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書鈴 夏(ショベルカー)

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 その日は、四限からのオンライン授業を受けるために空き教室を探していました。

 授業で使われていない教室自体はまあたくさんあったんですけど、できれば人が少ないところが良くて。僕、人が多いと落ち着かないんですよ。なんかほら、お腹とか鳴ったら嫌じゃないですか。鳴ったとしても周りは僕のことなんて無視して気にしない素振りをするでしょうけど、こっちはもう気まずくて気まずくて。顔は熱くなるし授業には集中できなくなるしで散々ですよ。かと言ってそうならないようにそこで何か食べるのも、咀嚼音が聞こえてたらと思うと喉を通らなくなっちゃうんで。飲み物を飲むのもそうですね、意識すると喉が鳴ってしまうのでそれも。ええ、人の目を気にしすぎなところがあるのは充分すぎるほど自覚してます。

 ああ、それで僕は今年入学したばかりで。本当に不慣れな講義棟内を歩き回ってひとつひとつ確認していました。適当な人間なんで、講義棟の場所の確認はしても講義棟内の地図までは全く見てなかったんです。使用教室の表も学校から配られていたのにデータを保存するのを忘れてました。

 何個か教室を回って思いましたけど、やっぱりみんな考えることは同じなんですね。大抵の部屋はオンライン授業を受けてる人が十数人くらい入っちゃってるわけですよ。僕の個人的な条件としては、多くても五人。最高で誰もいない……っていうのなんですけど、いくらなんでも理想が高すぎたな、って後悔し始めた頃でした。ここに人がたくさんいてももう最後にしようと諦め半分、期待半分で人気の無い廊下にあった教室を覗き込んだら、生徒が一人しかいなくて。めちゃくちゃ喜びました。うわラッキーと思って嬉々としてそこに入っていったんですね。流行病も収まりかけで対面授業が増えてきたとはいえ、オンライン授業を選んで取る人も多いから探せば空いてるとこも見つかるもんだなって。電気を消してカーテンを閉め切っていたせいか、妙に薄暗さを感じたのを覚えています。それでも授業の支障は無いくらいでしたから、進んで電気を点けようとは思いませんでしたけど。先に部屋にいた人……男の人だったんですが、その人は前に座っていたので僕は距離を取って、後ろの扉に一番近いところに座りました。

 それで、普通の授業が始まる時間から数分は経っちゃってたかな。僕がそのとき取ってた授業の先生って結構ルーズな人で、酷いと十分ぐらい経ってから会議を立ち上げる感じなんですよ。知ってますかね? 心理の先生なんですけど。ああそっか、貴方は別の学部でしたっけ。じゃあ知らないかな。とにかく、だから時間が過ぎてるとはいえ自分も余裕を持ってパソコンを開いて。確認したら案の定授業は始まってなくて、そのまま待機していました。特に予習とかが必要な授業でも無かったのでほんの少しの間だけど暇だったんですね。
 突然、前の人が喋りだしたんです。

「はい、はい。ええ、はい」

 一瞬驚きました。でも、すぐに合点が行きました。ああ、発話型──喋るタイプの授業を受けてるんだな、って。パソコンの画面に向かって相槌を打ってましたから。前まではそういった授業を受けていい教室は限られてたけど、夏休みを挟んでから方針が変わってどこでも受けられるようになったのは知ってますよね。まあ、そりゃそうですよね。発話授業なんていっぱいあるのでそこに生徒が押し寄せて入り切らなくなって、結局密になっちゃいますし。本末転倒もいいところですよ。

 それで、さっきも言ったけど時間を持て余してたわけです。あまり趣味が良いとは言えないのはわかってるんですが、その人の話している内容にこっそり耳を傾けてました。何も音がしないイヤホンを耳に刺して、あくまでも自分は普通に授業を聞いてますよ、って感じを出しながら。
 授業が始まるまでの時間は確実に潰せるな、という確信がありました。というのも結構その人、長く話してたんですよ。軽い質問に答えるために指名されたとかじゃないくらいには。でもざらにあることですよね。オンラインでグループワークさせる授業もありますから。対面でやるより積極的に話せないような気がして正直どうかと思うんですけど──ああ、これは関係無いですね。すみません。

