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奪われたもの 2
しおりを挟む「あの……、外には出られないんですか?」
「なに?」
何度も口づけを繰り返し、大きな胸に抱え込まれるように寄り添っていた。
ベノアルドから同じ思いを返されたとは思わないが、契約者であるヨアンを信頼して慈しむ心は確かに感じられる。それは思いがけない幸運だった。
もっと浸っていたいけれど、ヨアンだけが満たされてもよろしくない。
「鳥を見るのがお好きなら、本ではなく庭へ出ませんか? ガゼボもありましたよ。神官たちが利用するところも見ないので、ベノアルド様のための庭だと思うのですが」
ヨアンが知る限り、ベノアルドが部屋の外へ出たことは一度もない。まだここに来て日は浅いが、日々の様子を見ていても窓の外に興味を向けることさえなかった。
鳥といえば空にいくらでも飛んでいる。本やオブジェばかりであることに、不自然さを感じてはいたのだ。
「庭……」
はじめて聞いた言葉のようにベノアルドは目を瞬く。だが不意に顔をしかめて呻き声をあげるから、ヨアンは慌ててその肩を支えた。
「す、すみません、また余計なことを」
「余計ではない……」
ベノアルドはそう言うと、ヨアンを胸に抱いて痛みを堪えているようだった。
彼がこうして不完全な契約と、かみ合わない記憶に苦しむ頻度は、日に日に増えている。
きっかけがヨアンだったなら、そばにいないほうがいいのでは。そう伝えたこともあるのだが、離れることは許されなかった。
それよりも名を呼んでくれと望まれるから、ヨアンは男の背を撫でながら小さく何度も呼びかける。
「……そうだな。なぜ私は外へ出ないのだろう……」
しばらくして苦痛が治まってきたのか、ベノアルドはヨアンの肩を抱いたままそっと体を離した。
窓の外を眺め、はじめてその景色を知ったかのように目を細める。
そうしてヨアンへ視線を戻すと、うっとりとするような眼差しで微笑みかけた。
「では、今日は外で休憩することにしようか」
唐突な提案で、紅茶を入れ直すと言ったヨアンをベノアルドは止めた。
庭に出ることが目的で、紅茶はあとでもいいのだと。冷めても気にしないと言うベノアルドに、それ以上は逆らえなかった。
部屋を出た聖獣は、案の定注目を集めている。
年に一度の神事に顔を出すだけだったらしく、ほとんどの神殿騎士は間近に聖獣を見たことがないのだ。
回廊を歩み庭を眺め、男は何かを思うように眉を寄せる。
庭に下りる手前で、慌てた様子の神官二人が駆け寄ってきた。
「な、なりません、許可が……!」
「許可? 誰の許可だ?」
制止の声にベノアルドが問う。この声色は本気で不愉快と感じているようだ。
「っ、それは……神殿長が……」
答えながらも顔を見合わせて困惑する神官たちに、ヨアンはそうなるだろうなと心の中で同意する。
聖獣に命令できる者などいるはずがない。たとえ契約者であろうと、主導権を握るのは聖獣だ。神殿の管理を任されるだけの長が、何を制限できるというのか。
神官たちも聖獣と神殿長、どちらの命令を優先するかと聞かれれば、聖獣と答えるはずだ。
「聖獣様が外へ出るのは……祝福に影響が……」
「そんなものはない」
「内庭に出るだけです。神聖堂の外に出るわけではありませんから」
「そ、それなら……」
ヨアンのフォローに、神官たちは戸惑いながらも渋々頷くしかないようだった。
祝福に影響はなく、神聖堂から出るわけでもない。それさえ禁じてしまえば監禁も同様だ。
聖獣を縛る規則はなく、彼らはそれ以上ベノアルドを止める手段を持たなかった。
「ふん……」
回廊で立ち尽くす神官たちを横目に、ベノアルドはゆったりと広い庭を歩く。
緑の芝を踏み、色とりどりの花を観賞する。木々の葉は風にそよぎ、傾いた日が心地よい熱を伝えてくれる。
ガゼボで椅子に腰かけたベノアルドは、開けた空を見ようと少し身を乗り出した。
「空は広いな。風が心地よい」
「聖獣様の特性は風でしたね」
「そう。……内に籠るなど、愚かなことだ」
ベノアルドは同意するように頷き、外だからと名を呼ぶのを控えたヨアンをちらりと見た。
彼が宙を撫でるように軽く手を振ると、風が動いてガゼボの周りに見えない壁が作られたようだ。
「声を遮断しただけだ。──ヨアン。おまえのおかげで、私は契約を奪われたことを知った。風を奪われていたこともな。……誰であろうと、許すつもりはない」
「私がその者を探します」
「おまえは何もしなくていい。今、契約の糸を手繰っているところだ。近くにあることはわかっている」
一瞬剣呑に光ったベノアルドの瞳は、すぐに伏せられて見えなくなった。ヨアンの前では怒りの感情を見せないようにしているのだ。
何もするなというが、本当に自分にできることはないのだろうか。
もどかしく思うヨアンに気づいたのか、ベノアルドは言い含めるように言葉を続けた。
「あまり動くと気づかれる。核はこちらにあるが、土台を奪われて不安定といえばわかるか。あちらに傾けば、再び意識が塗りつぶされる恐れがある」
「そんな」
契約は聖獣の意思であり、記憶とも直結する。その大半が奪われながらも、核を取り戻したベノアルドは契約が綻びかけていることを知った。
「誰かが書き換えようとしている。もちろん簡単にできることではないが……。それを許してしまうほど、私が聖力を落とすような出来事があったのかもしれない」
「聖力を……」
ベノアルドはふっと自嘲するように笑い、空を掴むように右手を持ち上げた。
そこにあの指輪を見つけ、ヨアンは窺うように男を見つめ返す。
「おまえに預けておこう」
「え、ですが」
「持っていなさい。今のようにそばにいるならば、どちらにあっても変わらない。おまえが契約者と知る者はいないから、最も安全な隠し場所ともいえる」
ベノアルドが差し出した指輪は、小さな青い光になってヨアンの左鎖骨のあたりに溶けていった。
これなら奪おうにも奪えない。確かに安全な隠し場所だ。
「……またここですか?」
「すっかり定着しているな。心配しなくとも、今度はあのようには取り出さない」
そうは言うが、古傷に触るような、でもやっぱり嬉しいような。
複雑な気持ちで鎖骨を撫でるヨアンを見つめて、ベノアルドは穏やかな微笑みを浮かべた。
「万が一のことがあっても、核さえ無事なら完全に奪われることはない。もしまた私がおまえを忘れたら、名前を呼んでくれ。ヨアン」
その言葉にヨアンは大きく頷いた。
これはヨアンだから任されたこと。ベノアルドからは指輪だけでなく、信頼も預かったのだ。
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