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プロローグ
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あたしたちの楽園は海だった。
放られたローファーの横に、自分のそれを丁寧に揃えて。数歩歩んで灰色の砂浜へと足を踏み入れる。波が引いたばかりのそこは冷たく、柔らかな触感があたしを受け入れた。爪先を濡らす、控えめに押し寄せた波の温度に肌が粟立った。
「やっぱりまだ寒いね」
着くや否や邪魔だとばかりに靴下もろとも靴を脱ぎ捨て、一目散に沖へと駆け出していた彼女がそう言って笑う声がする。弾んだ声は唸るような潮騒に混じっていたものの、真っ直ぐ耳に届いてはっきり聞こえたのだ。顔を上げて見れば膝下までどぷりと水に浸かっていて、言葉のわりには随分深くへと進んだものだとつられて笑った。
微笑むあの子が歩み寄って無邪気にあたしの手を掬いとる。急かすように引かれ、海水に侵食されていく。
いっそこのままあたしたち、一緒に呑まれちゃったらいいのにね。青黒く濁ったそこへ身を委ねながら、彼女の後ろ姿に目を細めた。
海を一望できる階段。ひと通りはしゃいで疲れた後に隣り合って座るのは、いつからかふたりの中での決まりになっていた。肩に小さな重みがかかって、耳のそばで落ち着いた声がする。
「この風景も何回目かな」
燃える夕陽が海に溶けて、反射した光が筋を作っていた。ゆっくりと太陽が入水していくその様はまるで緩やかな自殺を見ている気分になる。六月の陽は落ちるのがまだ遅いといえど、時間を忘れて遊んでいたせいか、とうに夜の入口へ足を踏み入れかけていた。
「……あと、何回見るんだろう」
ぽつりと。静かに紡がれた言葉に浮かんだ諦念の色に、あたしは何も言えなかった。海鳴りと沈黙だけがあたしたちの間に満ちていく。自分の口下手さと臆病さが情けなかった。何を言ったところで事態を好転などできない。ともすれば悪化させるだろう。そう、思えてしまって。気まずさに唾を飲み込んだ。
海辺の田舎に暮らすあたしたちには大した娯楽も無かった。スマホだって持ってはいるけれど、それから入ってくる情報の洪水に都会への憧憬をいたずらに煽られた。退屈を煮詰めたこの土地で、真綿で首を締めるように青い春を殺している。ただ、この海だけがあたしたちが息をできる場所。それと同時に、息苦しさの裏付けをしていた。せめて果てまで続く水光が、本当に道になってくれればいいのに。そうすれば彼女の手を取って、きっとどこへでもいけるはずだ──なんて。地続きの逃げ道すら歩めないあたしに、そんな勇気無いのはわかってるのに。
「あ、」突然上がった、素っ頓狂な声。どうしたのと言う間もなく肩の重さが消えて、立ち上がった彼女のスカートが翻る。
「探そうよ、シーグラス」
悪戯っぽく笑って、あたしを見下ろすその子。あたしは多分、馬鹿みたいに呆けた顔で見上げていたのだろう。
「なにそれ」
「知らない? シーグラスはね、瓶とかのガラスが波に削られて角が取れたものなの。色によっては希少なのもあって、高く売れるんだって」
へえ。相槌を打って続きを促す。
「何色がレアなの?」
「え? ええと……赤だった、かな。でもレアじゃなくても綺麗だよ。おはじきとか宝石みたいでさ」
「そうなんだ。じゃあ、探そっか」
差し出された手と提案を否定することなく受け入れた。あたしも彼女も、家になんか帰りたくなかったから。立ち上がる。曖昧な海岸線を歩いて、歩いて、歩いて。あたしとは反対方向に進む彼女の後ろ姿を、何度も振り返って盗み見た。靡く栗色の髪。小さい背中。細い白磁の脚。見ているだけで胸が詰まるのは、手を伸ばしそうになるのは、やはり──
首をもたげた感情を振り払うように踵を返す。俯きながら、数歩足を進めた。シーグラスを探しているのだと取り繕うため。
目につくのは漂着したゴミと貝ばかり。ビーチサンダルの片っぽ、スナック菓子の袋、砂遊びの道具。引いていく波の感触を足裏で感じながら、ふと、気付く。夕陽に照らされて砂浜の中で何かが光っていた。指先で拾い上げてみれば、それは確かに赤色透明。陽の朱に溶け込んでしまいそうだ。
