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第一章《10年前の記憶を探る》
#1
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本をめくる指先が、しっとりと汗で湿っている。
そんな暑苦しい季節、夏。
陽は長く、学生たちが帰路につきはじめた現在も、南に面したこの場所に照明は必要なさそうだ。
ここは大学の付属図書館。
シオリはカウンターの中の席に座り、本を読んでいた。開け放たれた窓からは、絶え間なく蝉の鳴き声が聞こえてくる。BGMにしてはいささかボリュームが大きい。しかし、そんな夏のBGMもなれれば風情を感じられるようになる。
時々、本の貸し出しを求めて学生が訪れる。その都度パソコンで処理して、シオリは返却期日を印字した貸し出しカードを本にはさみ、学生に手渡す。
長期休暇の直前は、本の貸し出し冊数の上限が増える。普段本を読まない人間が、長期間の休暇だからといって大量の本を読むのかと言われればそれは微妙ではある。
図書館にやって来る顔ぶれは毎日大体同じで、そうした学生は上限いっぱい借りていかない。自分の読書ペースを知っているのだ。もちろん上限いっぱい借りていく学生もいる。
読まれるのか甚だ疑問だ、と言わざるを得ない膨大なページ数の本を抱えた学生。普段は見ない顔だ。
休みの前には本の一冊くらい読む(読まなくては、という)気が起こるらしい。そして今日は夏休み前、最後の講義日だった。
夏休みに入っても、集中講義やなんかで学校に来る必要があるはずなのだが、そんなことは考えていない――忘れている様な呑気な笑い声が図書館に響いていた。
賑やかに友達同士で会話しながら本を借りていく。本を抱えて図書館を出ていくそれらの声が遠ざかり、聞こえなくなったと同時に、シオリはため息交じりに呟いた。
「図書館は私語厳禁でしょ……なんで大声で話すかな」
言葉にしてみて自分の狭量に気づき、ちょっと嫌気がさす。
シオリは「そんなこと思っちゃダメ」と頬を軽く二、三度軽く叩いた。普段本を読まない人が本を借りてくれたのだから、図書館の司書として――また一人の本好きとして喜ばしいことだ。
実際に自分の好きな本や、好きな作家の本が借りられた時には、なんだか自分が認められたような不思議な感覚を覚えた。どこか気恥ずかしく、それでいて誇らしい気分になることが出来た。
確かにうるさくされるのは困るが、楽しんでもらうことが出来るのであれば、ちょっとくらいはいいではないか。折角の穏やかで優しい読書時間を自ら壊してしまうのは実にもったいない。
再び自分一人になった図書館で、シオリは手元の本へと視線を落とした。
古びた文庫本。外国のファンタジー小説である。先日、古本屋で何気なく手に取り、そのまま衝動買いしてしまった。
その本は出版された年を考えても、なかなか保存状態が良かった。それなのに五十円。いい買い物をしたと思っていたのだが、スピンがないのだ。元々ないのではない。千切れていて、挟むだけの長さが残っていなかった。
とはいえ、読むことに支障はないので気にしていなかったのだが、先程の学生の貸し出し手続きをする際に、自然な流れでスピンがある前提で文庫本を閉じてしまった。
気づいた瞬間には、無情にも文庫本はしっかりと閉じられていた。
シオリは「ふぅ」と小さく笑い交じりに息を吐いた。
もう一度最初から読むのもいいか。そう思い直して、シオリは最初のページを開いた。
***
棚本フミハルは恋をした。
桜の花びらが散り、アスファルトの道路一面を桜色に染め上げる季節、春。
それは大学一年生の春――入学式の日の出来事。朝から退屈な大学関係者の答辞を聞き流していた。満開の桜の中での入学式などフミハル達には夢物語だった。
なぜなら、昨夜から降り続く雨のせいで桜の花はものの見事に散って、落ちた花びらは土色に薄汚れていた。
桜色の花びらで敷き詰められた、天然もののカーペットは全く美しくなかった。
式が終わった頃には雨脚は弱まっていた。
それでも折あしく降る雨は、フミハルの門出を挫くには十分だった。
散った花びらは、式からの帰路につく学生・保護者に踏まれてさらに土色に近づいてゆく。
きれいな桜色をしている花びらは、残すところ水たまりを桜色に染めている花びらだけだった。
退屈な式(フミハルにとっては)を終え、
「あたしは帰るけど、あんたはどうする?」