 まあ、黙って聞いていたわけですよ。

「はい、やっと入ってきてくれて。ええ、本当」

 話は結構弾んでるみたいでした。すごいな、と思いましたよ。いや、自分はコミュニケーションが得意じゃないので。今だって結構緊張してるくらいには。

 それに違和感を覚えるのには、あまり時間は必要ありませんでした。

「もう、こっちは駄目になっちゃったんで。はい。だからもうお願いします、ごめんなさい、本当に。ごめんなさい。駄目なんです。見ちゃったから」

 あれ、と思うでしょう。内容もそうですけど、声がだんだん切羽詰まって来ているんです。急いでいるみたいな、懇願するみたいな、とにかく追い込まれているような、そんな声で。なんだろう、なにか相手と揉めたのかな。厄介事でも起きたのかな──野次馬根性ですね、今思えば。もう自分の授業が始まるのを構えることなんてそっちのけで、一心に耳を傾けていました。

「ねーえ」

 妙に間延びした声が一度部屋に響いて、後は静かになりました。

 流石におかしいじゃないですか。ずっと喋ってたのに、いきなり黙り込んだんですよ。それで、それとなく、顔はそれほど上げないように気を配りながら、本当にゆっくり視線を上げたんです。

 目が合いました。

「ほらぁ、こっち見たじゃないですか」

 嬉しそうに言うんですよ。顔だけじゃなくて体ごと振り向いて、明らかにたまたま僕のいる方向を見てるわけじゃない。そこでようやく気付いたんですけど、その人はイヤホンなんて付けていませんでした。おかしいのはもうそうなんですけど、誰と話してるんだ、ってなるでしょ。だってパソコンからは何も音がしないのに。今まで一方的に喋ってる声しか聞こえてなかったんですから。
 ヤバい人に絡まれちゃったかな、とか思いながらその人のパソコンに視線を向けました。こっちを向いたことによって体の角度が変わったから、背中で隠れていた画面が見えてたんです。

 会議で向こうがカメラをオンにしていたら画面に相手が映りますよね。いや、映ってるんですよ。相手はちゃんといたんです。でもおかしいんですよ。相手の顔が、確かに顔であることはわかります。パーツが付いていることは判断できるんですけど、全体的に不鮮明で。笑ってるのはわかるのに、所々にノイズが入ったみたいというか、引き伸ばされたみたいというか、かと思えば潰れてるようなところもあって、変に歪なんです。色がついているのに、妙に淡いような。あれは女の子かな。多分女の子なんでしょうね。髪がおかっぱでなんだか古臭い感じというか……とにかくそう思いました。……回線の影響? そうですね、そうだったのかも。そんなふうに姿が歪んじゃうこともあるのかな。学内もWiFiが飛んでるとはいえ、多くの人が使う影響でたまに弱くなりますから。それでも、その映った顔に尋常でない悪寒がしたのも確かでした。

「見たでしょ、見ましたよね? 見えないとおかしいもん。見たんでしょ? ねえ。ずっと耳をそばだてて俺の行動全部全部全部監視してるのに、そんなのずるいだろ、なあ」

 僕に言っているのか相手に言っているのか、もうわかりませんでした。ずっとこっちを見て喋ってるんですよ。目を逸らさず、瞬きすらしない。ニコニコ笑いながら。

 流石にちょっともう無理だと思って、立ち上がろうとした時です。

「見た?」

 右の耳元で、男とも女ともつかない声がしました。イヤホンから直接聞こえたみたいに。

 空気が揺れました。窓が叩かれたんです。ばんばんばんばん、って何度も何度も、全部の窓が強く叩かれてて。割れるんじゃないかと思うくらい。明らかに人の力なんかじゃないですよ。

 息も上手く吸えなくて、足が震えて、心臓が飛び出るほどばくばく言って。パソコンとリュックを掴むと半ばパニックになりながらそのまま部屋を飛び出しました。視界の端で、その人が手の甲を合わせて頭の上に掲げているのが一瞬見えました。なんだか、まるで拝んでいるみたいに。
 確認はできませんでしたよ。絶対に振り向かないように必死だったんです。ずっと後ろになにかが居るのが伝わってきたから。授業時間ってことも気にしないで全力で構内を駆けました。気にしてる余裕なんてなかったんです。イヤホンだけは走っている途中でなんとか取って、振り乱しながら走りました。またなにか聞こえてきてしまいそうで。
 それからは、むしろ人がたくさんいる教室を選んで授業を受けるようになりましたね。人が居ないのが、怖くなってしまって。