「ねえ」
振り返って遠い背中に呼びかける。声は届かない。なんだか、無性に不安になった。「ねえ」絡みつく砂を踏みしめて、彼女の後ろ姿にまた大きく声を張った。きょとんとした丸い瞳があたしを見つめる。
「これ、その……シーグラスってやつ?」
ぱちゃぱちゃと足音を立てて、近寄った彼女。摘むように持ったそれを見ると、目を輝かせた。
「わっ! すごい、多分そうだよ……それに赤色!?」
「多分って」
自分から探そうと言ったのにわからないの。呆れの滲む声で言えば、「私も本物は見たことないんだもん」と困ったような顔で彼女は笑った。掌の上の赤を彼女に手渡せば、興味津々に弄んでいる。子どもみたいだ。
「不思議だよね」
動向をじっと見つめていると、ふと彼女が言葉を漏らした。
「元々はゴミだったのに、こんなに綺麗になって価値がつくなんて」
手の上に置いて、傾けて。光の反射を楽しみながら、彼女は言う。
「長い年月がかかって、鋭い破片も磨かれて丸くなる……時間って、そんなにすごいんだね」
雨だれ石を穿つ。彼女の話を聞いて、それを思い出した。何も言わないあたしに構うことなく、言葉は折り重ねられていく。
「よく、時が解決するって言うしね。……本当に、時間がぜんぶ丸くして、綺麗にしてくれるなら」
どんな嫌なことも、忘れさせてくれるなら。……良い思い出にならなくても、辛くないものにさせてくれるなら。
含まれた真意に、黙って目を伏せた。
彼女は大切なことを見落としている。時間が経つだけではガラスだって丸くなれやしない。ゆっくりと風化し、その破片は凶暴なほどに鋭さを残すばかりか砕けて傷を増やすだろう。だから、そう。
──あたしは彼女にとっての波でありたい。
馬鹿げた、純粋な願望は言葉にせずに。心の奥底に沈めた。
「綺麗だよ。見て」
華奢な指が曇った赤色を太陽にかざす。僅かに光が透けて先ほどよりもずっと鮮やかだ。ちらりと視線だけで横顔を見た。彼女の輪郭を淡く縁取る茜。ガラス片を隔てた太陽が瞳の中で燃えている。きっとこれほどまでに美しいものはこの世に存在しないのだろう。
「……うん。綺麗だね」
呟く。
半袖から覗いた痣には、見ないふりをして。
放られたローファーの横に、自分のそれを丁寧に揃えて。数歩歩んで灰色の砂浜へと足を踏み入れる。波が引いたばかりのそこは冷たく、柔らかな触感があたしを受け入れた。爪先を濡らす、控えめに押し寄せた波の温度に肌が粟立った。
「やっぱりまだ寒いね」
着くや否や邪魔だとばかりに靴下もろとも靴を脱ぎ捨て、一目散に沖へと駆け出していた彼女がそう言って笑う声がする。弾んだ声は唸るような潮騒に混じっていたものの、真っ直ぐ耳に届いてはっきり聞こえたのだ。顔を上げて見れば膝下までどぷりと水に浸かっていて、言葉のわりには随分深くへと進んだものだとつられて笑った。
微笑むあの子が歩み寄って無邪気にあたしの手を掬いとる。急かすように引かれ、海水に侵食されていく。
いっそこのままあたしたち、一緒に呑まれちゃったらいいのにね。青黒く濁ったそこへ身を委ねながら、彼女の後ろ姿に目を細めた。
海を一望できる階段。ひと通りはしゃいで疲れた後に隣り合って座るのは、いつからかふたりの中での決まりになっていた。肩に小さな重みがかかって、耳のそばで落ち着いた声がする。
「この風景も何回目かな」
燃える夕陽が海に溶けて、反射した光が筋を作っていた。ゆっくりと太陽が入水していくその様はまるで緩やかな自殺を見ている気分になる。六月の陽は落ちるのがまだ遅いといえど、時間を忘れて遊んでいたせいか、とうに夜の入口へ足を踏み入れかけていた。
「……あと、何回見るんだろう」
ぽつりと。静かに紡がれた言葉に浮かんだ諦念の色に、あたしは何も言えなかった。海鳴りと沈黙だけがあたしたちの間に満ちていく。自分の口下手さと臆病さが情けなかった。何を言ったところで事態を好転などできない。ともすれば悪化させるだろう。そう、思えてしまって。気まずさに唾を飲み込んだ。
