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第1話 異界からやってきた鬼神・紅蓮 ①
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平安王都・朱雀大路――、官衙(各省などの役所)が犇めく大内裏へ向かい、南北縦に貫くこの大路を、門から眺めるのは実に壮観である。
「へぇ、これが都ねぇ……」
彼は大胆にも、門の上にいた。都の入り口とされる羅生門の上に。
しかしそんな彼を咎める者は、誰一人としていない。
体長は六尺、白色の蓬髪という彼の姿は、人には視えない。ゆえに咎められずにいるのだが、都見物にしたわけではない。
風が吹き、腕に絡ませている領巾が靡く。
「とにかく、誰かを見つけんと……」
彼は白色の髪を掻き上げ、天を恨めしげに仰ぐ。
――何としても、もう一度あそこへ還るのだ。
そんな決意のもと、彼は羅城門から姿を消した。
◆
重陽節会(現在の菊の節句)から、二日後の長月(旧暦九月)十一日――。
ちょうど、秋茜(赤とんぼ)の姿を見かけるようになった頃である。
「聞いたか? 征之」
宜陽殿の左近衛陣にて、左近衛中将のひとり、源泰時が口を開いた。
刻限は未の刻――、妻戸越しに覗いたイロハモミジが、一層鮮やかに映えている。
同じ黒地の闕腋袍を纏うひとりの左近衛中将・藤原征之は、文机から視線を上げ、筆を止めた。
「なにが?」
「今度、梅壺に入る女房の話さ。かなりの美姫らしいぞ」
泰時はやや興奮気味に、そう言った。
梅壺は内裏北側にある七殿五舎(後宮)のひとつで、正式名は凝華舎という。その庭に梅の木があることから、梅壺とも呼ばれている。
これまでは女御の殿舎だったが、現在は中宮・藤原暲子の住まいとなっている。
その梅壺に、藤原東院家縁の姫が女房として入るという。
「お前……、その手の話には敏感だな」
泰時は何処から噂を拾ってくるのか、どこどこの姫は美人だとか、やたらと詳しい。
「お前が鈍感すぎるんだよ、征之」
「だが東院家は断絶したんじゃなかったか?」
そう、東院家は家を継ぐものがいなかったために断絶した、というのが定説である。
藤原家は大まかに四家に分類され、元は前の時代の藤原兼人を祖とする。
その四人の息子が興したのが藤原四家で、嫡男が北院家、次男が西院家、三男が南院家、そして四男が東院家を興し、嫡出子によって継承され、嫡流藤原家とも呼ばれる。
だが東院家だけは藤原成彬を最後に、その北の方(正妻)との間に子はなかったために、東院家が表舞台に出ることはなかった。
「その成彬さまの姫が権中納言・藤原是近さまの妾となられ、生まれたのがその姫だそうだ。五節の舞(大嘗祭や新嘗祭後に行われる宴での舞)で、中宮さまの女房として選ばれたらしいが、これはひょっしてひょっとするかも知れんぞ」
その姫が女房として梅壺に入れば顔を拝めるかも知れない――、という泰時に対し、征之は呆れるしかない。
「そういえば、例の怪異はどうなったんだ?」
征之の問いに、泰時の表情が硬くなる。
「ああ、あれか……。白い面が浮かぶという――」
この、ひと月前のことだ。
昨年前まで美濃守だった藤原忠永の邸に、女の白い面だけが恨めしそうに浮かぶという怪異が起きた。これが原因か定かではないが、彼の嫡子が翌朝、池で死んだまま浮いていたという。その後この白い面が他家でも現れ、死人こそでなかったものの、公卿や殿上人は挙って陰陽師や僧侶を邸に招いては祓えをしたらしい。
問題はその白い面が、内裏にまで現れたことである。
このせいで内裏女房が三人も精神を病み、さらに凝華舎では中宮・藤原璋子に仕えていた女房のうち、ひとりが内裏を下がらざるを得なくなった。
藤原東院家縁の姫が凝華舎に入るのはおそらく、この女房が内裏を辞しことにより、中宮の世話をする女房が少なくなったことによるものだろう。
泰時いわくその後、白い面は内裏にも貴族の邸にも出ていないらしい。
陣での慣れぬ書簡整理をしていた征之は、ようやくそれから開放されて、簀子縁で思いっきり腕を伸ばした。
本来、じっとしていることが苦手で、武官の道に進んだのも、内裏での権力争いなどに関わらずに済むと思ったからだ。
征之の父にして藤原南院家当主・藤原露親は、右大臣という地位にある。しかも北院家当主にして左大臣・頼房の異母弟でもあった。