おそらく式の間爆睡していたフミハルの母親が訊ねる。
つけまつ毛がずれている。目脂もすごいことになっている。
なんだかそんな母親――存在と隣り合って歩くのが恥ずかしく思えた。フミハルは逡巡した(逡巡するふり)後、
「俺は、もう少し学校を見てから帰るよ」
そう言って踵を返して学内へと足を向けた。
母親は「あ、そう」と短く返すと、アスファルトに敷き詰められた桜の花びらの上を気怠そうに歩いて帰路についた。
母親を見送ったフミハルは、目的もなく校内をぶらついた。
オープンキャンパスで学内を見て回ったことはあったが、じっくりと見て回ることは出来なかった。
すぐに通う事にはなるが、自分がこれから四年間過ごす場所だ(何事もなければ)。
下見だと思って見て回るのもいいだろう。
大学という場所は思いの外広い。
オープンキャンパスで、すべての場所を巡ることは難しい。
「そういえば、こっちは見てないな……」
フミハルは、オープンキャンパスの時に見ることの出来なかった施設の見学に向かった。
鬱蒼と緑が茂っている。廃墟? 伸びた蔦が壁面に貼り付き、建物を覆っていた。
電気の明かりが、蔦に覆われたガラス窓から漏れている。きっと誰かいる。誰かいるのか? その外観はまさしく廃墟。とてもではないが現在も使用されている建物(施設)には見えない。
「すみません。遅れました」
フミハルはかけられた声に振り返った。
――きれいな人だ。
それが最初に抱いた感想だ。長い黒髪が雨に濡れて輪郭を縁取(ふちど)るように貼り付いている。少し鬱陶しそうに頭を振る。同時に水しぶきが、フミハルの顔にまで飛んだ。
いい匂いだ。どこか甘い匂い。そんな気がしただけなのかもしれない。
「鍵は私が預かっていたから待たせてしまいましたよね」
「え……はぁ……」
フミハルは曖昧に頷きを返す。
「今開けますから」
ダンボール箱を抱えたまま上着のポケットに手を伸ばす。
斜めになるダンボール箱。今にも落ちそうだ。
床に置けばいいのに、と思いながらもフミハルは一人孤軍奮闘する女性を見ていた。
一向に上着のポケットに手が届きそうにもないので、
「箱持ちますよ」
「いいですか? 助かります。ありがとうございます」
ダンボール箱を受け取る。ずっしりとした重みを感じる。一体何が入っているのだろう、そんなことを考えていると、
「お先にどうぞ」
ドアを開けた彼女が、ドアにストッパーを掛けながら言う。
ども、と頭を下げて建物の中へと入る。
助かりましたと微笑んで言う彼女は、フミハルの手からダンボールを受け取り「これ片づけてきます」と駆け足で奥の部屋へと姿を消す直前。盛大にこけた。ダンボールの中身が宙を舞った。
……沈黙の後――悲鳴。
「――きゃあああああッ!!」
金切り声をあげると、散らばったそれを拾い集める。散らばっているのは本だ。ダンボールの中にはぎっしりと本が詰まっていたのだ。
まあ、ダンボールの中身が本であることは、少し前から察しがついていた。具体的には、建物の中に入った瞬間に分かった。
建物の中には書架が並び、その中には当たり前だが本が並んでいた。
そう、ここは図書館だ。
本ありきの場所である。本がなければ図書館とは呼べない。CDやDVDもないことはないが圧倒的に本が多い。本の占める割合は、ざっと九割と言ったところだろうか。
図書の館(やかた)と書くくらいなのだから、書物が多いのは当たり前のことだ。
などと図書館について、どうでもいい考察を繰り広げている間にも、散らばった本を彼女は集める。
フミハルの足下にも一冊。その本を拾い上げる。本のタイトルは『純愛の讃歌』、恋愛小説のようだ。聞いたことのないタイトルだ。作者も聞かない名前である。
そもそもフミハルは、本を読む人間ではないので本も作者についても知らない。もしかしたらものすごく有名な本だという可能性もある。
装丁には黒髪の少女のイラストが描かれている。どこか目の前で本を拾い集める彼女に似ている。そう思うと、なんだか急にその本が気になりだして、パラパラとめくってみる。
活字に触れてこなかったフミハルにとって、そこは未知の世界だった。
膨大な文字数に目が回る。小説なのだから文字しかないのは分かりきっていたが、どこかに挿絵でもないかと探してしまった。ライトノベルじゃあるまいし、と自嘲気味に笑った。
「こっちにもありましたよ」
「あぁ、ありがとうございます」
『純愛の讃歌』以外の本を拾い終えた彼女がお礼を言う。
「こんなとところに図書館があるんですね」
「……え?」
