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告白と決意
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それから。関係性に特別な名前は付けど、特にこれといった変化は生じなかった。いつも通り挨拶をして、馬鹿みたいな話をして笑って、手を振って別れて。それだけ。
あの日。三年生になってしばらくが経った頃。彼女が、真っ赤に泣き腫らした目で登校したあの日までは。
おはよう。
変わらぬ様子で、彼女は言う。それが、あまりにもいつもと変わりないものだから。あたしは何も言えなかった。……放課後まで、何も。言及することすら、できなかった。
「課題多くない? ほんと死ぬんだけど」
いつも通りに笑う。影なんて、少しも見せないまま。
「海、行こ」
そう言ったのは、どちらが先だっただろうか。もしかしたら、一緒に言ったのかもしれない。
海辺の階段に座って、手を繋ぐ。偽りの関係とはいえ、今のあたしたちは恋人同士だから。……いいや、この行為自体は前の関係でもよくしていた。
変に意識するようになったのは、告白があったから。彼女が指を絡めてくるのには、特別な意図はあるのだろうか。いつもの延長線上なのか、あたしにはわからなかった。
肩に重みがかかる。頭を乗せてきたらしい。
「ねえ咲ちゃん、私かわいい?」
「うん、かわいい」
「本当に?」
「すっごくかわいい」
「感情こもってない!」
かわいいよ。
平生を装って、いつも通りに振る舞う彼女が痛々しかった。手に少しだけ強く力を込める。彼女が小さく息を吸った。
「大きい目とか。二重もぱっちりしてて、すごく羨ましい。髪質も好きだな。あたしより明るくて、綺麗」
この体勢でよかった。人知れず安堵する。顔を直視していたら、こんなに直球で褒めることなんてできていなかっただろうから。
「……綺麗?」
頷く。外見だけではない。彼女の美しさは、人間的な美は。こんなあたしを暖かく包み込むように接してくれた、その優しさとひたむきさにこそ表れている。
「あたしのために文字通り走り回ってくれるとこも。構ってほしがるとこも、全部好きだよ」
突然、肩にかかっていた重みが消えた。絡まっていた手がほどけた。あ、と思って。手を伸ばしそうになったのは、妙な口惜しさを覚えたのはなぜだろう。
不可解な自分の感情に困惑する間もなく——立ち上がったゆめが、茜色の逆光を浴びて前に立つ。
いつになく、切羽詰まった。ともすれば、今にも泣きだしてしまいそうな顔で。
「咲ちゃん。私──言いたいことがあるの」
どうしたの。
そんな口を、挟むことも出来ない。あたしにかまうことなく、ゆめは言葉を紡いでいく。考えるより先に、言葉が出てきているみたいだった。
「引いてくれてもいい。この関係を……ううん、友だちをやめてくれてもいい。ただ、知って欲しいの」
うろ、と二、三度辺りを見回した彼女の瞳が、私を真っ直ぐ見つめる。覚悟が決まったように、だけど、躊躇いがちに──彼女は口を開いた。
「私ね。毎日お父さんに殴られてるんだ」
息を、飲んだ。
「…………、え?」
殴られてるって、誰が。お父さんに、何をされてるって。一息で言い切れるはずの短い文章を、止まってしまった思考回路では理解しきれなくて。裏返った間抜けな一音が、口から洩れた。
「だから、遠くの学校を選んだの。だから、友だちがいなかった。……だから……」
誰とも繋がってない、なにも知らない咲ちゃんと友だちになりたかった。
「私、最低なんだよ。こんな打算的な考えで友だちになるなんて。咲ちゃんと釣り合わない、最悪な人間で……」
声は時折裏返って、不安定な感情が露わになっているようで。こんな姿、初めてだ。だってあたしの中の彼女はいつも笑顔で、明るくて、怒ったり泣き出すことなんてなくて。所詮それは、彼女の一面しか見ていなかったのだ。そう、事実を突きつけられたようだった。
