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不完全なシーグラス
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あたしたちの楽園で、彼女は死んだ。彼女らしくなく、ローファーをきちんと揃えて。別人みたいに、行儀よく。制服を身にまとって入水した。
遺体には、いくつもの殴られた痕があったらしい。クラスメイトが、ひそひそと話していた。
ゆめの友達だった子たちは、あたしが彼女と特別仲が良かったことを認識していたらしい。休み時間に何人もが声をかけて、「大丈夫?」と聞いてきた。ささくれだった心では、その気遣いを素直に受け取れなくて。そんな自分に、酷く嫌気がさした。大丈夫だよ、と答えたあたしは、きっとうまく笑えていなくて。酷い顔をしていたことだろう。
「外岡さん、少しいい?」
「……はい」
担任に呼ばれた職員室の中、手渡されたそれ。思わず、目を見開いた。
『咲ちゃんへ』
手紙。ノートの一ページを折りたたんだ、簡易的なもの。表面に震える文字で紙片に書いてあったそれは、最期の勇気を振り絞ったのだろう。
妙に膨らんでいる。何かが、入っているらしかった。
「……警察の方がね、検死も終わって、ご家族に話を聞いたらしいの。お父さんが虐待を認めて……ううん、ごめんなさい、話しすぎた。とにかくね、中田さんが海にこれを遺していたらしいの」
先生の声が、近いはずなのにどこか遠くから聞こえる。もう答えのわからない疑問と薄暗い感所が、ぐるぐると頭の中で渦巻く。
なんで、あたしも誘わなかったの。一緒に破滅しようと、願ってくれなかったの。あたしのこと、好きだったんでしょう。だったらどうして。…………好きだったから? わからないけれど、深い絶望はもう消えない。
「先生」
騒がしい職員室で、声を張る。
「もう、今日は帰っていいですか」
「……うん。わかった」
微かな嗚咽が混ざる。珈琲の匂いを振り払うように、踵を返して早歩きで去った。
走った。転んでも、汚れても、かまわず走った。彼女が亡くなったという海のそばで、我慢しきれなくなって、途中で手紙を開いた。
『これだけは守ったよ。捨てられないように守ったから、私だと思って大切にしてね』
遺してくれたそれは、最早呪いだ。
通行人が不審なものを見る目を向ける。うるさい。吠えたかったが、まともな言葉を発せ層に無かった。涙に溺れる。このままあたしもここで死んでしまえたらいい。彼女が溶けた青に、混ざれたのなら。そう思った。
その日は、どうやって家に帰ったのか覚えていない。気がつけばもう夜の帳が下りていた。母は、腫物を扱うように接した。機械的に食事を食べ、風呂に入り、歯を磨いて。じわりと自然に滲む涙を誤魔化すように、いつもよりずっと早く寝床へもぐりこんで、現実から逃避した。
あたしは夢を見た。大人びて見えるあたしは、知らない男と隣合って笑っていた。彼女にひとつも似ていない男の横で。その左手には。薬指、には。取るに足らない平凡な、宝石もついていないシルバーリングが、鈍く光を反射していた。
「ねえ」
なにやってんの。なんでそんな指輪付けてるの。誰なの、その人。なにそんな、幸せの絶頂にいますみたいな顔してんの。なにを、なにが、なんで。あの子のことがあったのに、平然として居られてるの。
歩く。ただ、歩く。だけど、一向に距離は縮まらない。走る。それでも、辿り着けやしない。それどころかどんどん遠ざかって行った。思っていたよりもずっと沖合に出てしまったときの、いつまで経っても浜に着かないときのような焦りが滲む。後ろ姿を見つめるだけのつまらない夢。だけどそれは、どんな刃物よりも鋭くあたしの胸を抉ったのだ。
目が覚める。短い呼吸を繰り返す。寝汗でへばりつく髪が、まとわりつくシーツが、秒針の音が。なにもかも鬱陶しくて、嫌になって、吐き気がして。あたしは、彼女の遺したシーグラスを床に叩きつけてしまいたくなった。
