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八月
❸
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「おーい、亜紀斗ぉ、田中さーん」
春輝の声だ。これ幸いと声の主を探すと、雑踏のずっと奥から、春輝がこちらに近づいてきていた。手を大きく振っている。小さく手をあげて返事をすると、田中さんも気が付いたらしく、控えめに手を振っていた。
「やー、人すげーな。ここまで混むとは思ってなかったわぁ」
「三年前はこんなに混んでなかった気がするんだけど……というか、春輝、なんで遅れたの?」
「それがな? 母さんがさー、荷物持ちとして買い物についてこいとか言い出してさ。全然解放してくれねえの。俺出掛けるってちゃんと言ってたはずなのに。ひどくね?」
「じゃあしょうがない。春輝、力だけはすごいから」
「お前もひどいなぁ。……田中さん、こんにちは……こんばんは? 今ってどっちの時間?」
「もう、こんばんはで、いいかも? こんばんは、山田くん」
「こんばんは」
春輝は、僕とほとんど変わらない、Tシャツ姿だった。これでこいつも甚平なんか着てたらどうしようかと思っていたので、僕は少し安心した。
「田中さん、おばあちゃんち行ってたんだっけ?」
「うん。えっと、三泊くらいしてきた」
「どこにあるの?」
「山形」
「山形か。いいなあ、俺、じいちゃんたち、どっちもすげー近くに住んでるからさ、遠くに遊びに行くって、経験したことないんだよなあ。電車一本だから」
「でも、すぐ会えるの、羨ましいな。私、えっと、今回行ったのは母方のおばあちゃんちだったんだけど、父方のおばあちゃんちも、新潟にあって、遠いの。だから、おばあちゃんちって、長いお休みにしか、行ったことない」
「でも、なんかそれ、特別感あっていいよなあ」
春輝一人がいるだけで、会話が無限に続いていく。これは彼の才能なのか、それとも僕にその能力があまりにもないのか、どちらにしても、少し複雑な気持ちだ。
「亜紀斗んとこは? じいちゃんばあちゃんちどこ?」
「父さんの両親は、群馬にいる。母さんの方は、……えっと、僕が生まれる前に、亡くなっちゃってて、だから、分からないかな」
話の流れで言ってしまった。僕はどうにも、空気が読めないらしい。この気まずさをどう奪回しようか、と思ったところで、後ろからにゅっと手が伸びてきて、不意に目を塞がれた。
「だーれだっ!」
救世主みたいな声だった。同時に、小憎たらしさも感じる。僕は、力づくで彼女の両手を引き剥がして、振り返った。その瞬間、硬直したまま動けなくなってしまった。
「ヒマリ、ずいぶん遅かった……ね」
「はいはい、すいませんでした。乙女の支度には時間がかかるの。あ、山田くんも雪ちゃんも、……えーと、今ってこんにちは? こんばんは?」
「ふふ。ヒマリちゃん、今日、その話題、三回目だよ」
「えー、そうなの? やっぱ気が合うなあ。今回、このメンバーにして、正解だったね。それで、今はどっち?」
「こんばんはだねー、ってなった」
「じゃあ、こんばんは!」
「こんばんは」
「こんばんは。佐々木、改めて、今日は誘ってくれてさんきゅな」
「もう、いいっていいって」
目の前にいたのは、姉だった。
紺の地に大きな朝顔が咲いている浴衣を着て、赤い帯を文庫結びにし、髪をお団子にしている、その姿は、四年前の夏祭りの時の姉と、正しく瓜二つだ。
喋っている間にじわじわ沈んでいたらしい太陽は、昼間の白い顔が嘘みたいに真っ赤で、その赤い光が、彼女の全身を照らしている。
身体中の温度が、一気に下がった感覚がした。姉が、姉が目の前にいるのだ。心臓の音が、やけに大きい。先ほどまでの緊張とは違う、張り詰めた何かが、喉に薄い膜を張ってしまったようで、声がちっとも出ない。口から漏れ出るのは情けない荒い呼吸ばかりで、僕は、もうここから一歩も動けなくなってしまったのではないかとすら思った。手が、わずかに、あてもなく宙を彷徨う。彼女の一挙手一投足、笑い方、声の抑揚、とにかく全てが、姉のものに思えて仕方がなかった。
「……姉、さん……」
ようやく絞り出した声は、掠れて、ほとんど息で掻き消えてしまっていた。
「……亜紀斗くん。何か、言った?」
ふ、と正気に戻って、僕は大きく息を吸った。彼女は、いつものヒマリに戻っていた。
「……いや、なんでもない。もうみんな揃ったし、そろそろ、行こうか」