呆然とするあたしに、彼女は、は、と我に返ったように息を飲んでから──今にも泣き出しそうな笑顔を作った。
「ごめんね。知るのだって、辛いはずなのに。聞くことも、いい気分にならないって、わかってたのに。だから言わなかったのに。知って欲しくなっちゃって、わたし、わたし……」
自分勝手だ。
語末はどんどん小さくなって、震えて。とうとうそれだけを呟いて、顔を覆った。ふ、う。と、か細い嗚咽が手のひらの下から漏れ出て、痛々しかった。
どうして、大きな声で泣かないのだろう。あたし以外、誰もいないのに。海の音が、すべてを掻き消してくれるのに。もしかすると──大声で泣くことも、家では許されていなかったのだろうか。そうすれば、余計に酷く殴られるから。火に油を注がぬために、声を押し殺して泣くような術を身につけなくてはいけなかったのではないのか。
そう思うと、腹の底から熱い感情がこみ上げた。こちらが大声で泣いてやりたかった。店で泣いている子どもみたいに、周りの目も気にせず、自分のことだけを考えて、ただ感情を爆発させてやりたかった。
「いいよ」
目の奥が熱い。声は情けなく震えた。
「もっと、自分勝手になってよ」
ひとつ言葉を発すると、ひとつ涙がこぼれた。
「あたしの前で、変な遠慮しないで。もちろん嫌なことは言わなくていいけど、そうじゃないならなんでも教えて」
だって。
「ゆめが苦しんでるのは、見たくないよ」
言い切ると、もう抑えられなかった。とめどない熱が溢れて、頬を伝って。汚い嗚咽が咳と混じって。わんわんと大きな泣き声を、海が飲み込んでいく。
彼女はしばらくぽかんとしていたけど、つられたのだろうか。馬鹿みたいに、ふたりで大声で泣き明かした。
あたしたちは、毎日のように海に行った。彼女が泣き腫らした目で来る日が増えた。夏なのに、体育では長袖のジャージを着ていて。袖からは、包帯が覗いていた。他の友人に聞かれた彼女は「猫に引っ掻かれたの」と笑っていたけど、あたしはもどかしさに顔を顰めるだけ。
その日も、次の日も。海であたしたちは時間を過ごしていた。ちゃぷちゃぷと素足で水面を軽くつつき、ゆめは口を開いた。
「海ってさ」
「うん」
「思ってたより、綺麗じゃないよね」
「沖縄とかなら綺麗なのかもね」
「確かに。なーんか濁ってるんだよなあ」
取るに足らない雑談が、ありふれた会話が愛おしかった。
そしてあの日、彼女は言ったのだ。
「ねえ」
軽やかに立ち上がった彼女。あたしはただ、目を奪われていた。
「探そうよ、シーグラス」
そうして、あたしたちは真っ赤な宝物を見つけた。宝石と比べてしまえば頼りなくて、ちゃちでちっぽけな、ふたつとない宝物。毎晩あたしは寝る前に眺めては、ふふ、と気持ちの悪いにやけ顔を浮かべて幸せな眠りについていた。それと、少しでも。ゆめが辛い思いのまま眠りにつきませんようにと、祈りをして。
ある晩。いつもの日課をこなした後。ひとつの決意を胸に秘めて、あたしは両親のいるリビングへと足を踏み入れた。
またいつものように、海にいた。落ちていく夕陽をじっと眺めていた彼女は、「ねえ」と声を発したかと思うとこちらへ微笑みかけた。
「やりたいこと、まだ見つからなさそう?」
「…………ゆめは?」
「……もうとっくに見つかってるって、知ってるくせに」
曖昧に微笑む彼女に、考えるより先に口を開いていた。
「あたしも、見つかったよ」
水面で赤く乱反射する太陽に目を細めながら、あたしは手を引いた。
「あたしと出よう、こんなところ」
両親にはひどく叱られた。外に出る必要なんかない、ここで良い旦那を見つけてやるから。父はそう説得してきた。あたしは反論した。反抗したことがなかったせいか、母は泣いていた。それでもどちらも折れなくて。すう、と頭のどこかが冷めていく感覚がした。きっと、今は分かり合えない。血の繋がった家族でも、どうしても理解できない部分はある。あたしたちのそれは、きっとここなのだ。わかった、とだけ言って、部屋に戻って少しだけ泣いた。お前の幸せはここにあると断言した、父の言葉を何度も反芻しながら。