『長い年月がかかって、鋭い破片も磨かれて丸くなる……時間って、そんなにすごいんだね』
脳裏をよぎったのは、あの日の彼女の言葉だった。あ、と間抜けな声が口から洩れる。
『よく、時が解決するって言うしね。……本当に、時間がぜんぶ丸くして、綺麗にしてくれるなら』
彼女こそがあたしの波だった。彼女に言えなかった言葉が、返ってくる。あたしは彼女の波にはなれなかった。残酷な真実が胸を刺した。
あたしは。彼女のことなど忘れて、面影も何もない人間の隣に立つのか。
吐き気がした。
「ああ、あああ……」
震える声が自分の物だと一瞬気が付かなかった。
そうだ。時間が経つだけでは、ガラスはどうなる? あたしの心は、彼女への想いは──
がしゃり。
鼓膜を劈く音。透明なガラス瓶の破片と混じって、赤が輝く。シーグラスは無惨にも割れて。あたし乾いた笑いを漏らし──その場にへたりこんだ。肩にかかっていた髪がぱさりと落ちてきて、床に散らばる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめ、なさ……ふ、ごめんん、なさいぃ……」
濁って上擦った声が汚い。瞼が熱い。鼻水が詰まって、嗚咽が込み上げて、上手く息が吸えない。蹲って、折りたたんだ体の内側でくぐもった声が行き場を無くして死んでいく。苦しい。苦しい。目が痛い。感情の奔流が、止まらない。
苦しくて、苦しくて、もう、どうしようもなくて。
鋭くとがった真っ赤な破片のひとつを掴む。衝動のまま──左手へと、振り降ろした。
気付いたときには、手の甲は赤に染っていた。たいした量の血ではない。こんなときでも振り切れなかった自分の醜さに、乾いた笑いが漏れた。
乱暴にシーグラスの破片を拾い上げる。集めたそれを、引き出しの中に閉じ込めた。絶対に、海になんか流してやらないのだと。
この傷も、一生治らない。それでいい。それでいいんだ。彼女の証明になるんだから。
ひとしきり笑って、笑って、笑って、また泣いた。
しょっぱい口の中は、あの日した口付けの味がした。
遺体には、いくつもの殴られた痕があったらしい。クラスメイトが、ひそひそと話していた。
ゆめの友達だった子たちは、あたしが彼女と特別仲が良かったことを認識していたらしい。休み時間に何人もが声をかけて、「大丈夫?」と聞いてきた。ささくれだった心では、その気遣いを素直に受け取れなくて。そんな自分に、酷く嫌気がさした。大丈夫だよ、と答えたあたしは、きっとうまく笑えていなくて。酷い顔をしていたことだろう。
「外岡さん、少しいい?」
「……はい」
担任に呼ばれた職員室の中、手渡されたそれ。思わず、目を見開いた。
『咲ちゃんへ』
手紙。ノートの一ページを折りたたんだ、簡易的なもの。表面に震える文字で紙片に書いてあったそれは、最期の勇気を振り絞ったのだろう。
妙に膨らんでいる。何かが、入っているらしかった。
「……警察の方がね、検死も終わって、ご家族に話を聞いたらしいの。お父さんが虐待を認めて……ううん、ごめんなさい、話しすぎた。とにかくね、中田さんが海にこれを遺していたらしいの」
先生の声が、近いはずなのにどこか遠くから聞こえる。もう答えのわからない疑問と薄暗い感所が、ぐるぐると頭の中で渦巻く。
なんで、あたしも誘わなかったの。一緒に破滅しようと、願ってくれなかったの。あたしのこと、好きだったんでしょう。だったらどうして。…………好きだったから? わからないけれど、深い絶望はもう消えない。
「先生」
騒がしい職員室で、声を張る。
「もう、今日は帰っていいですか」
「……うん。わかった」
微かな嗚咽が混ざる。珈琲の匂いを振り払うように、踵を返して早歩きで去った。
走った。転んでも、汚れても、かまわず走った。彼女が亡くなったという海のそばで、我慢しきれなくなって、途中で手紙を開いた。