 ああ、はい。ウチの大学の先輩から失踪者が出たのを知ったのは、その数週間後でした。

 ええ。その人が貴方のご友人なんですよね。行方不明のポスターで見た写真と同じ顔だったから確実だと思いますよ。人の顔を覚えるのは得意じゃないですけど、嫌というほど頭に残っちゃったので自信はあります。いえ、元々僕は知らない人でした。面識も何も。サークルにも入ってないし、コミュ障でただでさえ同学年でも友人が少ないのに、先輩と関わりがあるほど交友関係が広い方じゃないので。失踪のことも周りからはワンテンポ遅れて知ったぐらいです。

 このことは誰にも言ってないです。先生にも、もちろん警察にも。だって後から調べたらそんな教室無かったんですから。
 おかしなことを言う奴だと思いましたか。いえ、しょうがないですよ。僕だって自分の頭がおかしくなったのかなって感じですし。そうなると思ったし、悪ふざけだと取られるだろうから他の人にも言わなかったんです。どうやって貴方が僕のことを知ったかはわかりませんが、今日はどうしてもと仰るのでこういう形になりましたけど、本当は誰にも言わないつもりでした。……あ、責めてるわけじゃないですからね。


 いなくなっちゃったその人を探してるんですよね?
 あの、でももう無理だと思います。見つからないらしいけど、助からないんじゃないかな。貴方もなんとなく察してるでしょ?

 あの日から何日か経った後です。もう起きたことは忘れようと記憶の奥底に押し込めて、見ないように、思い出さないようにしていました。やっぱり時々はフラッシュバックしたけれど。
 それでパソコンを立ち上げて、僕達がオンライン授業で使ってるアプリを開いたんですよ。貴方も知ってると思いますけど、あれってユーザー間で話せるチャット機能があるでしょう。そこに、知らないチャットが追加されてたんです。「はい」、って人から何か送られてたんですよ。ええと、ほら、「拝む」の漢字の。「参拝」とか「拝見」とかのやつ。そう、それです。真っ黒なアイコンにカーソルを合わせてユーザーのメールアドレスとかの情報を見ようとしても表示されない。そりゃあおかしいとは思いましたよ。でも万が一、限りなく低い可能性でしょうが授業に関係することだったら面倒だと思って見ることにしたんです。不用心? そうですね、今思えば。本当に、馬鹿な行動だったと思います。送られて来ていたのは、ひとつの音声ファイルでした。さっきも言いましたけど、授業に関連するものであることを考えて再生しようとしました。だけどまあ、当たり前ですけど怖いでしょ。せめてもの抵抗として音量を小さくして再生してみたら、ずっと喋ってる声がするんですよ。

 見た?見た?見た?見た?見た?見た?見た?見た?見た?見た?見た?見た?見た?見た?見た?見た?って。同じ音声をずうっと何回も何回も何回も繰り返したみたいに、一呼吸も入れずに一定の調子で、酷く嗄れたようなノイズがかかった声が聞こえるんです。ずっと喋ってるんです。耳のそばで。音は下げてるのに。こびりつくみたいに。
 直後に画像が送られてきました。あの日、パソコンの画面に映ってた、女の子の。

 もう取り込まれてるんじゃないですか。だって今も見た?って言ってるでしょ。ずっと。この話の途中から。ねえ。見えてるでしょ。傍に居るのが。その先輩も、女の子も。思い描いちゃったんですよね? 頭の中でどんな姿か。駄目なんですよ。見たことになっちゃったんです。多分。ねえ。諦めた方がいいんでしょうね。見えてるから。外から足音も聞こえてたでしょ。引き摺るみたいな。足も潰れてるからそうするしかないんです。見たから。

 でもこの人、なにしたんですか? こんなに顔がぐしゃぐしゃになってもまだ苦しみ続けてるって。謝っても許されなかったんですね、結局。助かりませんよ、こうなっちゃってるんですから。ずっとこの子は怒ってて。見えるでしょ? 本当おかしいですよね。こんなことに巻き込んでおいて。貴方も災難でしたね。
 見なければよかったのに。
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