だけどもう、気にしない。あの人たちがあたしをここに縫い留めるまっとうな理由なんてないのだから。いつか分かり合えたら、とは思うけれど。そんな日が来ないこともどこかで理解はしている。それでももう、いいのだ。
「都会の大学にでも行ってさ、ふたりでアパート借りて暮らそうよ。大変かもしれないけど、奨学金とか借りてバイトもして」
そうだ。海とは無縁な都会に出てしまおう。大学では小説を学んで、勉強をしながら作品を作るのだ。彼女の真っ直ぐな美しさを題材にして。そうして時間が経った頃、またどこかの海をふたりで見に行こう。
そのときはきっと、薄暗い気持ちにもならずに、ただ純粋な気持ちでその青を見られるはずだから。こんなこともあったね、なんて昔話に花を咲かせながら、心の底から笑って波打ち際を歩けるはずだから。
将来性も計画性も無い、未熟なこどもの絵空事だと笑うなら笑えばいい。親にはこっ酷く叱られるかもしれない。
それでもいい。あたしは、真剣なんだ。
ふる、と。薄い唇が動く。長い睫毛が縁取る大きな瞳はゆっくり見開かれて、そこには信じられないと書いてあった。
「それ、って。私と、一緒に……居てくれるの」
「むしろこっちが聞きたいくらい。……あたしと、付き合ってくれませんか」
答えよりも先に、がばりと抱きしめられる。その勢いに体勢を崩しそうになって寸ででこらえた。潮の香りと混ざった彼女の匂いが鼻腔を擽った。
「うん」
濤声に搔き消され、波の綾に溶けてしまいそうなほど小さな。だけど明瞭に聞こえたそれは、涙に滲んでいた。
ずびずび鼻をすするその音と歪んでぐしゃぐしゃな泣き顔に笑いをこらえて、額を合わせる。
やっぱり、綺麗だ。泣き顔も、笑顔も、どんな顔だって。夕陽に照らされる彼女は、あらゆる言葉を使っても言い表せないほどに魅力的で。きっとどうやっても無粋で、野暮ったくなってしまうのだろうと思った。
だけどあたしは、どうしてもそれを表現してみたいのだ。
喉から漏れた汚い嗚咽は彼女のものであり、あたしのものでもあった。
冷たい波がまたひとつ押し寄せる。それとは対照的な頬を伝う熱い涙が、不思議と心地良かったのだ。
広大無辺の青の中、どちらともなくあたしたちは下手くそな口付けをした。そのときの微かな潮の味を、あたしはきっと一生忘れられないのだろうと。そう、思った。
「お父さんから離れたいの。私の本当にやりたいことは、それくらいだった」
──咲ちゃんに応援するって言われるまでは。
「欲が出てきちゃってダメだね。ずっとずっと一緒に居たいって思っちゃった」
なにがダメなの。かっとなって、思わず口を開く。
「ダメじゃないよ、そんなの。あたしだってそう思ってるんだし」
手を掬い取って、シーグラスを握らせる。
「これ、」
「お金も無いし、前に見つけたシーグラスくらいしか今はあげられないけど。……大人になったら、ちゃんとした指輪とかプレゼントするから」
今は、これくらいでちょうどいいだろう。あたしたちには、ぴったりだ。
瞳を潤ませて、感極まったように彼女が口を開く。その声は僅かにだが震えていた。
「だったら、私も贈りたい。ね、お揃いのやつ買おうよ」
「……じゃあ、赤い宝石にする? ほら、レアって感じだし」
「あははは! シーグラスと同じノリなの!? ……でも、うん。私たちらしいね」
彼女の華奢な指を、燃えるような赤が飾る。きっとよく映えるはずだ。可愛く爪も塗って、お洒落して。明るい未来を想像しただけで、頬が緩んだ。
「幸せだ、私」
「これからもっと、幸せになるよ」
「っもう、イケメンじゃん!」
勢いよく抱き着かれる。よろけた拍子に水が小さく跳ねて、その冷たさにまた二人で笑い声をあげた。
それからは、模試も順調だった。親は何も言わなくなった。諦められたのだろうか。だけど、それでいい。彼女は学校を休みがちになった。不安だったけれど、登校したときには抱き着いて楽しそうに話をするから、いつも通りの様子に安堵して日々を過ごしていた。
