。おまけに私には教養も無い。一生飼い殺しになるだろう自分の境遇に頭を抱えるばかりだ。
 文字を学びたいと侯爵に頼んでみたことがあるが、悩む素振りすら見せずに却下された。
 教養の無い馬鹿の方が扱いやすいからだろう。きっと下手に知識を付けると、この境遇から抜け出す方法を思いついてしまうから。

 ぐつぐつと鍋の発する音で我に返った。すぐに切っておいた野菜を入れて煮込む。
 そのとき屋敷の二階で物音がした。きっと侯爵家の面々が起きたのだろう。早く朝食を完成させないと。煮立ったスープに調味料を入れて味を整えていく。

 完成したスープを皿によそう。スープは多すぎず少なすぎず、ちょうど人数分しか無い。
 わざと少し多めに作って自分用にしたかったが、正妻である侯爵夫人がそれを許すわけはなかった。
 彼女は夫がどこかの女との間に作った私に、可能な限り不幸になってほしいと願っているようだからだ。

 侯爵家の面々が一階に降りてきたようなので、大きく深呼吸をして嫌な気持ちを吹き飛ばす。
 そして笑顔で、出来上がったスープとパンとバターを運ぶ。

「おはようございます、みなさま」

 当然私に挨拶を返す者はいない。
 いつものことだから別にいいけど。

 その後はキッチンに戻って、デザートの準備をする。
 今日はリンゴとオレンジだ。新鮮な果物はそれだけで美味しい。作り手である私も楽が出来る。果物最高!

 一口大にカットした果物を皿に乗せて運んで、これで朝食の提供は終了だ。


「今日も忙しいぞ。頑張れ、私!」

 急いで野菜のクズでスープを作り、喉の奥へと流し込んだ。
 この後、屋敷には通いの使用人たちがやって来て、侯爵家の人々の世話と昼食の準備を行なう。
 その間、私は一人で屋敷内の掃除だ。
 複数人の使用人が来るのだから掃除にも人員を回してほしいところだが、貴族は出掛ける際、着替えの準備に手間がかかるため掃除に回す人手は無いそうだ。

「私も町に行ってみたいなぁ」

 侯爵家の誰かが町へ行くときは、通いの使用人が同行した。また買い出し等で町へ行く際にも使用人の誰かが行くことになっていた。
 侯爵は私を人目に晒したくないのか、絶対に町へは行かせなかった。私がそんなに恥ずかしい存在ならどうして引き取ったのかと問い詰めたくもなるが、不安材料を野放しにするよりは自分の手のうちに置いておく方が安全だと判断したのだろう。


 掃除中の私の目に、綺麗なドレスに身を包んだイザベラの姿が映った。パーティー用のドレスではなくただの外出着なのだろうが、それでも私には輝いて見えた。

「なぁに、クレア。そんなに見つめちゃって。もしかして、あたしの美しさに見惚れたのかしら。あんたと違って美しいものね、あたし」

 私より二つ年上の姉、イザベラ・クランドルは、私にネチネチと嫌味を言うことが好きだった。
 とはいえジャンと違って暴力は振るわないし、上手くおだてれば意地悪をせずに去ってくれるから、それほどの脅威ではない。

