想獣伝奇イドラ

ささくれ竹串

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第一話「翼の魔人」

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「はぁ……はぁ……」

暗がりの中を幼い少女が駆けていく。日はすでに沈み空はみるみる紫苑から濃紺に塗りつぶされていった。まるで何かから逃げるかのように少女は一心不乱に走っていた。長く伸びたウェーブのかかった髪を揺らし、時折おびえた目で後ろを振り返った。街灯の真下に立つ黒い影があった。目深に帽子をかぶりコートに身を包んでいるため素顔も性別もわからないが、それは虎視眈々と少女を見つめていた。走っても走っても、次の街灯にその影は現れた。どこまで逃げようとしても振り切ることはできなかった。ますます暗闇に空が閉ざされていく中、少女は一人走り続けた。歩道には彼女と影以外、だれもいない。徐々に呼吸がままならなくなり、わき腹が鋭い痛みに襲われ始める。地面を蹴る母指球とふくらはぎは悲鳴を上げ、思うように動かなくなっていく。

「げほっ!かはっ……はぁ……」

苦痛に耐えかね少女は歩みを止め、手を膝につき呼吸を整えようとした。酸欠による頭痛と長く走っていたことによる腹痛で、彼女の身体は限界を迎えようとしていた。ふと後ろの街灯に目にやると、影がこちらをじっと見つめている。帽子の下から覗く赤く光る目と視線が合った。どうすることもできない少女の姿を見て、影は肩を震わせゲロゲロと笑った。少女は影をキッとにらみつけたのち、追いつかれまいと再び走り出そうとした。

「きゃあ!?」

踏み出した足が急に後ろに引っ張られ少女は転倒した。何かにつまずいたのか足元を見てみると、少女の片足には醜悪な肉の塊が絡みついていた。青筋の浮かぶくすんだ桃色のそれは臓器を思わせ、少女に本能的な嫌悪感を与えた。絡みついた肉塊は少女の身体からうねりながら影に向かって伸びていた。影はコートを脱ぎ捨てると、少女に己の正体をさらした。ヌルヌルと粘液の染み出た斑点のある青緑の体表は両生類を思わせ、赤く大きな目が少女をねめつけるかのように見つめていた。腹部には巨大な口のような器官があり、少女の足をからめとったのはそこから伸びる舌のようなものであった。

正体を現した怪物は舌を少しずつ収縮させはじめ、少女を自分のそばへ手繰り寄せ始めた。

「やだっ……いや!」

「ゲゲッ……ゲッ……」

腹部の口からは薄気味悪い笑い声のようなものが漏れ出し、少女は体をすくませ、何か捕まるものを探した。引きずり込まれまいと近くにあった柵を掴むが怪物の巻き取る力は強く、幼い少女の力ではどうすることもできなかった。指が一つ、二つ柵から離れていく。怪物は意地悪くいっぺんに引きはがそうとしなかった。獲物が抵抗し心折れていく様を見るのを楽しんでいた。生命維持のための純粋な捕食行動ではなく、原始的で醜悪なサディズムによる遊び食いであった。

「いやぁぁぁぁぁぁ!誰かぁぁぁぁぁぁぁ!!」

月の光が空に差し込み始めたころだった。突然まばゆい閃光がどこからともなく降り注ぎ、怪物の舌を焼き切った。引っ張っていたものが途切れたことで少女は地面に放り出され、絡みついていた舌先はずるりと力なくほどけた。

「グギャ!?ギギャァァァァァ!!」

傷口から血が噴き出ることはなく、断面からは肉の焼ける臭いがプスプスと立ち込め怪物は慌てて舌を腹部の口に押し込んだ。少女はゆっくりと体を起こすと、空から何か光り輝く物が下りてくるのが見えた。大きな翼を生やした人型のなにかが、闇に塗りつぶされた空を照らしながら少女の前に降り立った。それは一糸まとわぬ姿の、翼を生やした女性であった。翼を含めた全身に鈍い金属光沢を放つ幾何学的な文様が走っており、不思議とみだらな印象は与えなかった。

「天使……?」

そう形容するほかなかった。空より光と共に舞い降りる神々しいその姿はまさに、古来より人が崇拝してきた天使そのものだった。怪物はその姿に身をすくませ、とてもおぞましいを見るかのように畏怖に満ちた表情を浮かべていた。

「今から起きることを、決して見てはいけないよ」

少女の脳内に直接、優しくも荘厳な声が響いた。

「瞳を閉じて手で覆って、私がいいというまでそのままでいるんだ。いいね?」

少女はこくりとうなづくと、言われた通り目を手で覆い隠した。それを確認すると天使は手を胸の前で交差させた。すると徐々に天使の身体を走る文様には青白い閃光がほとばしり始め、怪物は危機を感じたのかすぐさま逃げ出そうとした。強靭な脚で地面を蹴り上げ逃走を図るも、進行方向にはつい先ほどまで真後ろにいたはずの天使が立っていた。腕のスパークが一際激しく光った。天使は両こぶしを胸の中心に向かって突き合わせるような形で揃え、そのまま体全体で十字を切るように両腕を真横へ伸ばした。すると天使の腕部と胸部から十字の形の光弾が発射され、怪物の身体へと叩き込まれた。怪物は一瞬苦しみ悶えようとしたが、停止ボタンを押された映像のように急に動きを止めた。体に青白い閃光が駆け巡ったかと思うと、パキパキと音を立てながら怪物だったものは見る見るうちに白く染まり、あっという間に塩の柱と化していた。怪物が物言わぬ白い塊となったと確認するや否や天使は悠々と塩の柱へ歩み寄り、強烈な回し蹴りを塩の柱めがけて叩き込んだ。轟音と共に塩の柱は跡形もなく崩れ、散乱した破片がもとは怪物であったとはもはや認識しようがなかった。

「もう大丈夫、目を開けて」

声に従い目を開けると、自分を追いかけていた怪物の姿はどこにもなく、天使が優しくこちらを見つめていた。金属のような顔は表情を変えることはないが、その穏やかな面持ちは少女に安心を与えた。

「一人で帰れるかい?」

少女は天使に尋ねられると、自信なさげではあるがうなづいた。少女の返答を確認した天使は光に身を包み、一瞬で空のかなたへと飛び去った。空へ消えていく白銀の輝きを、少女はいつまでも見つめていた。