「えっ?」
互いに顔を見合わせる。
二人は同調したかのように同時に首を傾げた。
彼女はフミハルに尋ねた。
「あれ? あなた職員じゃないの?」
「違いますけど……」
彼女はものすごい勢いで頭を下げた。フミハルを先輩司書だと思ったのだという。別に怒ったりはしないが、年上に見られたのか……そんなに老顔かな? ちょっと色々と自信をなくした。
「学生さん、一年生?」
「はい。今日入学式で」
「成程。それで受講日まだなのに学校来ていると……。私も同じ一年生。社会人一年目。ちなみに大学の卒業生」
そう言ってプレートバッジを胸元に付けて、
「私、紙本シオリ、よろしく。君は?」
「棚本フミハルです」
互いに自己紹介を終えると、妙な沈黙が訪れた。仕方ない。だって互いに相手の事を何も知らないのだから。
何か話題はないものかと考えを巡らせる。
「そういえば、さっきの本って面白いんですか?」
「さっきの本? ああ、『純愛の讃歌』? 私は面白いと思うけど……」
「どうしました?」
「ん、ううん。なんでもない。大丈夫」
どこか寂しそうなシオリは、無理に笑みを作っている様に映った。
バイバイと手を振って見送ってくれたシオリは、やはりどこか陰があった。
何か気に障る事を言ってしまったのだろうか。
そんな思いとともにフミハルは帰路についた。
家近くにある書店に立ち寄り、何気なく文芸書コーナーに足を向けていた。本当は、『純愛の讃歌』を探しに書店に立ち寄ったのだ。
タイトルだけはきちんと覚えていたが、作者の名前はおぼろげにしか思い出せない。
何と言ったか……本と言う字が入っていた気がする。なんとか本……ダメだ。ちっとも思い出せない。
諦めて棚を全部見るか。
ア行の作家から順に見ていく。
…………
……
…
あった『純愛の讃歌』。
長丁場を覚悟していたが、思いの外早く見つかった。
目的の本はカ行の作家の棚にあった。
樫本(かしもと)ミリオ。それが『純愛の讃歌』の作者だ。
少なくともテレビで取り上げられる様な有名作家ではないようだ。
著作が『純愛の讃歌』の一冊しかなかった。デビュー作以降、新作は書いていないようだ。
書店を出ると財布の中にいた、なけなしの野口さん二人が姿を消し、手元には雨避けのビニールに梱包された『純愛の讃歌』だけが残された。
そんな暑苦しい季節、夏。
陽は長く、学生たちが帰路につきはじめた現在も、南に面したこの場所に照明は必要なさそうだ。
ここは大学の付属図書館。
シオリはカウンターの中の席に座り、本を読んでいた。開け放たれた窓からは、絶え間なく蝉の鳴き声が聞こえてくる。BGMにしてはいささかボリュームが大きい。しかし、そんな夏のBGMもなれれば風情を感じられるようになる。
時々、本の貸し出しを求めて学生が訪れる。その都度パソコンで処理して、シオリは返却期日を印字した貸し出しカードを本にはさみ、学生に手渡す。
長期休暇の直前は、本の貸し出し冊数の上限が増える。普段本を読まない人間が、長期間の休暇だからといって大量の本を読むのかと言われればそれは微妙ではある。
図書館にやって来る顔ぶれは毎日大体同じで、そうした学生は上限いっぱい借りていかない。自分の読書ペースを知っているのだ。もちろん上限いっぱい借りていく学生もいる。
読まれるのか甚だ疑問だ、と言わざるを得ない膨大なページ数の本を抱えた学生。普段は見ない顔だ。
休みの前には本の一冊くらい読む(読まなくては、という)気が起こるらしい。そして今日は夏休み前、最後の講義日だった。
夏休みに入っても、集中講義やなんかで学校に来る必要があるはずなのだが、そんなことは考えていない――忘れている様な呑気な笑い声が図書館に響いていた。
賑やかに友達同士で会話しながら本を借りていく。本を抱えて図書館を出ていくそれらの声が遠ざかり、聞こえなくなったと同時に、シオリはため息交じりに呟いた。
「図書館は私語厳禁でしょ……なんで大声で話すかな」
言葉にしてみて自分の狭量に気づき、ちょっと嫌気がさす。
シオリは「そんなこと思っちゃダメ」と頬を軽く二、三度軽く叩いた。普段本を読まない人が本を借りてくれたのだから、図書館の司書として――また一人の本好きとして喜ばしいことだ。
実際に自分の好きな本や、好きな作家の本が借りられた時には、なんだか自分が認められたような不思議な感覚を覚えた。どこか気恥ずかしく、それでいて誇らしい気分になることが出来た。
