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後日談
親友と、元カノと、俺
しおりを挟む『素直にならないと、いつか絶対後悔するわよ』
数十年前に聞いた言葉が、数十年前は馬鹿にした言葉が、今更胸に突き刺さるとは思わなかった。
あぁ言ったのは誰だったか。言ったのは女だったと思う。どの女が言ったのかは覚えていない。ただ、言われたことは的を射ているだろう。だって今、こんなにも胸が痛い。
「…好きだった」
届く事ない、言葉。
ずっと遠くで純白のドレスを着た彼女は、近くで見るとそれはそれは綺麗なんだろう。だってここから見ているだけでも、とても綺麗だから。
「お客様?」
中々会場に入らない俺を不可解に思ったのか、式場のスタッフが話しかけてくる。
「…急用を思い出した。失礼だが、帰らせてもらう」
本当に失礼だ。式場に入る事なく、新郎新婦に何も言葉を送らずに帰るなんて。
それでも無理だった。直前になって、どうしても入れなかった。あの綺麗な彼女を間近で見るのは、怖かった。その隣で幸せそうに笑っている親友を見るのは、無理だと思った。
「…左様でございますか」
スタッフはそれ以上何も聞いてこない。
これ幸いと、俺は逃げるように会場を後にした。
永井とは大学に入ったばかりの頃、偶然が重なって友人になった。その後、奇妙なほど趣味が合うことや、発言するたびにハモることが起き、一時はお互いに奇妙すぎて距離を置いた。
けれどどうにも一緒にいると楽で。もう難しいことは考えず、楽しく過ごそうと決めて、今でも会っては飲みながら趣味を語る関係だった。
いつしか親友と言っても違和感がないほど仲良くなった。昔から癖があると言われてた俺に初めて、長い付き合いの友人が出来た。
お互い就職も難なく決まり、卒論も終わり、さぁようやく社会人だーーという頃に、俺に一つ問題が舞い込んだ。
それは妹のことだった。
妹は生まれつき心臓が弱く、幼い頃から入退院を繰り返していた。去年父が病気で他界し、母が懸命に働きながら自分を大学まで出してくれたのだが。
(今度は俺が働いて、治療費払わないと…)
目処の立たない金額だ。働いても働いても消えて行く。それも、治らない妹のために。
仕事で実績は出た。初めこそ凄いと言われたけれど、今では『あいつなんだから当たり前』なんて囁かれるようになった。当たり前ってなんだ?こんなに努力しても、努力しても、俺の生活は苦しいのに?認められ足りないのに、限界は近くて。
もういっそ一家心中でもしてやろうか、なんて物騒なことを考え始めた頃だった。
「無理しすぎじゃないですか?先輩、たまには休んだ方がいいですよ」
無理しすぎ、なんて。入社して初めてその言葉が自分に当てられた。しかも、後輩から。
「…俺が無理してると思うか」
「そりゃ、先輩も人の子だと信じてますから。逆に寝ないで仕事してる人を見て、無理してないと思うわけがないじゃないですか」
いつもお疲れ様です、と一言添えて差し出された栄養ドリンクがどれほど疲れ切った身体に効いたか。
たまに抜けているのに、仕事でミスはしない。何度も自分で確認するから確実。
ーーなんか、見てると飽きない。そばに置きたい。
そんな私的な感情を優先できるほど楽だったら、どれほど良かっただろうか。
「ごめんね、お兄ちゃん…」
「別にいい。お前は治すことに専念しろ」
会いに行くたびにごめんねとグズグズ泣く妹に、なんと言えばいいのだろうか。
そんな時だった。
「妹さんの治療費、大変なんだってね。…どうだ?今度、私の娘と会ってみないか?娘が君に会ってみたいと言っていてね」
治療費のための血と汗の努力は目立ったようで、社長直々に縁談を持ってこられたようなものだった。
この女と結婚すれば、全てが手に入る。沙希子は客観的に見てもいい女だと思う。美しい妻、約束された地位、溢れ出る金。
あぁ、なんてついているんだ、俺は。
どうせ好きな女なんていない。これで今までの分が報われるなら。
そう考えて、脳裏にチラついたのは、彼女の顔だった。
いざ結婚すると、会社での目は変わった。
次期社長。そんな目で見られるようになり、どうにも気持ち悪かった。変わらなかったのは唯一、彼女だけだった。
「来年には部長のポストが空く。そうすれば君はもう、何をしなくても全てが手に入るんだ」
義父の言葉はいつも、自分に言い聞かせるような話し方だった。
妹も順調に健康でいる。発作も起きていない。やはり、沙希子と結婚したことは間違いなどではなかった。
そう思っていたのに。
「好きです。課長のことが、ずっと、好きでした」
彼女は簡単に俺の想いを覆そうとした。
けれど残念ながら俺には、約束されたものを手放すだけの勇気がなかった。
かといって、大切なものも手放すことのできなかった、最低な男だ。
「俺はお前を好きにはならないが、付き合ってくれと言うなら付き合ってやる。隣にいたいなら勝手にいろ」
罵倒されるか、叩かれるか、殴られるか。
そう思ったのに。彼女は、ただいつものように笑っていた。
「それでもいいです。私が課長のそばにいたいんです。いさせて下さい。課長に呼ばれたらどこでも駆けつけますし、都合のいい女になりますから」
そこでようやく分かったのだ。
彼女だけが変わらなかった。だって彼女は俺が結婚しても、変わることなく俺を好きでいたのだ。態度など、すぐには変わらない。
そしてそれを嬉しいと思う自分がいた。
あの時の、そばに置きたいと思った理由の正体を知った時、本当に笑いそうになった。
俺は彼女が俺を思う以上に彼女を愛している。
けれど、どんなに想っても口にすることは出来ない。
「あなた」
「…沙希子」
例えば彼女が嫌な女だったなら、罪悪感の一つを覚えることも無かったのだろう。けれど彼女は全てにおいて完璧だった。好きでもないし愛しているわけでもない。それでも同情という感情が、自分の中に渦巻いていた。
だからせめてもの罪滅ぼしに、願いは出来るだけ叶えよう。そう思っていたのだ。
別れるわけにはいかない。金が必要なのだ。
何度、沙希子と別れて彼女と家庭を持つ夢を見ただろう。
「他に男探せよ」
そのもちろん言葉は本心などではない。こう言うたびに傷付いた表情をするのを見て、気持ちを確認しているだけだった。永井に気は向いていないだろうか、と。
そうして確認して、よかった、まだ俺のことを好きでいてくれてると、安心したかった。
妻の『早く帰ってきてほしい』を叶えるために破った約束の数は数えきれない。
でも大丈夫、彼女はまだ俺を好きだから。俺に全てが手に入った時は、真っ先に彼女の元へ行くから。
だからもう少し我慢してほしい。
そんな勝手な願いが、どれほど彼女を壊していっていたのか、考えもしなかった。
婚約指輪を見せられた時、引き止めて、振り払われた時、ようやく終わってしまったのだと理解した。
彼女の言ったさよならがその場だけのものではないと、理解してしまった。
大切だったはずなのに。素直にそれを口に出せばよかったのに。
今なら彼女のために全てを捨てても良かったのだと思えるのに、もう手遅れなのだ。
なら、せめて幸せに。
俺と似ているその男は、きっと俺以上に大切にしてくれるだろう。もう、会うことはないだろうけれど。
いつか会うことがあったならば、お互い、幸せだと言えたら。
そんな勝手な願い、叶うこともないと分かっているのだけれど。
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