「次は中野、中野、終点です」

まどろみの中の意識を響き渡るアナウンスが現実を引き戻す。松風 琴葉(まつかぜ ことは)が目を覚ますと、地下鉄東西線の車両の中には彼女以外誰も座っていなかった。

「またあの夢……」

琴葉は夢の内容を反芻していた。怪物に襲われる恐ろしい夢、そして空から降りてきた天使が自分を助けてくれる夢。おおよそおとぎ話や神話の中の一ページとしか思えないような出来事であった。しかし、幼い日の琴葉は確かにあのおぞましい怪物に襲われたのだ。襲われた日、帰りが少し遅れたことを咎められるのも気に留めず、琴葉は一目散に風呂へ向かった。舌が絡みついた足にはぬとぬととした生臭い粘液がこびりついており、一刻も早く洗い落としてしまいたかったのだ。誰に話しても信じてもらえないと思ったのか、琴葉はこのことを、だれにも話すことはなかった。夢の余韻に浸っていると、車両は徐々に減速し、地上に出たことで車窓に光が差し込んだ。琴葉はそそくさと身支度を整え停車に備えた。


時計の針があと四半時で正午を指す頃。喫茶店らしき店のカウンターにて、椅子に軽く腰掛けながら読書に勤しむ女性がいた。小麦色の肌にプラチナブロンドの髪、そして吸い込まれるような青い瞳の浮世離れした長身の女性だった。フォーマルな白いワイシャツの上から黒いベストを着こみ、白いタイトスカートからは灰色のロングパンツを履いたスラリと長い脚が伸びている。女性がページをめくる音のみが聞こえる静寂を破るかのように鈴の音が鳴り響いた。年季の入ったドアがきしみながら開き、店に来客を向かい入れた。

「お疲れ様です、店長」

ドアから顔を出したのは一人の青年であった。薄い半そでの紺のアウターに白いTシャツ、下は黒のスキニーという簡素だが配色に気を使った服装であり、ほんのり青みかかった黒髪は中心で軽く分けられ、細くもはっきりとした眉が顔を出していた。所々骨ばった腕からも見て取れるが全体的に肉付きが悪く、細身というよりはやや不健康な印象の青年だった。

「お疲れ、海斗くん。行きはどうだった?」

店長は本にしおりを挟み、青年に尋ねた。海斗と呼ばれた青年は神妙な面持ちで答えた。

「目撃談は本当みたいです。試しに探ってみたところ、二、三匹ほど引っ掛かりました。奴ら、実体化してます」

エレノアはしばらく沈黙したのち、本をカウンターに置いて立ち上がった。

「人の目につくのも時間の問題か……被害は?」

「ちょうどブロードウェイのとこMEIYUの食料品が食い荒らされたような状態だったそうです。おそらく、あそこを根城にしていると思われます。失踪事件との関係は、まだ……」

海斗は一週間ほど前よりエレノアに頼まれ、ブロードウェイ周辺における妙な噂を調査していた。二週間ほど前から、中野周辺にて消息を絶つ人が増えていること、そして同時期に中野駅周辺で人ほどのサイズの大きなネズミのような奇妙な生き物を見たという証言が相次いだことである。行方不明事件が相次いでいることについては警察は捜査を進めているものの、さすがに関連性を見出すことはなくあくまで噂どまりであった。

「視察と牽制のためにも私が行くよ。万が一に備えて緋奈ちゃんをサンプラザ周辺に待機させておく。海斗君は念のためお店を守っていて。報復に来られても厄介だし、うちも飲食だから他人事じゃないから」

「……わかりました。お気をつけて」

「ありがとう、お店は頼んだよ」

そう言ってエレノアはカフェの奥のドアへと進み、控室の方へ向かっていった。更衣室代わりのカーテンの中でシャツのボタンを一つずつ外していく。豊満な胸が少しずつさらけ出される中、エレノアは深刻な面持ちで手元を見つめていた。

(いよいよ始まったか……本当にできるのか?彼らと私だけで)

ワイシャツを脱ぎ、簡素だが品のあるストラップなしの黒い下着があらわになる。果実を連想させるほど豊かなそれとは裏腹にウェストはほのかに腹筋が見えるほど引き締まっている。広い骨盤には脂肪と筋肉がバランスよくついており、プロポーションは、男の夢と願いの象徴である古代の女神像を連想させた。

「どのみち、いつかは通らなければいけない道だ。やって見せる」

エレノアはひとしきり店用の服を脱ぎ終えると丁寧にロッカーにしまい、代わりに灰色のキャミトップを手に取った


 徐々に寒さが和らぎ始めた三月の上旬、築五十年以上と言えど中野ブロードウェイの空調は隅々までいきわたっており、施設内全体に心地よい空気を送り出していた。琴葉は慣れた足取りで一階から三階を貫くエスカレーターに向かい、体を預けた。来たばかりのころは構造を把握しきれておらず、階段のみでしか行くことのできない二階を巡り損ねたり、シャッターに閉ざされているテナントも多い四階にて、怯えて一人縮こまりながら彷徨うこともあった。今となってはすっかり歩きなれており、地下一階から四階に至るまでほとんどの店の位置を把握していた。琴葉が目指すのは三階、書籍などが主に置かれているエリアである。エスカレーターが頂上へたどり着き、足をフロアの床に移した琴葉はさっそく目的地に向かって歩き出した。


「売り切れてた……」

琴葉は目線を床に落とし、眉をハの字に曲げしょぼくれていた。琴葉のお目当ては一冊のバンドデシネ。フランスを中心に発展した漫画の一種であり、フルカラーで描かれた美麗な絵は数多くの人を魅了し、影響を受けたクリエイターもまた多い。幼い時から空想の世界に浸るのが好きな琴葉にとってはこれ以上なく魅力的な世界であった。幼少期は絵本、中学高校の時は文学と形は変わっていったが広大な未知の世界に思いを馳せる歓びは彼女の中で変わることはなかった。バンドデシネはその性質上日本国内での入手経路が限られており、琴葉も授業で習うまでは存在も知らなかった。本格的に収集し始めた際、ちょうど大学から歩いて五分の中野ブロードウェイにて古い作品も売っていることに気付いて以降は、入手困難な作品はそこで購入するようになった。当然プレミアがついているので財布への負担は大きく、掛け持ちしているバイトのシフトを増やすことで対処していた。

「メビウスの作品っていうと人気も高いから売れちゃうのも無理ないけど……」

琴葉は既に別の商品に差し変わってしまったショーケースを恨めし気に睨んだ。入れ替わるようにして人気アニメーションの作画資料集が置かれていた。ショーケースに反射し、琴葉自身の姿が映る。軽くウェーブのかかったセミロングの黒髪にうるんだ大きな瞳が特徴的なやや幼めな顔立ちで、薄緑の長袖のワンピースが可憐さに拍車をかけていた。どうせなら何か掘り出し物でも見つけてやろうとショーケースを眺めているときだった。