「前から言ってるわよね。あたしと比べられるのが辛いなら、早く屋敷から出て行きなさいって」

 私を見下ろすイザベラに礼儀正しくお辞儀をする。

「今日もお美しいです、イザベラお姉様。イザベラお姉様と比べたら誰でも霞んで見えます。当然のことなので辛くはありません」

 私が分かりやすくゴマをすると、イザベラは一度眉間にしわを寄せてから、わざとらしく口角をグイっと上げた。

「明日からあんたもドレスを着られるわ」

「えっ!?」

 予想外のセリフに私は何度も瞬きをした。

 ボロボロの服しか着たことの無い私が、ドレスを着られる!?
 ドレスは窮屈だという話を聞いたことがあるが、それでもあのヒラヒラフワフワとした形は女の子の憧れだ。

 ……いや、現実を見よう。
 きっとこれは、上げてから落とすイザベラの意地悪だ。

「ドレスを着られるのはとても嬉しいですが、どうして私がドレスを着られるのでしょう?」

 しかしこの後どんな落とされ方をするのか見当もつかなかった私は、素直に疑問をぶつけてみた。

「うふふ。そんなボロボロの服では客の前に出せないもの。せめてドレスを着て着飾らなくちゃ」

「客?」

 不穏な単語に自然と背筋が寒くなった。

「あたしは反対したのよ? あんたみたいなちんちくりんに客がつくわけはないって。だけど世の中にはちんちくりんが好きな殿方もいるらしいわ」

 侯爵家に来るまで実母の元で貧しい暮らしをしていた私には、イザベラの言葉の意味が分かってしまった。
 私は、娼館に売られようとしているのだ。

「そもそも本当はもっと早く売る予定だったのに、あんたの発育があまりにも悪いから十四歳からになったのよ」

「十四歳……ということは、私は明日、売られるのですか?」

 明日は私の十四歳の誕生日なのだ。

「そう言ってるじゃない。詳しくはお母様に聞くといいわ。あんたもやっと侯爵家の役に立てるのだから、精々励みなさい。ただし、店で侯爵家の名前は出すんじゃないわよ」

 震えながら質問をすると、イザベラはさらりと現実をつきつけてきた。
 そして現実を見せるだけ見せて、イザベラは出掛けてしまった。



 心ここにあらずで掃除を終えた私は、川を五往復してたっぷり水を汲んでから、倉庫にこもることにした。まだ仕事は残っていたものの、水さえ汲んであれば他の使用人たちでどうとでもなる量の仕事だ。
 さすがに今日ばかりは勘弁してほしい。

 侯爵家の全員が、私が明日から客を取ることを知っていたのだろう。倉庫にこもった私をあえて仕置きに来ることは無かった。
 それは最後の情けなのか、商品に傷が付くことを恐れてなのか。

「うっ……うっ……」

 静かで真っ暗な倉庫の中に、私のすすり泣きだけが響いている。しかしその声を聞く者も私しかいない。

「普段は泣かない私だって、これは泣きたくもなる」

 そういった方法でお金を稼いでいる人には悪いが、私はお金のためにそういった行為をしたくはない。
 しかも稼いだお金は私の手には渡らないに決まっている。

 一刻も早くここから逃げ出したいが、ここから逃げても、行く当ても生き延びる術も無い。
 実母は私を侯爵に売った金で、すでにどこかへ消えてしまっただろう。
 無力な私には、娼館へ行くしか生き延びる術はないのだ。

「どうせ捨てるなら、なんで買い取ったのよ……買い取ったものの手に余ったの……?」

 もしかすると侯爵の独断で私を買い取ったせいで、侯爵夫人と揉めたのかもしれない。
 侯爵夫人が最初から知っていたら、私を引き取るなんて選択はしなかったはずだから。
 そして時が経っても私がいることで侯爵夫人が不機嫌だから、売り時に私を売って、厄介払いをしたいのかもしれない。

「もう消えたい……ううん、全部消してしまいたい」

 私は身にまとったボロ布で、溢れ出る涙を拭った。

『力が欲しいか』

 それは突然、どこからともなく。
 あたりを見回したが、倉庫の中には私しかいない。

『侯爵家全員を殺せる力が欲しいか』

 やはりどこかから声がする。
 すごく物騒なことを言う声が。

『力を欲するなら、余が授けよう』

 ああ、声の言う通り侯爵家全員を殺してしまえば娼館へは行かなくてもいい。
 それにこれまでいじめられていた復讐も出来る。

 でも…………その後は?

 侯爵家の全員が死んだら、私は衣食住を一気に失ってしまう。
 まさか遺言などまだ現役の侯爵が書いているとも思えないし、そもそも私の存在は世間には隠されているのだから、血縁者だと主張しても信じてもらえるかどうか。
 通いの使用人たちにも、侯爵は私のことを住み込みの使用人と説明していたようだし、証人がまるでいない。

「侯爵家全員を殺せたらスッキリはするかもしれませんが、それだけです。何の解決にもなりません」

『え? 力がいら、な、い? この状況で?』

 それまで威厳たっぷりだった声が戸惑いを見せた。
 断られることは予想もしていなかった様子だ。

「ええ、いりません」

 私はきっぱりと断った。

『全員を殺せる力だぞ? せめてもっと悩んでから決めないか?』

 声の主はなおも困惑していた。

「だってそんなものを貰っても何の助けにもなりません。第一本当に殺す気なら、そんな怪しい契約を結ばなくても、全員の食事に毒を混ぜれば済む話です」

『怪しい契約だなんて……今なら特別に無料で力をやろう。今だけの期間限定サービスだぞ』

 無料ほど怪しいものは無い。
 第一、誰もいない倉庫で姿を見せずに私と話をしていること自体が怪しい。

 きっと人間の仕業じゃない。
 今は無料だけど死んでから魂を頂く、とかそんな契約に決まっている。

「あなたは何ですか? 悪魔? 魔王?」

『何だと? 余が人間ではないと何故気付いた』

「何故と言われても……どこかに人間らしい発言がありましたか?」

 どこをとっても人外の何かが契約を結ばせようとしているとしか思えない。

『余が人間ではないと分かっているのに、その落ち着きようとは。最近の人間はよく分からん』

 そんなことを言われても、人生に絶望しているときにわけの分からない契約を持ち出されたら真顔にもなる。

 そうだった。
 私はこのままだと明日から娼館で客を取らされる地獄の日々を過ごすことになる。それだけは絶対に嫌。

 だったら……悪魔だろうと魔王だろうと、この手を掴めば未来を変えられるかもしれない!