海辺の田舎に暮らすあたしたちには大した娯楽も無かった。スマホだって持ってはいるけれど、それから入ってくる情報の洪水に都会への憧憬をいたずらに煽られた。退屈を煮詰めたこの土地で、真綿で首を締めるように青い春を殺している。ただ、この海だけがあたしたちが息をできる場所。それと同時に、息苦しさの裏付けをしていた。せめて果てまで続く水光が、本当に道になってくれればいいのに。そうすれば彼女の手を取って、きっとどこへでもいけるはずだ──なんて。地続きの逃げ道すら歩めないあたしに、そんな勇気無いのはわかってるのに。
「あ、」突然上がった、素っ頓狂な声。どうしたのと言う間もなく肩の重さが消えて、立ち上がった彼女のスカートが翻る。
「探そうよ、シーグラス」
悪戯っぽく笑って、あたしを見下ろすその子。あたしは多分、馬鹿みたいに呆けた顔で見上げていたのだろう。
「なにそれ」
「知らない? シーグラスはね、瓶とかのガラスが波に削られて角が取れたものなの。色によっては希少なのもあって、高く売れるんだって」
へえ。相槌を打って続きを促す。
「何色がレアなの?」
「え? ええと……赤だった、かな。でもレアじゃなくても綺麗だよ。おはじきとか宝石みたいでさ」
「そうなんだ。じゃあ、探そっか」
差し出された手と提案を否定することなく受け入れた。あたしも彼女も、家になんか帰りたくなかったから。立ち上がる。曖昧な海岸線を歩いて、歩いて、歩いて。あたしとは反対方向に進む彼女の後ろ姿を、何度も振り返って盗み見た。靡く栗色の髪。小さい背中。細い白磁の脚。見ているだけで胸が詰まるのは、手を伸ばしそうになるのは、やはり──
首をもたげた感情を振り払うように踵を返す。俯きながら、数歩足を進めた。シーグラスを探しているのだと取り繕うため。
目につくのは漂着したゴミと貝ばかり。ビーチサンダルの片っぽ、スナック菓子の袋、砂遊びの道具。引いていく波の感触を足裏で感じながら、ふと、気付く。夕陽に照らされて砂浜の中で何かが光っていた。指先で拾い上げてみれば、それは確かに赤色透明。陽の朱に溶け込んでしまいそうだ。
「ねえ」
振り返って遠い背中に呼びかける。声は届かない。なんだか、無性に不安になった。「ねえ」絡みつく砂を踏みしめて、彼女の後ろ姿にまた大きく声を張った。きょとんとした丸い瞳があたしを見つめる。
「これ、その……シーグラスってやつ?」
ぱちゃぱちゃと足音を立てて、近寄った彼女。摘むように持ったそれを見ると、目を輝かせた。
「わっ! すごい、多分そうだよ……それに赤色!?」
「多分って」
自分から探そうと言ったのにわからないの。呆れの滲む声で言えば、「私も本物は見たことないんだもん」と困ったような顔で彼女は笑った。掌の上の赤を彼女に手渡せば、興味津々に弄んでいる。子どもみたいだ。
「不思議だよね」
動向をじっと見つめていると、ふと彼女が言葉を漏らした。
「元々はゴミだったのに、こんなに綺麗になって価値がつくなんて」
手の上に置いて、傾けて。光の反射を楽しみながら、彼女は言う。
「長い年月がかかって、鋭い破片も磨かれて丸くなる……時間って、そんなにすごいんだね」
雨だれ石を穿つ。彼女の話を聞いて、それを思い出した。何も言わないあたしに構うことなく、言葉は折り重ねられていく。
「よく、時が解決するって言うしね。……本当に、時間がぜんぶ丸くして、綺麗にしてくれるなら」
どんな嫌なことも、忘れさせてくれるなら。……良い思い出にならなくても、辛くないものにさせてくれるなら。
含まれた真意に、黙って目を伏せた。
彼女は大切なことを見落としている。時間が経つだけではガラスだって丸くなれやしない。ゆっくりと風化し、その破片は凶暴なほどに鋭さを残すばかりか砕けて傷を増やすだろう。だから、そう。
──あたしは彼女にとっての波でありたい。
馬鹿げた、純粋な願望は言葉にせずに。心の奥底に沈めた。
「綺麗だよ。見て」
華奢な指が曇った赤色を太陽にかざす。僅かに光が透けて先ほどよりもずっと鮮やかだ。ちらりと視線だけで横顔を見た。彼女の輪郭を淡く縁取る茜。ガラス片を隔てた太陽が瞳の中で燃えている。きっとこれほどまでに美しいものはこの世に存在しないのだろう。
「……うん。綺麗だね」
呟く。
半袖から覗いた痣には、見ないふりをして。
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