「えっ……!」

鏡の自分が、一瞬明らかに違うものに変わったように見えた。筋肉質な人型のシルエットが、本来琴葉の鏡像がいるべき場所に入れ替わるかのように現れ、消えた。頭部には二本の触覚か角のようなものが生えており、背中には折りたたまれた翼のようなものが見えた。緑の宝玉のような二つの瞳は、一瞬ではあったが明確に琴葉のことを見つめていた。あまりにも急な出来事であった琴葉は思わず声を上げ、とっさにショーケースから身を遠ざけようとした。しかしヒールの高いアンクルストラップの靴を履いている状態で急に動いたのがいけなかった。

「きゃっ!?」

琴葉はバランスを崩し、後ろに大きくつんのめってしまった。琴葉の身体は重力に従い床へ向かっていくはずだった。直後、優しく受け止められる感覚がした。琴葉は天井を仰いだまま何が起きたのかわからず呆然としていた。見知らぬ美しい女性が、後ろに倒れそうになった琴葉のことを抱きかかえていたのだ。

「え……えっ!?」

琴葉の脳内は軽くパニックに陥った。見ず知らずの女性に抱き留められてるという状況が既に恥ずかしい上に

(うわ……すごいきれいな人……)

日焼けではなくおそらく天然と思われる褐色の肌にスッと通った鼻先、肩につくくらいのプラチナブロンドの髪はシルクのようなツヤを放っていた。青色の大きな瞳はどこか物憂げで髪色と同じまつ毛が美しいカーブを描いていた。今まで出会ってきたどの人間よりも美しい女性に抱きかかえられ、顔をのぞき込まれるような格好になっている。女性のツヤツヤと照り映える色っぽい唇が優しく声を発した。

「大丈夫?」

「あ……ありがとうございます」

真っ直ぐ女性を見つめることができず、琴葉は視線をそらした。顔全体が熱を帯びるのが分かった。同性であることなど、この女性の美しさと立ち振る舞いの前では何の意味もなさなかった。ドクドクと鼓動が高鳴り頭は沸騰寸前だった。

「よかった、それより足は痛くない?」

照れるそぶりも見せず、声の主は琴葉の脚の心配をした。ヒールの高い靴を履いてバランスを崩したため捻挫している可能性を懸念してのことだった。

「えっと……多分大丈夫みたいです。後ろに向かってバランス崩しちゃったみたいで」

琴葉は女性の手を借りながら立ち上がった。足首に特に痛みはなく、問題なく起き上がることができた。立ち上がった琴葉は女性に向き直り改めてお礼を言った。

「改めて……お礼申し上げます。ありがとうございます」

「いやいや気にしなくていいってば。私もちょうど居合わせただけだから」

優しく微笑みながら女性は、琴葉のことを注意深く観察していた。琴葉の身に潜む何者かを探ろうと意識を集中させる。エレノアの目は、琴葉の身体から薄いモヤのようなものが漏れ出していることをとらえていた。

(やっぱりマナが少し漏れ出てる……強い反応が一瞬あったと思って「跳んで」きちゃったけど、この子だ。この子に憑いてるんだ)

「あの……どうかしましたか?」

黙り込んだまま自分を見つめる女性を不思議に思った琴葉は思わず問いかけた。

「えっ?あぁごめんね。ちょっと考え事をしてたんだ」

女性はそう弁明して琴葉から向きをそらすと、琴葉をどうするか考えた。

(見た分だとまだ完全に目覚め切ってない。どのみち今日はネズミ退治をする必要があるし……しょうがない)

一瞬残念そうな顔をしたかと思うと、女性は咳払いをして琴葉にこう告げた。

「突然で申し訳ないんだけど、今日はもう帰った方がいいと思うよ」

「え……?」

放たれた予想外の言葉に琴葉の思考は一瞬フリーズした。帰った方がいいってどういうことなのか、何が理由でそんなことを、疑問は尽きない。

「どうしてですか?」

「こんなこと言われても信じられないと思うんだけどさ、出るんだよここ」

「……何がですか」

「怪獣」

その二文字を聞いた途端琴葉は血相を変えた。蘇る幼き日の記憶。化け物に襲われたこと、そして舞い降りた天使が自分を助けたこと……おぞましくも不思議な体験が鮮明に浮かび上がった。

「やっぱり……夢じゃなかった」

ボソッと琴葉はつぶやいた。その言葉に女性は少し意外そうな顔を見せたが、琴葉に対し帰宅を促すことに変わりはなかった。

(せっかくの怪獣使いを逃すのは惜しいが、危険にさらすわけにはいかない……また来ることを信じるしかない)

「買い物は今度でもできる。だから、今日はいったん帰るんだ」

そう言って女性は通路の奥へと進んでいき、階段の前の曲がり角の中へと消えていった。残された琴葉はこの場を後にしようと階段のある方へ歩いて行った。しかしいざ下ろうとしたとき、琴葉はどこか引っ掛かりを覚えた。先ほどの女性が言っていた、怪獣という言葉が気になってしょうがなかった。気が付けば琴葉は降りるどころか、四階につながる階段を上っていった。

(見つけなきゃ……絶対何か知ってるはず)


四階は大手中古ショップの本社の事務所と従業員向けの飲食スペースが存在する。ほかの階同様に店も多いのだが事務所や仕入れた品を置く倉庫や多数のシャッターなどが並び異様な空間を形成している。

「結局追いかけてきちゃった……」

琴葉は少し後悔したような面持ちで四階のフロアをさまよっていた。帰るよう言われたにもかかわらず、琴葉は見失った女性を探そうとブロードウェイ内にとどまった。もっとも階段にたどり着いたときにはすでに彼女はいなかったため、体力のロスが少ない順番を考え四階を先に回ることにしたのだ。

「いつ来ても不気味……。売ってるものは面白いのに」

ほかの階に比べ人気が少なく、取り扱っている品物もよりマニアックなものが多いため、異様な空気感と相まって琴葉にはとても不気味に感じられた。何かが出ると言われてもおかしくないように思えた。

「怪獣……」

自分を襲ったカエル男に対する恐怖はいまだ胸に残り続けている。わざわざ怪獣が出るといわれているところに飛び込むことなどなかった。しかし、危険を冒してでも琴葉にはどうしてもここに向かわなければいけない理由があった。