それは結局、大きな間違いだったのだけれど。
「皆さんに、悲しいお知らせがあります。……クラスメイトの中田さんが、亡くなりました」
あの子はもう、いない。どこまでも深く昏い青に溶けて、消えたのだ。
あの日。三年生になってしばらくが経った頃。彼女が、真っ赤に泣き腫らした目で登校したあの日までは。
おはよう。
変わらぬ様子で、彼女は言う。それが、あまりにもいつもと変わりないものだから。あたしは何も言えなかった。……放課後まで、何も。言及することすら、できなかった。
「課題多くない? ほんと死ぬんだけど」
いつも通りに笑う。影なんて、少しも見せないまま。
「海、行こ」
そう言ったのは、どちらが先だっただろうか。もしかしたら、一緒に言ったのかもしれない。
海辺の階段に座って、手を繋ぐ。偽りの関係とはいえ、今のあたしたちは恋人同士だから。……いいや、この行為自体は前の関係でもよくしていた。
変に意識するようになったのは、告白があったから。彼女が指を絡めてくるのには、特別な意図はあるのだろうか。いつもの延長線上なのか、あたしにはわからなかった。
肩に重みがかかる。頭を乗せてきたらしい。
「ねえ咲ちゃん、私かわいい?」
「うん、かわいい」
「本当に?」
「すっごくかわいい」
「感情こもってない!」
かわいいよ。
平生を装って、いつも通りに振る舞う彼女が痛々しかった。手に少しだけ強く力を込める。彼女が小さく息を吸った。
「大きい目とか。二重もぱっちりしてて、すごく羨ましい。髪質も好きだな。あたしより明るくて、綺麗」
この体勢でよかった。人知れず安堵する。顔を直視していたら、こんなに直球で褒めることなんてできていなかっただろうから。
「……綺麗?」
頷く。外見だけではない。彼女の美しさは、人間的な美は。こんなあたしを暖かく包み込むように接してくれた、その優しさとひたむきさにこそ表れている。
「あたしのために文字通り走り回ってくれるとこも。構ってほしがるとこも、全部好きだよ」
突然、肩にかかっていた重みが消えた。絡まっていた手がほどけた。あ、と思って。手を伸ばしそうになったのは、妙な口惜しさを覚えたのはなぜだろう。
不可解な自分の感情に困惑する間もなく——立ち上がったゆめが、茜色の逆光を浴びて前に立つ。
いつになく、切羽詰まった。ともすれば、今にも泣きだしてしまいそうな顔で。
「咲ちゃん。私──言いたいことがあるの」
どうしたの。
そんな口を、挟むことも出来ない。あたしにかまうことなく、ゆめは言葉を紡いでいく。考えるより先に、言葉が出てきているみたいだった。
「引いてくれてもいい。この関係を……ううん、友だちをやめてくれてもいい。ただ、知って欲しいの」
うろ、と二、三度辺りを見回した彼女の瞳が、私を真っ直ぐ見つめる。覚悟が決まったように、だけど、躊躇いがちに──彼女は口を開いた。
「私ね。毎日お父さんに殴られてるんだ」
息を、飲んだ。
「…………、え?」
殴られてるって、誰が。お父さんに、何をされてるって。一息で言い切れるはずの短い文章を、止まってしまった思考回路では理解しきれなくて。裏返った間抜けな一音が、口から洩れた。
「だから、遠くの学校を選んだの。だから、友だちがいなかった。……だから……」
誰とも繋がってない、なにも知らない咲ちゃんと友だちになりたかった。
「私、最低なんだよ。こんな打算的な考えで友だちになるなんて。咲ちゃんと釣り合わない、最悪な人間で……」
声は時折裏返って、不安定な感情が露わになっているようで。こんな姿、初めてだ。だってあたしの中の彼女はいつも笑顔で、明るくて、怒ったり泣き出すことなんてなくて。所詮それは、彼女の一面しか見ていなかったのだ。そう、事実を突きつけられたようだった。
呆然とするあたしに、彼女は、は、と我に返ったように息を飲んでから──今にも泣き出しそうな笑顔を作った。
「ごめんね。知るのだって、辛いはずなのに。聞くことも、いい気分にならないって、わかってたのに。だから言わなかったのに。知って欲しくなっちゃって、わたし、わたし……」