つまり征之は、列記とした貴公子なのだがこの男、和歌や宴は苦手で、得意なのは弓の腕だけである。顔は精悍な面立ちをしているようだが、己の美醜にも無頓着ときた。
ゆえに、恋とも無縁である。
征之が朱雀門を出たのは、酉の刻であった。
俗にいう、逢魔が時である。
すでに出仕していた公卿や殿上人は帰宅したのか、主待ちをしている牛車と牛飼い童たちの姿はない。
征之の自宅、南院家がある四条の辻(四条大路と他の道が交わる角)まではさほど遠くはないものの、まさか徒歩というわけにもいかず、馬での帰りとなる。
「お待ち申し上げておりました。若さま」
南院家に仕える家僕(下男)・三郎が、栗毛馬を連れてやってきた。
しかし征之はこの「若さま」という呼ばれ方も苦手だ。
「三郎……その若さまという呼び方、やめないか? 背中が痒くなるんだよ……」
「そう申されましても、薫衣さまがお怒りになりますゆえ」
薫衣とは南院家に仕える女房で、征之の乳母である。
征之の亡き母・南院家直系の姫である葛葉の従姉という彼女は、真面目で強気な性格をしていた。
「俺も、彼女は苦手だな」
征之は馬上で冠から零れる前髪を掻き上げ、軽く嘆息した。
逢魔が時――、他界と現実を繋ぐ時間の境目であり、鬼や物の怪がうごめき始め、災いが起きるという。
白い面が引き起こした怪異がなんの解決もされぬまま数日が過ぎ、人々の記憶から消えようというこの日、征之は四条大路に入る手前で馬を止めた。
ひとりの男が、築地塀にて腕を組んで寄りかかっていた。
半裸なうえに、浅黒い肌に白い髪、背丈は六尺はあるだろうか。
背に大剣を背負い、腕に領巾を絡ませている
明らかに、この国の者ではない。
「誰だ? あれは……」
征之の呟きに、従っていた三郎が征之を見上げた。
「え? なにがです?」
「あそこにいる男だ」
征之の言葉に、三郎は首を傾げた。
「いえ……、いませんが?」
彼の返事に、征之は愕然とした。
三郎には、その男は視えていなかったのである。
となれば、征之に見えているのは人間以外の存在――、鬼か物の怪となる。
白髪の鬼も征之に気づき、同じように瞠目している。
金色の目が向けられ、にっと嗤うと、その鬼は溶けるように消えた。
そんなときだった。静寂を破る、女性の悲鳴が聞こえてきた。
「若さま、今の悲鳴は……」
悲鳴を頼りに駆けつけた邸の門前で、三郎が恐る恐る征之に聞いてきた。
「確かここは、中宮大夫・藤原実近どのの邸だったな……」
◆━━━━━━━━━━━━━━━━━◆
中宮大夫――、内裏後宮・七殿五舎の事務一切を担当する中宮職の長官で、この中宮大夫に就いていたのが藤原北院家の流れを汲む、藤原実近であった。
「大夫どの」
門を潜り入ってきた征之に、邸の簀子縁にいた藤原実近の顔は引き攣っていた。
「さ、左の中将どの、どうして……」
「叫び声が聞こえたゆえ、無礼と承知で罷り越した次第です」
これに、実近の側にいた女房が口を開いた。
「白い面が……」
「滅相なことをいうでないっ。そなたの見間違いであろう!?」
実近に叱責されるも、彼女は訴える。
「いいえ、殿様。私ははっきり見ましてございます。昨夜、この庭に白い面が浮かんでいたのを。若様はきっと……」
「その御子息はどちらに?」
征之の問いに、二人は視線を逸らした。
「そ、それは……」
実近の目が一瞬、対の屋に注がれる。
対の屋の妻戸は開かれ、御帳台が覗いている。実近と女房の表情から察するに、彼の子息の身に何かが起きたことは間違いないだろう。
隠せないと思ったのか、女房が話す。
「若さまは数日前から、女性と対の屋にお籠もりになられておりました……」
実近の子息は倫卓というそうなのだが、彼はその日から御帳台から出てこなくなったらしい。ただ、邸の者は女の顔はおろか、何処の誰か知らず、不自然に開いていた妻戸に女房が気づいたのは、つい半刻ほどまえのことだという。
御帳台の中に女はおらず、倫卓は目を見開いたまま絶命していたという。白い面はその直後に現れたらしい。
――なるほど……、そういうことか。
征之はその倫卓の父親である実近がなぜ、事実を隠したがるのかわかった気がした。
位は征之と同じ従四位下だが、実近は中宮大夫という要職に就いている。その息子が得体の知れぬ女を邸に入れ、挙げ句の果てには物の怪によって死んだとなれば、地位を失うかも知れぬと考えているのだと。