確かにうるさくされるのは困るが、楽しんでもらうことが出来るのであれば、ちょっとくらいはいいではないか。折角の穏やかで優しい読書時間を自ら壊してしまうのは実にもったいない。
再び自分一人になった図書館で、シオリは手元の本へと視線を落とした。
古びた文庫本。外国のファンタジー小説である。先日、古本屋で何気なく手に取り、そのまま衝動買いしてしまった。
その本は出版された年を考えても、なかなか保存状態が良かった。それなのに五十円。いい買い物をしたと思っていたのだが、スピンがないのだ。元々ないのではない。千切れていて、挟むだけの長さが残っていなかった。
とはいえ、読むことに支障はないので気にしていなかったのだが、先程の学生の貸し出し手続きをする際に、自然な流れでスピンがある前提で文庫本を閉じてしまった。
気づいた瞬間には、無情にも文庫本はしっかりと閉じられていた。
シオリは「ふぅ」と小さく笑い交じりに息を吐いた。
もう一度最初から読むのもいいか。そう思い直して、シオリは最初のページを開いた。
***
棚本フミハルは恋をした。
桜の花びらが散り、アスファルトの道路一面を桜色に染め上げる季節、春。
それは大学一年生の春――入学式の日の出来事。朝から退屈な大学関係者の答辞を聞き流していた。満開の桜の中での入学式などフミハル達には夢物語だった。
なぜなら、昨夜から降り続く雨のせいで桜の花はものの見事に散って、落ちた花びらは土色に薄汚れていた。
桜色の花びらで敷き詰められた、天然もののカーペットは全く美しくなかった。
式が終わった頃には雨脚は弱まっていた。
それでも折あしく降る雨は、フミハルの門出を挫くには十分だった。
散った花びらは、式からの帰路につく学生・保護者に踏まれてさらに土色に近づいてゆく。
きれいな桜色をしている花びらは、残すところ水たまりを桜色に染めている花びらだけだった。
退屈な式(フミハルにとっては)を終え、
「あたしは帰るけど、あんたはどうする?」
おそらく式の間爆睡していたフミハルの母親が訊ねる。
つけまつ毛がずれている。目脂もすごいことになっている。
なんだかそんな母親――存在と隣り合って歩くのが恥ずかしく思えた。フミハルは逡巡した(逡巡するふり)後、
「俺は、もう少し学校を見てから帰るよ」
そう言って踵を返して学内へと足を向けた。
母親は「あ、そう」と短く返すと、アスファルトに敷き詰められた桜の花びらの上を気怠そうに歩いて帰路についた。
母親を見送ったフミハルは、目的もなく校内をぶらついた。
オープンキャンパスで学内を見て回ったことはあったが、じっくりと見て回ることは出来なかった。
すぐに通う事にはなるが、自分がこれから四年間過ごす場所だ(何事もなければ)。
下見だと思って見て回るのもいいだろう。
大学という場所は思いの外広い。
オープンキャンパスで、すべての場所を巡ることは難しい。
「そういえば、こっちは見てないな……」
フミハルは、オープンキャンパスの時に見ることの出来なかった施設の見学に向かった。
鬱蒼と緑が茂っている。廃墟? 伸びた蔦が壁面に貼り付き、建物を覆っていた。
電気の明かりが、蔦に覆われたガラス窓から漏れている。きっと誰かいる。誰かいるのか? その外観はまさしく廃墟。とてもではないが現在も使用されている建物(施設)には見えない。
「すみません。遅れました」
フミハルはかけられた声に振り返った。
――きれいな人だ。
それが最初に抱いた感想だ。長い黒髪が雨に濡れて輪郭を縁取(ふちど)るように貼り付いている。少し鬱陶しそうに頭を振る。同時に水しぶきが、フミハルの顔にまで飛んだ。
いい匂いだ。どこか甘い匂い。そんな気がしただけなのかもしれない。
「鍵は私が預かっていたから待たせてしまいましたよね」
「え……はぁ……」
フミハルは曖昧に頷きを返す。
「今開けますから」
ダンボール箱を抱えたまま上着のポケットに手を伸ばす。
斜めになるダンボール箱。今にも落ちそうだ。
床に置けばいいのに、と思いながらもフミハルは一人孤軍奮闘する女性を見ていた。
一向に上着のポケットに手が届きそうにもないので、
「箱持ちますよ」
「いいですか? 助かります。ありがとうございます」
ダンボール箱を受け取る。ずっしりとした重みを感じる。一体何が入っているのだろう、そんなことを考えていると、
「お先にどうぞ」
ドアを開けた彼女が、ドアにストッパーを掛けながら言う。
ども、と頭を下げて建物の中へと入る。