自分勝手だ。
語末はどんどん小さくなって、震えて。とうとうそれだけを呟いて、顔を覆った。ふ、う。と、か細い嗚咽が手のひらの下から漏れ出て、痛々しかった。
どうして、大きな声で泣かないのだろう。あたし以外、誰もいないのに。海の音が、すべてを掻き消してくれるのに。もしかすると──大声で泣くことも、家では許されていなかったのだろうか。そうすれば、余計に酷く殴られるから。火に油を注がぬために、声を押し殺して泣くような術を身につけなくてはいけなかったのではないのか。
そう思うと、腹の底から熱い感情がこみ上げた。こちらが大声で泣いてやりたかった。店で泣いている子どもみたいに、周りの目も気にせず、自分のことだけを考えて、ただ感情を爆発させてやりたかった。
「いいよ」
目の奥が熱い。声は情けなく震えた。
「もっと、自分勝手になってよ」
ひとつ言葉を発すると、ひとつ涙がこぼれた。
「あたしの前で、変な遠慮しないで。もちろん嫌なことは言わなくていいけど、そうじゃないならなんでも教えて」
だって。
「ゆめが苦しんでるのは、見たくないよ」
言い切ると、もう抑えられなかった。とめどない熱が溢れて、頬を伝って。汚い嗚咽が咳と混じって。わんわんと大きな泣き声を、海が飲み込んでいく。
彼女はしばらくぽかんとしていたけど、つられたのだろうか。馬鹿みたいに、ふたりで大声で泣き明かした。
あたしたちは、毎日のように海に行った。彼女が泣き腫らした目で来る日が増えた。夏なのに、体育では長袖のジャージを着ていて。袖からは、包帯が覗いていた。他の友人に聞かれた彼女は「猫に引っ掻かれたの」と笑っていたけど、あたしはもどかしさに顔を顰めるだけ。
その日も、次の日も。海であたしたちは時間を過ごしていた。ちゃぷちゃぷと素足で水面を軽くつつき、ゆめは口を開いた。
「海ってさ」
「うん」
「思ってたより、綺麗じゃないよね」
「沖縄とかなら綺麗なのかもね」
「確かに。なーんか濁ってるんだよなあ」
取るに足らない雑談が、ありふれた会話が愛おしかった。
そしてあの日、彼女は言ったのだ。
「ねえ」
軽やかに立ち上がった彼女。あたしはただ、目を奪われていた。
「探そうよ、シーグラス」
そうして、あたしたちは真っ赤な宝物を見つけた。宝石と比べてしまえば頼りなくて、ちゃちでちっぽけな、ふたつとない宝物。毎晩あたしは寝る前に眺めては、ふふ、と気持ちの悪いにやけ顔を浮かべて幸せな眠りについていた。それと、少しでも。ゆめが辛い思いのまま眠りにつきませんようにと、祈りをして。
ある晩。いつもの日課をこなした後。ひとつの決意を胸に秘めて、あたしは両親のいるリビングへと足を踏み入れた。
またいつものように、海にいた。落ちていく夕陽をじっと眺めていた彼女は、「ねえ」と声を発したかと思うとこちらへ微笑みかけた。
「やりたいこと、まだ見つからなさそう?」
「…………ゆめは?」
「……もうとっくに見つかってるって、知ってるくせに」
曖昧に微笑む彼女に、考えるより先に口を開いていた。
「あたしも、見つかったよ」
水面で赤く乱反射する太陽に目を細めながら、あたしは手を引いた。
「あたしと出よう、こんなところ」
両親にはひどく叱られた。外に出る必要なんかない、ここで良い旦那を見つけてやるから。父はそう説得してきた。あたしは反論した。反抗したことがなかったせいか、母は泣いていた。それでもどちらも折れなくて。すう、と頭のどこかが冷めていく感覚がした。きっと、今は分かり合えない。血の繋がった家族でも、どうしても理解できない部分はある。あたしたちのそれは、きっとここなのだ。わかった、とだけ言って、部屋に戻って少しだけ泣いた。お前の幸せはここにあると断言した、父の言葉を何度も反芻しながら。
だけどもう、気にしない。あの人たちがあたしをここに縫い留めるまっとうな理由なんてないのだから。いつか分かり合えたら、とは思うけれど。そんな日が来ないこともどこかで理解はしている。それでももう、いいのだ。