(あの人は怪獣を知っている……あの人なら、きっとあの出来事を信じてくれる)

今まで誰にも話せなかった体験、それをわかってくれるかもしれない人に出会ったという事実が彼女を突き動かしたのだ。窓が一切なく、蛍光灯にのみ照らされる閉塞的な通路を琴葉は恐る恐る進んでいった。四階の面積はさほど広くない、地道に歩き回っていればいずれ見つかるだろうと考えていた。

(それにさっき見えたあれ、何か関係があるのかな)

鏡像に映った怪物について琴葉は思い出していた。一瞬の出来事だったが明確に脳裏に刻まれている。姿ははっきりしないが、一つだけ確かなのは、あの怪物は明確に琴葉を見つめていたことだった。幻覚か、それとも彼女が言っていた怪獣なのか、疑問は尽きないがまずは女性に会うことを最優先にし、頭の片隅へ追いやった。

「人……全然いないな」

女性を見つけるためにも、怪獣を見かけたらすぐ逃げるためにも、琴葉はびくびくと左右を確認しながら歩みを進めていた。画集やグラビア、ヌード写真集を取り扱う売り場の前を通り過ぎようとした時だった。大きな影が、向かい側の通路を勢いよく通り過ぎていったのが見えた。とっさに琴葉は曲がり角に身を隠して様子をうかがった。鼓動が早まる。先ほどとは違い、明確な恐怖によるものであった。全身がじんわりと熱を帯び、冷や汗が身体を伝う。

「はぁ……はぁ……」

四階に来るまでの間、何処か女性の言葉を信じていない自分がいたことに琴葉は気が付いた。怪獣なんていない、あの時の出来事も悪い夢だったと。へたり込んだ琴葉はそっと右足に触れた。生臭く粘っこいカエル男の唾液と気色の悪い舌が絡みついた感覚、夢にしてはあまりにも鮮明である。今、通路を駆けていった影もとても幻覚とは思えない。

「やっぱり……本当に……」

息を荒くしながら琴葉は再び通路をのぞき込んだ。曲がり角には階段がある。女性を探すのは諦め、立ち上がったその時だった。

<キーッ!!キキッ!>

甲高い鳴き声が響き渡った。飛び跳ねる心臓を抑えながら振り向くと、頭から足まで一五〇センチはあろう巨大なネズミが二匹、琴葉から見て左側の通路に現れた。

「あ……いや……」

あまりの恐怖に体がすくみあがり言うことを聞かない。人間の貧弱な体では勝てるわけがないことが一目でわかった。ネズミたちは警戒してかじりじりとゆっくり距離を詰め始め、ぎらぎらと光る青い目が琴葉をねめつけるように見つめていた。琴葉はせめてもの威嚇として視線を合わせながらゆっくりと後ずさりをし、階段へ向かおうとした。しかし、階段につながる通路へ向かったところ仲間と思しきネズミが一匹、突き当りに姿を見せた。挟み撃ちにされてしまっていた。来た道を引き返しもう一つの階段から下ろうにも逃げ切れる保証はない。階段側の突き当りにいたネズミが自分と平行に移動し先回りされたら終わりである。後ろにあるのは診療所、とてもじゃないがやり過ごせる場所ではない。

(私……死ぬの?せっかく、せっかくあの時助けてもらったのに)

自分に微笑みかける天使の姿が蘇る。眩い白銀色の輝きに包まれた、琴葉の中のヒーローであった。

「せめてもう一度会って……お礼、言いたかったな」

ネズミが二方向からじりじりと迫る。鳴き声を上げて琴葉を威嚇し。長い前歯をむき出しにする。研ぎ澄まされた太く鋭い前歯が照明に照らされヌラヌラと光る、自分は「喰われる側」であると実感せざるを得なかった。琴葉の心を諦観が塗りつぶし始める。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

腹の底から、誰に届くかもわからない叫びが飛び出した。それと同時に射程距離に入ったと見たネズミの一匹は前歯をむき出しにして琴葉に襲い掛かった。死を覚悟した琴葉は目をきゅっと閉じ苦痛が一瞬で終わることを祈った。その瞬間、琴葉を押さえつけ牙を突き立てんとしたネズミは突然後ろに向かって大きく弾き飛ばされた。ピギャッっと何かがつぶれたような悲鳴を上げたネズミは地面をのたうち回り、残りのネズミたちも吹き飛ばされた仲間に気を取られていた。

「え……?」

恐る恐る目を開けると、ネズミたちが自分のことを怯えた目で見つめていた。全く状況が呑み込めず呆然としていると

「聞き分けが悪いなぁ……忠告には従うものだよ」

と聞き覚えのある声が聞こえてきた。振り返るとちょうど琴葉の真後ろには先ほどの女性が立っていた。

「あなたはさっきの……!」

「エレノア・モーガン。エレノアでいいよ。どうやら私の出る幕はなくなっちゃったみたいだけどね」

苦笑いをしながらエレノアは琴葉に名乗った。やはり外国の人だったのかと琴葉は勝手に納得したが、それよりもまず重要なことがあった。

「松風琴葉と言います。あの……さっきのは一体」

名乗るついでにおずおずと琴葉はエレノアに尋ねた。自分に襲い掛かってきたはずのネズミが気づけば大きく吹き飛ばされており、ネズミたちはまるで何か恐ろしいものに対しおびえているように見える。一体何が起きたのか尋ねずにはいられなかった。

「あぁ、私がやったんじゃないよ。君の後ろの彼に尋ねると良い」

エレノアは琴葉の後ろを指さした。振り返ってみると緑色のオーロラのようなものが、大柄な人型のシルエットを形作っていた。背中には大きな翼が生え、二本の角のようなものが飛び出た神話の鳥人のようなシルエットだった。琴葉は、この存在に見覚えがあった。

「さっきのショーケースの……」

エレノアと出会う直前、ショーケースを見つめていた自分と入れ替わるようにして現れた謎の怪物。一瞬の出来事で幻覚かとも思ったがゆらゆらとした緑色のそれは確かに先ほどの怪物によく似た姿をしていた。

「あなたが、助けてくれたの?」

琴葉が鳥人のようなオーラに話しかけると、それはへたり込んでいる琴葉をゆっくりと見降ろし、穏やかにうなづくような動作を見せた。なぜだか、得体のしれない存在にもかかわらず不思議と安心できる気がした。常識では考えられない出来事の連続だが、この存在は自分に味方してくれる、根拠はないがそんな予感が琴葉の中に生まれた。