いつもなら嫌だと思うはずなのに、僕は進んで人混みの中に入っていった。とにかく、さっきの、不可思議な緊張と姉の幻影から、はやく逃げてしまいたかった。
春輝の声だ。これ幸いと声の主を探すと、雑踏のずっと奥から、春輝がこちらに近づいてきていた。手を大きく振っている。小さく手をあげて返事をすると、田中さんも気が付いたらしく、控えめに手を振っていた。
「やー、人すげーな。ここまで混むとは思ってなかったわぁ」
「三年前はこんなに混んでなかった気がするんだけど……というか、春輝、なんで遅れたの?」
「それがな? 母さんがさー、荷物持ちとして買い物についてこいとか言い出してさ。全然解放してくれねえの。俺出掛けるってちゃんと言ってたはずなのに。ひどくね?」
「じゃあしょうがない。春輝、力だけはすごいから」
「お前もひどいなぁ。……田中さん、こんにちは……こんばんは? 今ってどっちの時間?」
「もう、こんばんはで、いいかも? こんばんは、山田くん」
「こんばんは」
春輝は、僕とほとんど変わらない、Tシャツ姿だった。これでこいつも甚平なんか着てたらどうしようかと思っていたので、僕は少し安心した。
「田中さん、おばあちゃんち行ってたんだっけ?」
「うん。えっと、三泊くらいしてきた」
「どこにあるの?」
「山形」
「山形か。いいなあ、俺、じいちゃんたち、どっちもすげー近くに住んでるからさ、遠くに遊びに行くって、経験したことないんだよなあ。電車一本だから」
「でも、すぐ会えるの、羨ましいな。私、えっと、今回行ったのは母方のおばあちゃんちだったんだけど、父方のおばあちゃんちも、新潟にあって、遠いの。だから、おばあちゃんちって、長いお休みにしか、行ったことない」
「でも、なんかそれ、特別感あっていいよなあ」
春輝一人がいるだけで、会話が無限に続いていく。これは彼の才能なのか、それとも僕にその能力があまりにもないのか、どちらにしても、少し複雑な気持ちだ。
「亜紀斗んとこは? じいちゃんばあちゃんちどこ?」
「父さんの両親は、群馬にいる。母さんの方は、……えっと、僕が生まれる前に、亡くなっちゃってて、だから、分からないかな」
話の流れで言ってしまった。僕はどうにも、空気が読めないらしい。この気まずさをどう奪回しようか、と思ったところで、後ろからにゅっと手が伸びてきて、不意に目を塞がれた。
「だーれだっ!」
救世主みたいな声だった。同時に、小憎たらしさも感じる。僕は、力づくで彼女の両手を引き剥がして、振り返った。その瞬間、硬直したまま動けなくなってしまった。
「ヒマリ、ずいぶん遅かった……ね」
「はいはい、すいませんでした。乙女の支度には時間がかかるの。あ、山田くんも雪ちゃんも、……えーと、今ってこんにちは? こんばんは?」
「ふふ。ヒマリちゃん、今日、その話題、三回目だよ」
「えー、そうなの? やっぱ気が合うなあ。今回、このメンバーにして、正解だったね。それで、今はどっち?」
「こんばんはだねー、ってなった」
「じゃあ、こんばんは!」
「こんばんは」
「こんばんは。佐々木、改めて、今日は誘ってくれてさんきゅな」
「もう、いいっていいって」
目の前にいたのは、姉だった。
紺の地に大きな朝顔が咲いている浴衣を着て、赤い帯を文庫結びにし、髪をお団子にしている、その姿は、四年前の夏祭りの時の姉と、正しく瓜二つだ。
喋っている間にじわじわ沈んでいたらしい太陽は、昼間の白い顔が嘘みたいに真っ赤で、その赤い光が、彼女の全身を照らしている。
身体中の温度が、一気に下がった感覚がした。姉が、姉が目の前にいるのだ。心臓の音が、やけに大きい。先ほどまでの緊張とは違う、張り詰めた何かが、喉に薄い膜を張ってしまったようで、声がちっとも出ない。口から漏れ出るのは情けない荒い呼吸ばかりで、僕は、もうここから一歩も動けなくなってしまったのではないかとすら思った。手が、わずかに、あてもなく宙を彷徨う。彼女の一挙手一投足、笑い方、声の抑揚、とにかく全てが、姉のものに思えて仕方がなかった。
「……姉、さん……」
ようやく絞り出した声は、掠れて、ほとんど息で掻き消えてしまっていた。
「……亜紀斗くん。何か、言った?」
ふ、と正気に戻って、僕は大きく息を吸った。彼女は、いつものヒマリに戻っていた。
「……いや、なんでもない。もうみんな揃ったし、そろそろ、行こうか」
いつもなら嫌だと思うはずなのに、僕は進んで人混みの中に入っていった。とにかく、さっきの、不可思議な緊張と姉の幻影から、はやく逃げてしまいたかった。
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