「都会の大学にでも行ってさ、ふたりでアパート借りて暮らそうよ。大変かもしれないけど、奨学金とか借りてバイトもして」
そうだ。海とは無縁な都会に出てしまおう。大学では小説を学んで、勉強をしながら作品を作るのだ。彼女の真っ直ぐな美しさを題材にして。そうして時間が経った頃、またどこかの海をふたりで見に行こう。
そのときはきっと、薄暗い気持ちにもならずに、ただ純粋な気持ちでその青を見られるはずだから。こんなこともあったね、なんて昔話に花を咲かせながら、心の底から笑って波打ち際を歩けるはずだから。
将来性も計画性も無い、未熟なこどもの絵空事だと笑うなら笑えばいい。親にはこっ酷く叱られるかもしれない。
それでもいい。あたしは、真剣なんだ。
ふる、と。薄い唇が動く。長い睫毛が縁取る大きな瞳はゆっくり見開かれて、そこには信じられないと書いてあった。
「それ、って。私と、一緒に……居てくれるの」
「むしろこっちが聞きたいくらい。……あたしと、付き合ってくれませんか」
答えよりも先に、がばりと抱きしめられる。その勢いに体勢を崩しそうになって寸ででこらえた。潮の香りと混ざった彼女の匂いが鼻腔を擽った。
「うん」
濤声に搔き消され、波の綾に溶けてしまいそうなほど小さな。だけど明瞭に聞こえたそれは、涙に滲んでいた。
ずびずび鼻をすするその音と歪んでぐしゃぐしゃな泣き顔に笑いをこらえて、額を合わせる。
やっぱり、綺麗だ。泣き顔も、笑顔も、どんな顔だって。夕陽に照らされる彼女は、あらゆる言葉を使っても言い表せないほどに魅力的で。きっとどうやっても無粋で、野暮ったくなってしまうのだろうと思った。
だけどあたしは、どうしてもそれを表現してみたいのだ。
喉から漏れた汚い嗚咽は彼女のものであり、あたしのものでもあった。
冷たい波がまたひとつ押し寄せる。それとは対照的な頬を伝う熱い涙が、不思議と心地良かったのだ。
広大無辺の青の中、どちらともなくあたしたちは下手くそな口付けをした。そのときの微かな潮の味を、あたしはきっと一生忘れられないのだろうと。そう、思った。
「お父さんから離れたいの。私の本当にやりたいことは、それくらいだった」
──咲ちゃんに応援するって言われるまでは。
「欲が出てきちゃってダメだね。ずっとずっと一緒に居たいって思っちゃった」
なにがダメなの。かっとなって、思わず口を開く。
「ダメじゃないよ、そんなの。あたしだってそう思ってるんだし」
手を掬い取って、シーグラスを握らせる。
「これ、」
「お金も無いし、前に見つけたシーグラスくらいしか今はあげられないけど。……大人になったら、ちゃんとした指輪とかプレゼントするから」
今は、これくらいでちょうどいいだろう。あたしたちには、ぴったりだ。
瞳を潤ませて、感極まったように彼女が口を開く。その声は僅かにだが震えていた。
「だったら、私も贈りたい。ね、お揃いのやつ買おうよ」
「……じゃあ、赤い宝石にする? ほら、レアって感じだし」
「あははは! シーグラスと同じノリなの!? ……でも、うん。私たちらしいね」
彼女の華奢な指を、燃えるような赤が飾る。きっとよく映えるはずだ。可愛く爪も塗って、お洒落して。明るい未来を想像しただけで、頬が緩んだ。
「幸せだ、私」
「これからもっと、幸せになるよ」
「っもう、イケメンじゃん!」
勢いよく抱き着かれる。よろけた拍子に水が小さく跳ねて、その冷たさにまた二人で笑い声をあげた。
それからは、模試も順調だった。親は何も言わなくなった。諦められたのだろうか。だけど、それでいい。彼女は学校を休みがちになった。不安だったけれど、登校したときには抱き着いて楽しそうに話をするから、いつも通りの様子に安堵して日々を過ごしていた。
それは結局、大きな間違いだったのだけれど。
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