「いい雰囲気のところ申し訳ないが、早いところネズミたちの城からお暇するとしよう。立てるかい?」

エレノアは琴葉に手を差し伸べた。細くてしなやかな、だけど頼もしさを感じる手だった。琴葉は彼女の手を取り立ち上がった。

「ありがとうございます……また手を貸してもらっちゃいましたね」

「お礼は後で、急いで降りるよ!」

ネズミたちは先ほどよりいっそう気が立っていた。先ほど吹き飛ばされた個体は足を引きずりながら姿を消し、残った二匹は尻尾をしきりに地面に叩きつけ、口を大きく開け琴葉たちを威嚇している。鳥人のオーラにおびえているのか、先ほどよりも必死さがうかがえる。ネズミたちが守りに徹している隙をついて二人は階段を駆け下りた。鳥人は琴葉に引きずられるような格好で二人の後に続いて漂っていった。


 一刻も早くネズミたちの巣窟と化したブロードウェイから抜け出すためにも階段を駆け下りる中、琴葉はエレノアに尋ねた。

「どうして……怪獣が出るってわかってたのにここに残ったんですか?いったい、何をするつもりだったんですか?」

考えてみれば当然のことであった。成人ほどのサイズがあるネズミの化け物が跋扈するような場所でこの女性は何をやってるのか。そもそも彼女は何者なのだろうか。疑問は尽きない。

「最近この辺で行方不明者が増えてるんだ。念のため探ってみたら、これ」

エレノアは懐からジップロックを取り出した。中に入っていたのは可愛らしいリングのついたスマートフォンであった。

「これって……」

「行方不明者のスマホ。見せた途端ネズミたち途端血相を変えてね、逆上しだしてこの始末さ。ごめんね、君を危険にさらした原因は私にある」

琴葉は震えながらタッパーの中の携帯を見つめていた。持ち主がいかなる末路を辿ったのかを否が応にも想像しざるを得なかった。

「まさか……こ、殺され……」

「人間を殺したのがバレればただでは済まない。そんな危ない橋はわたらないとは思ったけどこの焦り様じゃあね。現に奴らは君に牙を剥いた。それより、なんで忠告を聞いてくれなかったんだい?後ろの彼がいてくれたからいいものの、君も殺されてたかもしれなかったんだよ?」

語気を荒げることなく優しい口調のまま、エレノアは諭すように琴葉に尋ねた。海のように深い瞳が琴葉をじっと見つめる。少しためらいながらも、ゆっくりと琴葉はエレノアに自分の身に起きた出来事について話し始めた。

「小さい頃、夕方に公園から家に帰ろうとした時、怪獣に襲われたんです。お腹に大きな口のあるカエル人間みたいな化け物で、それに捕まって食べられそうになったんです……」

初めて他人に話すために声は震え、おぞましい記憶を言語化する過程で記憶がより鮮明になり、恐怖もまた蘇り始める。

「そんな私を、天使が助けてくれたんです。空から降りてきた銀色の天使が、怪獣をやっつけてくれて……誰にも信じてもらえないと思って、初めて他の人に話しました。私、あなたなら信じてくれると思って……追いかけてきちゃいました。ごめんなさい……」

少し驚いたようであったがエレノアは黙って聞いていた。琴葉が最後まで語り終えると階段を下る足を止め、優しくこう返した。

「そっか……君は、すでに世界の裏側に片足を踏み込んでいたんだね。今まで一人で抱えてて辛かっただろう」

エレノアは振り返り、微笑みながら琴葉を見つめた。慈愛に満ちた優しい瞳だった。この世の悲しみすべてを受け入れるような、深い深い青色だった。

「これからは私たちが、そして君の隣の彼が、君のそばにいる。もう君は一人じゃないよ」

琴葉は、胸に熱いものがこみ上げるような気がして。思わず手を当てた。誰かに自分の体験を共有したかった。一緒におぞましい記憶と戦ってほしかった。そして、自分を信じてほしかった。長い間せき止められていた感情がとめどなく溢れ、熱い雫が頬を伝った。

「私……怖かったっ……でももう一度天使にあって、お礼が言いたかった……ぐすっ、あの時助けてくれてありがとうって。あなたなら何か知ってるって思って……」

嗚咽交じりに琴葉は本心を吐露した。そうだ、自分はお礼が言いたかったのだ。あの日自分を助けた存在にもう一度会って、心からの感謝を伝えたかったのだ。口にするにつれて点と点が結びつき、自分でも気が付かなかった本当の気持ちが浮かび上がってきた。ふと、肩に優しく手を置かれた気がした。ゴツゴツとした固い感触、けれども伝わる温もり。振り返ると先ほどの鳥人が琴葉をじっと見守っていた。琴葉が見つめ返すと、それはそっとうなずきを返した。霞が集まったようなおぼろげな姿だが光り輝く二つの大きな目は穏やかな視線を向けていることがわかった。

「あなた……優しいのね」

琴葉はそっと鳥人の手に触れた。さらさらとした砂のような感触がした。小さな粒子が集まってかろうじて形を成しているような感覚だった。力強いシルエットとは裏腹に、今にも消えてしまいそうな儚さを琴葉は感じた。こんな脆い体で自分を守ってくれたのかと思うと、再び胸が熱くなった。

「サンプラザの前に私の仲間がいるから、ここからは急ぐよ。続きはそれからだ」

エレノアを先頭に三人は改めて階段を下り、一階へとたどり着いた。階段から出口までは二〇メートルほどしか離れておらず、三人はネズミが離れたタイミングで駆け出し、ネズミの巣窟と化した中野ブロードウェイから脱出した。


外で琴葉が目にした光景は、とてもこの世のものとは思えなかった。多数の巨大なネズミの亡骸が、中野駅前の道路を地獄絵図に変えていた。ざっと数えただけでも二十を超えるその数は、とてもあの建物の中に潜んでいるとは思えなかった。

「さっきのより大きい……」

琴葉たちが先ほど遭遇した個体は頭頂高はせいぜい一五〇センチ程度であったが、これらは控えめに見積もっても二〇〇センチを超えていた。

「さっきのはお留守番にすぎなかった……ってわけか。それにこの数、緋奈ちゃん一人じゃキツかっただろうなぁ」

大きな切り傷を負っている個体、首が向いてはいけない方向に向いている個体、黒焦げの個体と凄惨を極めていた。見るに堪えない化けネズミの死骸たちをかき分けた先、中野サンプラザ前の広場に腰掛ける小柄な少女がこちらを振り向いた。エレノアは大きく手を振り、二人を連れて少女のもとへ歩いて行った。

