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第1章:終わる夏
透明な呪い
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無人の男子トイレ、清掃が行き届いた室内は芳香剤の香りが漂い、人間が排泄する醜悪な香りなどは存在しない。夏樹は試合の直前には、個室に篭るのがルーティーンであった。
人間が文明を発展させる度に、捨て置いて来た動物としての本能。それらが最も身近に、それでいて直接的に現れるのは、トイレであると夏樹は考えていた。その為、トイレに篭もっている間は、自分を取り巻く社会的な柵から抜け出すことができるのだ。加えて、好きなイギリスロックバンドの曲を聞くと、最大限のリラックスをすることができる。夏樹が深呼吸をしていると、扉が開く音と共に、二つの足音が近づいて来た。
「遂に来ちゃったな、明光戦。今日が正念場だな」
「そうだな。けど試合に出ない俺らには関係ないだろ?」
「言えてる」
「あーあ、一度くらい、ベンチ入りしてみたかったよな」
「おい、やめろ。虚しくなるだろ」
二人の口ぶりから察するに、三年生だろうと夏樹は考えた。しかし二人とも声と名前が繋がらない。二人は、用を済ませた後も、鏡の前で話を続けている。
「それも、あの『殺し屋』が来たせいだよ、全部」
「間違い無い。長谷川があいつに壊されてから、全部がおかしくなっちまった。よく部活続けられるよな、あいつ」
夏樹は、薄々気づいていた自分を揶揄する渾名を耳にしたが、特に激情に駆られることもなかった。普段通りイヤホンを装着しようと、ポケットに手を伸ばすと、
「1年生の頃は、楽しかったよなぁ」
その発言を聞いて、手を止めた。
「あの頃は毎日が完成されてた。部活動に行くのが楽しくて仕方無かったもん、俺」
二人が蛇口から流す水の音が、サワサワと溶けていく。排水溝に吸い込まれたその水は、もはやどこに行ったかも分からない。
————そうか。この人達は、呪われてしまったんだ。青春という呪いに。
夏樹は、思い出と空想に耽る彼らの表情が見えた気がした。いつか見た、透明な笑顔。
感情が欠落した人形のように、空虚で透き通った、色の無い表情。
笑っては、いる。しかし、その笑顔の根源は、現実やこの瞬間の出来事ではなく、あくまでも存在しない空想や過去であり、目には見えない。その笑顔を携えた人々は、現実を忘却し、甘美な生温い思い出に酔う。彼らが今見ているのは、目の前の友人でも、憎い後輩でもなく、昨年の、輝かしく青い日々だ。彼らはその呪いに取り憑かれ、いつまでも抜け出せずに現実を忘れ、甘く温い思い出の中で生き続けているのだ。
夏樹は心の中で叫んだ。自分はこんな呪いには負けない。絶対に、負けてはならないのだ。彼の中で静かに、しかし強く反発する力が生まれていた。その決意は、手のひらに込められた拳の力となり、彼の身体全体に緊張感を走らせる。排水溝へと流れ込む水が、やがてその音すらも消えていく中で、夏樹は、イヤホンの再生ボタンを押した。
人間が文明を発展させる度に、捨て置いて来た動物としての本能。それらが最も身近に、それでいて直接的に現れるのは、トイレであると夏樹は考えていた。その為、トイレに篭もっている間は、自分を取り巻く社会的な柵から抜け出すことができるのだ。加えて、好きなイギリスロックバンドの曲を聞くと、最大限のリラックスをすることができる。夏樹が深呼吸をしていると、扉が開く音と共に、二つの足音が近づいて来た。
「遂に来ちゃったな、明光戦。今日が正念場だな」
「そうだな。けど試合に出ない俺らには関係ないだろ?」
「言えてる」
「あーあ、一度くらい、ベンチ入りしてみたかったよな」
「おい、やめろ。虚しくなるだろ」
二人の口ぶりから察するに、三年生だろうと夏樹は考えた。しかし二人とも声と名前が繋がらない。二人は、用を済ませた後も、鏡の前で話を続けている。
「それも、あの『殺し屋』が来たせいだよ、全部」
「間違い無い。長谷川があいつに壊されてから、全部がおかしくなっちまった。よく部活続けられるよな、あいつ」
夏樹は、薄々気づいていた自分を揶揄する渾名を耳にしたが、特に激情に駆られることもなかった。普段通りイヤホンを装着しようと、ポケットに手を伸ばすと、
「1年生の頃は、楽しかったよなぁ」
その発言を聞いて、手を止めた。
「あの頃は毎日が完成されてた。部活動に行くのが楽しくて仕方無かったもん、俺」
二人が蛇口から流す水の音が、サワサワと溶けていく。排水溝に吸い込まれたその水は、もはやどこに行ったかも分からない。
————そうか。この人達は、呪われてしまったんだ。青春という呪いに。
夏樹は、思い出と空想に耽る彼らの表情が見えた気がした。いつか見た、透明な笑顔。
感情が欠落した人形のように、空虚で透き通った、色の無い表情。
笑っては、いる。しかし、その笑顔の根源は、現実やこの瞬間の出来事ではなく、あくまでも存在しない空想や過去であり、目には見えない。その笑顔を携えた人々は、現実を忘却し、甘美な生温い思い出に酔う。彼らが今見ているのは、目の前の友人でも、憎い後輩でもなく、昨年の、輝かしく青い日々だ。彼らはその呪いに取り憑かれ、いつまでも抜け出せずに現実を忘れ、甘く温い思い出の中で生き続けているのだ。
夏樹は心の中で叫んだ。自分はこんな呪いには負けない。絶対に、負けてはならないのだ。彼の中で静かに、しかし強く反発する力が生まれていた。その決意は、手のひらに込められた拳の力となり、彼の身体全体に緊張感を走らせる。排水溝へと流れ込む水が、やがてその音すらも消えていく中で、夏樹は、イヤホンの再生ボタンを押した。
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