『これだけは守ったよ。捨てられないように守ったから、私だと思って大切にしてね』
遺してくれたそれは、最早呪いだ。
通行人が不審なものを見る目を向ける。うるさい。吠えたかったが、まともな言葉を発せ層に無かった。涙に溺れる。このままあたしもここで死んでしまえたらいい。彼女が溶けた青に、混ざれたのなら。そう思った。
その日は、どうやって家に帰ったのか覚えていない。気がつけばもう夜の帳が下りていた。母は、腫物を扱うように接した。機械的に食事を食べ、風呂に入り、歯を磨いて。じわりと自然に滲む涙を誤魔化すように、いつもよりずっと早く寝床へもぐりこんで、現実から逃避した。
あたしは夢を見た。大人びて見えるあたしは、知らない男と隣合って笑っていた。彼女にひとつも似ていない男の横で。その左手には。薬指、には。取るに足らない平凡な、宝石もついていないシルバーリングが、鈍く光を反射していた。
「ねえ」
なにやってんの。なんでそんな指輪付けてるの。誰なの、その人。なにそんな、幸せの絶頂にいますみたいな顔してんの。なにを、なにが、なんで。あの子のことがあったのに、平然として居られてるの。
歩く。ただ、歩く。だけど、一向に距離は縮まらない。走る。それでも、辿り着けやしない。それどころかどんどん遠ざかって行った。思っていたよりもずっと沖合に出てしまったときの、いつまで経っても浜に着かないときのような焦りが滲む。後ろ姿を見つめるだけのつまらない夢。だけどそれは、どんな刃物よりも鋭くあたしの胸を抉ったのだ。
目が覚める。短い呼吸を繰り返す。寝汗でへばりつく髪が、まとわりつくシーツが、秒針の音が。なにもかも鬱陶しくて、嫌になって、吐き気がして。あたしは、彼女の遺したシーグラスを床に叩きつけてしまいたくなった。
『長い年月がかかって、鋭い破片も磨かれて丸くなる……時間って、そんなにすごいんだね』
脳裏をよぎったのは、あの日の彼女の言葉だった。あ、と間抜けな声が口から洩れる。
『よく、時が解決するって言うしね。……本当に、時間がぜんぶ丸くして、綺麗にしてくれるなら』
彼女こそがあたしの波だった。彼女に言えなかった言葉が、返ってくる。あたしは彼女の波にはなれなかった。残酷な真実が胸を刺した。
あたしは。彼女のことなど忘れて、面影も何もない人間の隣に立つのか。
吐き気がした。
「ああ、あああ……」
震える声が自分の物だと一瞬気が付かなかった。
そうだ。時間が経つだけでは、ガラスはどうなる? あたしの心は、彼女への想いは──
がしゃり。
鼓膜を劈く音。透明なガラス瓶の破片と混じって、赤が輝く。シーグラスは無惨にも割れて。あたし乾いた笑いを漏らし──その場にへたりこんだ。肩にかかっていた髪がぱさりと落ちてきて、床に散らばる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめ、なさ……ふ、ごめんん、なさいぃ……」
濁って上擦った声が汚い。瞼が熱い。鼻水が詰まって、嗚咽が込み上げて、上手く息が吸えない。蹲って、折りたたんだ体の内側でくぐもった声が行き場を無くして死んでいく。苦しい。苦しい。目が痛い。感情の奔流が、止まらない。
苦しくて、苦しくて、もう、どうしようもなくて。
鋭くとがった真っ赤な破片のひとつを掴む。衝動のまま──左手へと、振り降ろした。
気付いたときには、手の甲は赤に染っていた。たいした量の血ではない。こんなときでも振り切れなかった自分の醜さに、乾いた笑いが漏れた。
乱暴にシーグラスの破片を拾い上げる。集めたそれを、引き出しの中に閉じ込めた。絶対に、海になんか流してやらないのだと。
この傷も、一生治らない。それでいい。それでいいんだ。彼女の証明になるんだから。
ひとしきり笑って、笑って、笑って、また泣いた。
しょっぱい口の中は、あの日した口付けの味がした。
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