「遅いですよエレノアさん!心配したじゃないですか」

エレノアに少女が少し怒った風に駆け寄った。臙脂色の髪に利発的な印象を与えるぱっちりとした黄色い瞳が目を惹く少女であった。生足を大胆にさらしたホットパンツにスニーカーにクリーム色のゆったりとしたTシャツが明るい印象を与えていた。

「ごめんね緋奈ちゃん。地下の群れの様子を見に行ったら行方不明者の遺留品見つけてね。追い返されたときに逃げ遅れたこの子も一緒に来ることになったんだ」

「そうですか……ってうわぁ!?」

緋奈と呼ばれた少女は琴葉の方を見るや否や素っ頓狂な声を上げた。初対面の少女の後ろには筋肉質な鳥人のようなオーラがふよふよと浮かんでいたからだ。

「ちょっとちょっと!新しいイドライザーだなんて聞いてないですよ!!どこで拾ってきたんですか!?」

「あそこの四階、なんか怪獣慣れしてるしもう自分のイドラと仲良くなってる。なかなかの逸材だよ」

聞きなれない言葉が飛び交う中で琴葉は置いてけぼりを食らったような気分になり、思わず鳥人と顔を見合わせた。どうやら彼も事態を呑み込めていないようであった。わずかに首を傾げた姿に思わず琴葉は笑みをこぼした。

「それで……ネズミたちはこれで全部?」

エレノアはあたり一面に転がるネズミたちを指さしながら少女に尋ねた。琴葉はこの少女がネズミたちを倒したとは到底信じられず、思わず緋奈の顔を二度見した。

「とりあえず湧き出てきたのは一通り潰しました。すばしっこかったんで大変でしたよ……。海斗さんからさっき連絡があったんですがお店は無事みたいです。ついさっき波が止んだのでイグニスを引っ込めて今は休ませてます」

「ご苦労様、万が一に備えて君たちは体力を温存しといて」

緋奈はエレノアと話し終わるや否や、琴葉の方へ向き直った。怪獣を倒したとは到底信じられず、訝しげに緋奈を見つめていた琴葉は思わずびくっと肩をすくませた。そんな琴葉を気にも留めず、緋奈は笑顔で自己紹介を始めた。

「仲代 緋奈って言います!よろしくお願いします」

「松風 琴葉って言います……あの、さっきの、イドラ……とかイドライザーっていったい何ですか?この後ろの人と何か関係が……?」

琴葉は振り返り、後ろの鳥人に指をさした。ひとまず敵ではないことはわかったが依然後ろに漂うこの存在の正体については何もわかっていない。一刻も早く琴葉は自信を取り巻くこの不可解な現象についての知りたくてしょうがなかった。

「琴葉さんみたいに怪獣と心を通わせて、力を借りることのできる人をイドライザーって言うんです。私たちは怪獣の力を借りて、悪事を働く怪獣と戦ってるんですよ」

「そして君が遭遇してきた怪獣たちのことをまとめて、私たちはイドラと呼んでる。人の思考や感情を糧に生きる、超常の存在さ」

にわかには信じがたいことである。人間の常識を超えた生物が存在するだけでなく、そのような存在から力を借りることのできるものが存在し、そして自分もその一人であったこと。だが現に後ろの怪獣は自分を助け、寄り添うそぶりを見せてくれた。琴葉には彼女が嘘を言っているとは思えなかった。緋奈の説明をもとに琴葉が必死に状況を理解しようとする中、エレノアはブロードウェイにつながるサンモールの入口を睨んでいた。

「緋奈ちゃん、準備して」

<ギギャォォォォォォォン!!>

突如けたたましい雄たけびが、駅前一体に響き渡った。先ほどまでのネズミたちとは違う、甲高くも空気を振動させるかのような力強い咆哮であった。琴葉の後ろで鳥人は身構え、エレノア同様に雄たけびの聞こえた方向を見つめていた。しばらくすると、サンモールにつながる通路より、巨大な獣が身をよじりながら姿を現した。その姿に琴葉は絶句するほかなかった。頭から地面の下までゆうに六メートルはあるであろう、巨大な二足歩行の獣であった。先ほどのネズミたちに似た煤けたような灰色の毛皮に皮膚の露出した桃色の手足は、それが彼らの同族であることを示していた。しかし、筋骨隆々とした体躯に太く長い首は丸く大きな耳がなければネズミと認識することは難しいだろう。体に比例するように前歯も大きく発達しており、頭部には金色の毛がとさかのようにそそり立っていた。生物の中にはメスにアピールするために体の一部を目立つ形に発達させるものがおり、これが大きければ大きいほど優良な雄であることのシンボルであるといった話を琴葉は思い出した。ほかのネズミたちにこのようなとさかは見当たらなかったことから、琴葉は今目の前にいる怪物がネズミたちの王であると判断した。

「お……お、大きい……」

琴葉は全身がすくみ上り、ガタガタと震えながらネズミの王の方を見た。ギラギラと光る眼は四人を見下ろし、威嚇するように一吠えした。こちらの出方をうかがっているのか一歩一歩慎重に琴葉たちの方へ迫った。もはや通行する車すらなくなった大通りを怪物は悠々と歩き、ゆっくりと距離を詰めていった。近づかれたことで、怪物の身体に多くの生傷が走っているのが見えた。どうやらこの個体は、熾烈な競争を生き残り今の地位を手に入れたのだと、エレノアは判断した。

「交渉の余地、なさそうですね」

「最初から本気で行かないとダメみたい。あの個体、かなり強いよ」

緋奈は一歩前に踏み出し手のひらを広げた。すると彼女の手のひらに赤い光が集まり、いつの間にか彼女の手のひらの上には真紅に光り輝く正四面体の結晶体のようなものが現れた。

「よく見ておいて、これが怪獣使い、イドライザーの戦いだよ」

エレノアは緋奈を指さし言った。緋奈の手のひらの結晶体がふわりと浮かび、ゆっくりと回転を始めた。

「行くよ、ケラトイグニス!」

結晶体の回転が早まるにつれ赤い光が炎のように迸り、やがて彼女の手のひらから溢れだした。結晶の輝きが増したかと思うと、緋奈の手のひらから一際まばゆい光が飛び出し、空中で弾けた。その直後、地面に突如衝撃が走り、琴葉は大きくよろめいた。体勢を整えると、徐々に光が収まり、衝撃の原因と思しきものの姿が明瞭になる。