「ねえ、悪魔さん。その力とやらはいりませんが、お願いがあるんです」

『余は悪魔ではないが……その願いとは』

「私をあなたの元で働かせてください!」

 私が声を張り上げると、声の主はさらに困惑したようだった。

『働く……? そんなことを言う人間は初めてだ。だが、使用人は足りている』

「掃除でも料理でも何でもやります! 裁縫だって出来ます! 働かせてください!」

 再度頼み込んだが、声の主はこれを断った。

『すべて足りている。そもそも大抵のことは余の魔法で出来る』

 しかしこれで諦める私ではない。何故なら諦めたら明日からは地獄が待っているから。そう、不特定多数の客を取らされる地獄が。
 それよりは、いっそ。

「それなら、私を愛玩動物にしてください!」

 時が止まった。
 これまで困惑しながらも言葉を返してくれていた声の主が完全に沈黙した。

「あれ? 愛玩動物っていうのは、ペットのことです。悪魔ともなれば人間をペットにするんでしょう?」

『余は悪魔ではないし、人間をペットにもしない』

「私って結構可愛いんですよ? なでなでしたり、人外仲間に自慢も出来ちゃいますよ?」

『……先程から思っていたのだが、そなたには恐怖心が抜け落ちているのではないか』

 私だって人外の何者かのペットになるのは正直怖い。
 だけど、少し話しただけだが、声の主があまり悪い人には思えないのだ。
 最初こそ、侯爵家全員を殺す力を与える、などと恐ろしいことを言っていたが、途中からは普通に会話の通じる相手だ。

「私にも恐怖心はあります。私は明日が怖いです。何もしないまま迎える明日が……。だから、あなたの手を掴みたいんです!」

 これでは来るべき明日から逃げるためにあなたを利用したいと言っているも同然だ。しかし私には正直な気持ちを話して彼に懇願するより他に方法が無い。

『…………本当に余の城に来たいか』

 しばらく悩んだ末に、声の主が告げた。

「いいんですか!?」

『余の城には誰一人として人間がいない。余の城に来たら、人間はそなた一人だけだ。ここよりも悪い暮らしになるかもしれない。それでもいいのか』

 本音を言うと良くはない。しかし確実に明日から地獄が待っているここに残るよりは、可能性に賭けてみたい。
 それに声の主の城にはおぞましい怪物たちが住んでいるかもしれないが、明日から私が取る客も同じようなものだ。しかも客は卑猥なことを行なう人たちであることが確定している。一方で声の主の城の怪物は、見た目が怖いだけで性格は気さくかもしれない。
 希望的観測だが、希望を持てる方に賭けるのが人生というものだ。

「いいです! あなたのお城に行きます!」

 私が力強く言うと、声の主は、久方ぶりの威厳ある声で告げた。

『この瞬間を持って、クレア・クランドルは余が所有するものとする! 夜に迎えの使いを送る。使いとともに西の森へ来るがいい』

 西の森、と聞いてビクリとした。
 西の森の噂は聞いたことがある。どれだけ大勢で行こうとも、森のどこにも辿り着けずに入り口に戻ってしまう、惑わしの森。
 森に入った私は、果たしてどこかへ辿り着けるのだろうか。

『その反応は森のことを知っているのだな。余の使いと一緒なら問題ない。あの森に幻惑の魔法を掛けているのは余だからな』

 余……ということは声の主が一人で魔法を掛けたということ?
 たった一人で森全体に魔法を掛けるなど信じられる話ではない。
 大規模な魔法を使う場合は、大きな魔法陣を描いて何十人もの魔法使いがいっせいに魔法を使う必要がある。それを、一人で?
 人間ではないことは分かっていたが、声の主は一体何者なのだろう。

「あの、答えたくなかったら答えなくてもいいのですが……あなたは、何者なんですか?」

 我慢の出来なくなった私は思い切って尋ねることにした。どうせ今夜には分かることだ。少しくらい先に聞いても問題ないだろう。

『余か? 余は、死神だ』

 …………え?
 死神のペットになったの、私?

 予想を遥かに超える答えに、さすがの私も気絶してしまった。





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