助かりましたと微笑んで言う彼女は、フミハルの手からダンボールを受け取り「これ片づけてきます」と駆け足で奥の部屋へと姿を消す直前。盛大にこけた。ダンボールの中身が宙を舞った。
……沈黙の後――悲鳴。
「――きゃあああああッ!!」
金切り声をあげると、散らばったそれを拾い集める。散らばっているのは本だ。ダンボールの中にはぎっしりと本が詰まっていたのだ。
まあ、ダンボールの中身が本であることは、少し前から察しがついていた。具体的には、建物の中に入った瞬間に分かった。
建物の中には書架が並び、その中には当たり前だが本が並んでいた。
そう、ここは図書館だ。
本ありきの場所である。本がなければ図書館とは呼べない。CDやDVDもないことはないが圧倒的に本が多い。本の占める割合は、ざっと九割と言ったところだろうか。
図書の館(やかた)と書くくらいなのだから、書物が多いのは当たり前のことだ。
などと図書館について、どうでもいい考察を繰り広げている間にも、散らばった本を彼女は集める。
フミハルの足下にも一冊。その本を拾い上げる。本のタイトルは『純愛の讃歌』、恋愛小説のようだ。聞いたことのないタイトルだ。作者も聞かない名前である。
そもそもフミハルは、本を読む人間ではないので本も作者についても知らない。もしかしたらものすごく有名な本だという可能性もある。
装丁には黒髪の少女のイラストが描かれている。どこか目の前で本を拾い集める彼女に似ている。そう思うと、なんだか急にその本が気になりだして、パラパラとめくってみる。
活字に触れてこなかったフミハルにとって、そこは未知の世界だった。
膨大な文字数に目が回る。小説なのだから文字しかないのは分かりきっていたが、どこかに挿絵でもないかと探してしまった。ライトノベルじゃあるまいし、と自嘲気味に笑った。
「こっちにもありましたよ」
「あぁ、ありがとうございます」
『純愛の讃歌』以外の本を拾い終えた彼女がお礼を言う。
「こんなとところに図書館があるんですね」
「……え?」
「えっ?」
互いに顔を見合わせる。
二人は同調したかのように同時に首を傾げた。
彼女はフミハルに尋ねた。
「あれ? あなた職員じゃないの?」
「違いますけど……」
彼女はものすごい勢いで頭を下げた。フミハルを先輩司書だと思ったのだという。別に怒ったりはしないが、年上に見られたのか……そんなに老顔かな? ちょっと色々と自信をなくした。
「学生さん、一年生?」
「はい。今日入学式で」
「成程。それで受講日まだなのに学校来ていると……。私も同じ一年生。社会人一年目。ちなみに大学の卒業生」
そう言ってプレートバッジを胸元に付けて、
「私、紙本シオリ、よろしく。君は?」
「棚本フミハルです」
互いに自己紹介を終えると、妙な沈黙が訪れた。仕方ない。だって互いに相手の事を何も知らないのだから。
何か話題はないものかと考えを巡らせる。
「そういえば、さっきの本って面白いんですか?」
「さっきの本? ああ、『純愛の讃歌』? 私は面白いと思うけど……」
「どうしました?」
「ん、ううん。なんでもない。大丈夫」
どこか寂しそうなシオリは、無理に笑みを作っている様に映った。
バイバイと手を振って見送ってくれたシオリは、やはりどこか陰があった。
何か気に障る事を言ってしまったのだろうか。
そんな思いとともにフミハルは帰路についた。
家近くにある書店に立ち寄り、何気なく文芸書コーナーに足を向けていた。本当は、『純愛の讃歌』を探しに書店に立ち寄ったのだ。
タイトルだけはきちんと覚えていたが、作者の名前はおぼろげにしか思い出せない。
何と言ったか……本と言う字が入っていた気がする。なんとか本……ダメだ。ちっとも思い出せない。
諦めて棚を全部見るか。
ア行の作家から順に見ていく。
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あった『純愛の讃歌』。
長丁場を覚悟していたが、思いの外早く見つかった。
目的の本はカ行の作家の棚にあった。
樫本(かしもと)ミリオ。それが『純愛の讃歌』の作者だ。
少なくともテレビで取り上げられる様な有名作家ではないようだ。
著作が『純愛の讃歌』の一冊しかなかった。デビュー作以降、新作は書いていないようだ。
書店を出ると財布の中にいた、なけなしの野口さん二人が姿を消し、手元には雨避けのビニールに梱包された『純愛の讃歌』だけが残された。
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