「紹介します。私のイドラ、ケラトイグニスです!」

光の中から現れたのは、逞しい二本脚で大地を踏みしめる竜の姿だった。所々黒い斑点のある甲殻に覆われ、太く長く発達した尻尾は地面につきながら先端がうねりそれが確かに生き物であることを再認識させる。頭部には水牛を思わせる巨大な二本角が前を向いており、ナイフのような鋭い牙が口腔にずらりと並ぶ顔立ちは獰猛さをこれでもかというほど醸し出していた。胸部には橙色に発光する機関が二つ存在し、鼓動するかのように明滅を繰り返している。百人が見れば百人が怪獣と答える、それだけ絵に描いたような怪獣の姿が目の前にあった。

「後輩の前だよイグニス。カッコいいところ見せないとね!」

<グオォォォォォォン!!>

ケラトイグニスと呼ばれた緋奈のイドラは、緋奈に応えるように大地を揺るがすような雄たけびを上げ、ネズミの王に突っ込んでいった。体格は両者互角、ケラトイグニスはネズミの王との距離を詰め、左足を軸に走る勢いのまま大きく振り返り、丸太のような尻尾を叩きつけようとした。ブォンという轟音と共に空気を切り裂きながら尻尾はネズミの親玉へと迫るが、ネズミの王は素早い身のこなしでこれを避け、ケラトイグニスがこちらへ完全に向き直るまでのタイムラグを衝いて一気に距離を詰めた。

「速い!?」

ネズミの王はケラトイグニスに素早く飛び掛かり首筋目掛けて貫手を打ち込んだ。比較的柔軟な褐色の皮膚の部分に深々と爪が突き刺さる。

「グギャア!?」

ケラトイグニスの首筋より真紅の血がとめどなく溢れる。ネズミの王は突き立てた指をさらに深く押し込み、グリグリと傷口を押し広げる。ネズミの王を引きはがそうとケラトイグニスは激しく暴れまわった。筋力では劣ることを察知してかネズミの王はすぐに首筋より手を引き抜き、ケラトイグニスを蹴り飛ばす形で後ろに大きく跳躍した。ネズミの王は血まみれの指先をヌラヌラ光らせながら、涼しい顔でこちらをけん制する。一方で蹴り飛ばされ体勢を崩したケラトイグニスはよろめきながら立ち上がった。首筋に負った傷口からはとめどなく血が溢れ、あたりを赤く染めていった。

「窮鼠猫を噛む……戦い慣れしてるねあの怪獣。それに」

エレノアは苦虫を噛み潰したような顔で戦いの経過を見守っていた。緋奈は赤い結晶を握りしめながら、相棒であるケラトイグニスを心配そうに見つめていた。立ち上がってはいるものの負った傷は深く、息も絶え絶えといった様子であった。

「イグニスの消耗が大きい……雑魚狩りに相当てこずったようだね」

緋奈とケラトイグニスはすでに二十匹以上のネズミの群れを相手にした後であった。一匹一匹は小さくとも集団を一度に相手にすれば消耗も大きい。無自覚に蓄積していた疲労が隙を作り、決定的なダメージを負うに至ってしまった。

「どうしよう……このままじゃ……」

琴葉は不安げな様子で緋奈たちを見つめていた。ケラトイグニスの闘志は依然消えておらず、果敢にネズミの王へと鋭い爪での反撃を叩き込もうとする。しかし先ほどの傷が響いているのか、キレのない攻撃をネズミの王が躱すのは容易かった。動くたびに血が溢れ、ゴリゴリと体力が削られていく。ケラトイグニスが力尽きるのは時間の問題だった。

「小娘よ。何者かは知らんが余計な詮索はするべきではなかったな」

低くしわがれた声がネズミの王より響いた。

「か、怪獣が喋った……!?」

「我はスクラットの王、さしずめスクラットキングとでも名乗っておこうか。貴様は知りすぎた。我々の地上進出のための糧となるがいい!」

スクラットキングは反撃に転じた。ケラトイグニスの攻撃をいなすようにかわしながら、甲殻に覆われていないところ目掛け攻撃を加えていく。全身の生傷から幾たびの死線を乗り越えてきたのだと察せられるが、その中で相手の弱点を見抜く力を培ってきたのだろう。いかにも大怪獣といった風貌のケラトイグニスをじわじわと追い詰めていった。ヒュオッと風を切りながらスクラットキングの爪がケラトイグニスの皮膚を引き裂く。鮮血が飛び散り、中野の街を赤く染めていく。

「もう隠し通す気もないってわけか。人殺しのタブーを破ったなら、どのみち他の怪獣が黙ってないぞ」

エレノアはスクラットキングを睨みつけ警告した。考え得る最悪の予感が的中してしまっていた。

「喰われるときに人間が発する恐怖はいい、ちまちま情動を拾うよりもよっぽど大きな力が得られるからなぁ。おかげで群れの頭にまでのし上がることができた。ほかの怪獣がなんだ、今更我々を止めることはできんよ」

いけしゃあしゃあと自身が人を喰い殺した事実を語りながらスクラットキングは緋奈の方に目を向けて、意地悪く目元を歪めた。

「こういう気の強そうな生娘はとびきりのご馳走になる。心が折れた瞬間の恐怖と絶望は何にも勝る糧になるからなぁ。さてどこから喰ってやろうか、美味しそうな脚から行こうか?それとも細い指を一本一本噛み千切って、子分にくれてやろうか?どのみち楽には死なさんぞ」

向けられた殺意に緋奈は瞳に涙を潤ませながらスクラットキングを睨みつけた。結晶体を握る手には力が込められ、わなわなと震えていた。

「イグニスは……アンタみたいな下衆になんか絶対負けない……」

人が死んだという事実に耐えがたい恐怖を前に、琴葉は再び幼い日の記憶を思い起こしていた。スクラットたちの犠牲者と、カエル男に食べられそうになった自分の姿を重ねていた。もし、あの時天使がカエル男に敗れていたら……と。

「ねぇ……私たちも戦えないの?」

琴葉は自分のイドラに問いかけた。あのまま彼女たちだけを放っておくことはできなかった。彼女と同じ力を持っているなら、自分もあのイドラと戦うことができるのではないかと。

「私ね、昔助けてもらった天使に今でも感謝してるの。あの時から、助けてくれた天使みたいに、困っている人を助けたいってずっと思ってた。それにね、あの怪獣に殺された人は私なの。助けが間に合わなかった私なの。だからお願い、私に力を貸して!戦う力を私にちょうだい!」

声を震わせながら、琴葉は鳥人に自分の望みを告げた。しばしの静寂ののち、突如激しい暴風に体が包まれ、琴葉はとっさに目を覆った。

「いきなり何!……って、え?」

気が付けば琴葉は穏やかなそよ風の吹く小高い丘の上にいた。突き抜けるような青空に白い雲が浮かび、温かな日差しが降り注いでいた。丘の周辺一帯は緑で覆われており、風に吹かれて波打ち際のように揺らめいていた。

「ここは……」

辺りを見回すがエレノア達の姿はない。この空間にいるのは琴葉と、彼女の目の前の「彼」だけだった。

「私の……イドラ?」

そよ風に波打つ草の海の中にそれはたたずんでいた。うすぼんやりとした靄がかろうじて形をとどめているような状態で、風に揺られゆらゆらとたなびいていた。

「君の心はとても居心地がいい。住ませてもらっているお礼をずっと言いたかった」

体の芯に静かに染み渡るような落ち着いた男性の声であった。時折見せた優しげな素振りからもうかがえたが、琴葉はこの怪獣は今まで自分を襲ってきた怪獣たちとはまるっきり異なるのだと感じ取っていた。

「あなたの名前は?どうして私を守ってくれるの?」

「私の……名前……」

鳥人は少し悲し気に琴葉から視線をそらした。吹き抜ける風の行方を追うかのように鳥人は空を見上げながら答えた。

「わからない、思い出せないんだ。自分が何者なのか。突然暗闇の中から抜け出したと思ったら、心だけが風に運ばれたように、気が付けば君のもとへたどり着いていた」

鳥人は琴葉に向き直り、続けてこう言った。

「あの人たちのイドラみたいにはっきりとした身体を手に入れなければ、君の力になってあげることはできない。琴葉、先ほど力を貸してほしいといったけれど、私の方こそ君の力が必要なんだ。君が私を受け入れて、君のイメージを食べさせてくれるのであれば、私は君に戦う力を授けてあげられる。半ば既成事実みたいになってしまって申し訳ないが、君の心を私に分けてくれないだろうか?」

琴葉に迷いはなかった。すでに琴葉は彼に助けられており、彼の人となりにも触れた。琴葉にとって鳥人は信頼に足る存在であった。そして何より、琴葉は人の恐怖と絶望を食い物にするスクラットキングが許せなかった。助からなかった人々のことを思うと、胸が締め付けられ身体が熱を帯びていた。

「あなたはさっき私を助けてくれた。あの時あなたが守ってくれなかったら、私もあのネズミたちの餌食になってた。それに、私は守るための力が欲しい。あんな風に人を傷つける怪獣から誰かを守りたい。私の心で誰かを守れるのなら使って。一緒にあの怪獣と戦って!」

丘一帯を吹き抜ける風が強さを増していく。草の海は激しく波打ち琴葉は流される髪を抑えた。鳥人は琴葉に手を差し伸べると、琴葉の前に緑色の光が集まり始めた。光は見る見るうちに凝縮されていき、やがて琴葉の目の前には、緋奈が持っているものに似た結晶体が浮かんでいた。ルビーを思わせる緋奈の物とは異なり、琴葉の目の前に現れたそれは翠玉のように透き通った緑色の正八面体であった。

「それを使って私を呼んだならば、私は君の剣として、君の前に立ちふさがるものと戦おう。」

風はますます強くなる目を開けるのがやっとな状態になり、吹き荒れる風が声を遮るようになり、直感的に琴葉はもう時間がないことを悟った。

「待って!名前も知らないのにどうやって呼べば……」

「私を必要だと思った時、おのずと心から湧き出てくるはずだ。私は君の想像力の化身なのだから……」

琴葉の身体は暴風に包まれ、目を開けていることすらできなくなった。そして一際強い風が吹いたかと思うと、その後ぴたりと風がやんだ。ふくらはぎをくすぐる草の感触が消え、琴葉が目を開くと、琴葉の身体は中野サンプラザ前に戻っていた。

「さっきまでの威勢はどうした小娘よ!貴様のイドラはもう限界みたいだぞ!!」

緋奈をあざ笑う声が響いた。琴葉は声のする方へ一歩一歩歩みを進めていった。

「琴葉さん!?危ないから下がっててください、ここは私が……」

「仲代さん、私たちも戦います。もう見ているだけなんて私嫌です」

琴葉は自分の心の中に住まう怪獣に思いを馳せた。もう誰にも傷ついてほしくない、理不尽な暴力から誰かを守りたい、そんな琴葉の意思に応えるように、琴葉の手の中に結晶体が現れる。琴葉は結晶体を乗せた手を掲げ、自らの心の化身に呼び掛けた。

「お願い、ミストラル!私に力を貸して!!」

その瞬間、琴葉の手の上で回転を始めた結晶体から深緑に輝く光の渦が生まれた。結晶体を中心に渦は回転を速め、やがて流星のように一際眩い光が飛び出し琴葉の目の前に降り立った。

「ば、馬鹿な……新たなイドラだと……」

光はゆっくりと形を変えていく。手が生え、脚が生え、人型のシルエットを形成したかと思うと背中より巨大な二枚の翼を広げた。やがて琴葉の見知った姿になったかと思うと輝きは霧散し、中から一体の白い魔人が現れた。

「これが……私の……」

それは白き装甲を身にまとった鳥人のような怪獣であった。身体の各部には血管のように深い赤色のラインが駆け巡り、所々灰色の素肌らしきものが見え隠れしていた。しゃがみこんでいた鳥人が立ち上がった。背丈は軽く琴葉の二倍以上あり、逆三角形の筋肉質なシルエットの背中はこの上ない頼もしさを琴葉に感じさせた。後ろの琴葉の方を鳥人が振り返った。ミミズクの兜をかぶったような顔であり嘴上のスリットからはエメラルドのように輝く二つの目が琴葉を見つめていた。さしずめ、ミミズクの騎士とでも言ったような風貌であった。ミストラルと呼ばれたイドラはスクラットキングの方へ向き直ると、鋭い装甲で覆われた手を構え、高らかに宣言した。

「このミストラル、琴葉の剣としてかの暴虐を働く鼠どもを征伐しよう」

エレノアは新たなる怪獣使い<イドライザー>の誕生を目の当たりにし、ほんのりと笑みを浮かべた。

「初陣を見届けさせてもらうよ、風のイドライザーさん」

辺りにはいつしか穏やかな風が吹き始めた。エレノアにはそれは、琴葉の覚醒に対する祝福のように思えた。今ここに、一人の少女と相棒の怪獣の、果てしない戦いが幕を開けようとしていた。
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