だが征之の頭の中には、路にいた白髪の鬼がいた。
あの鬼が白い面の怪異を招いているのなら、ことは厄介である。
とても近衛武官である征之に、太刀打ちできる相手ではない。
しかし征之が敢えてこの事件を口にしなくとも、翌日は内裏で噂になっていた。
病に臥せっていたのならともかく、中宮大夫の息子が突然亡くなった。内裏で薄れつつあった白い面の存在が、集う者たちの記憶のなかに蘇ったらしい。
◆
「――最近、中宮さまの身の回りでは不幸が続きますこと……」
金地に牡丹を描いた檜扇を広げ、その女人は冷たい視線を向けた。
「中宮大夫さまのお邸にも、白い面が現れたらしいとの噂でございます。女御さま」
白の表に裏は薄紫の菊重の唐衣裳装束の女房が、そう言ってその主を見上げる。
刻限は戌の刻――、内裏後宮・七殿五舎は闇に包まれていたが、月明かりが御簾を透して局まで入って来ている。
女房の主は蘇芳と青(黄緑系)の竜胆襲の小袿姿だが、堂々とした姿は、彼女こそが中宮ではないのかと錯覚させるほどである。
名を藤原笙子 ――、かつての摂関家・西院家の大姫にして弘徽殿の主である。
「左大臣さまは、戦々恐々でしょう。こうも、北院縁の人間にばかり怪異があっては」
確かに怪異は、藤原北院家に関係する人間に起きている。
「今度は左大臣さまが――」
「滅多なことをいうものではなくてよ? 少納言。仮にも、主上の叔父君よ。でも――、もしその怪異がまた梅壺に現れたら……、ふふ、西院家が再び力を手に入れられるかも知れないわね」
茂子がなにを言わんとしているか察して、女房・少納言の君は戦慄を覚えた。
権力争いは決して殿方たちの間で起きているものではなく、ここ、七殿五舎でも起きていることを――。
「へぇ、これが都ねぇ……」
彼は大胆にも、門の上にいた。都の入り口とされる羅生門の上に。
しかしそんな彼を咎める者は、誰一人としていない。
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風が吹き、腕に絡ませている領巾が靡く。
「とにかく、誰かを見つけんと……」
彼は白色の髪を掻き上げ、天を恨めしげに仰ぐ。
――何としても、もう一度あそこへ還るのだ。
そんな決意のもと、彼は羅城門から姿を消した。
◆
重陽節会(現在の菊の節句)から、二日後の長月(旧暦九月)十一日――。
ちょうど、秋茜(赤とんぼ)の姿を見かけるようになった頃である。
「聞いたか? 征之」
宜陽殿の左近衛陣にて、左近衛中将のひとり、源泰時が口を開いた。
刻限は未の刻――、妻戸越しに覗いたイロハモミジが、一層鮮やかに映えている。
同じ黒地の闕腋袍を纏うひとりの左近衛中将・藤原征之は、文机から視線を上げ、筆を止めた。
「なにが?」
「今度、梅壺に入る女房の話さ。かなりの美姫らしいぞ」
泰時はやや興奮気味に、そう言った。
梅壺は内裏北側にある七殿五舎(後宮)のひとつで、正式名は凝華舎という。その庭に梅の木があることから、梅壺とも呼ばれている。
これまでは女御の殿舎だったが、現在は中宮・藤原暲子の住まいとなっている。
その梅壺に、藤原東院家縁の姫が女房として入るという。
「お前……、その手の話には敏感だな」
泰時は何処から噂を拾ってくるのか、どこどこの姫は美人だとか、やたらと詳しい。
「お前が鈍感すぎるんだよ、征之」
「だが東院家は断絶したんじゃなかったか?」
そう、東院家は家を継ぐものがいなかったために断絶した、というのが定説である。
藤原家は大まかに四家に分類され、元は前の時代の藤原兼人を祖とする。
その四人の息子が興したのが藤原四家で、嫡男が北院家、次男が西院家、三男が南院家、そして四男が東院家を興し、嫡出子によって継承され、嫡流藤原家とも呼ばれる。
だが東院家だけは藤原成彬を最後に、その北の方(正妻)との間に子はなかったために、東院家が表舞台に出ることはなかった。
「その成彬さまの姫が権中納言・藤原是近さまの妾となられ、生まれたのがその姫だそうだ。五節の舞(大嘗祭や新嘗祭後に行われる宴での舞)で、中宮さまの女房として選ばれたらしいが、これはひょっしてひょっとするかも知れんぞ」
その姫が女房として梅壺に入れば顔を拝めるかも知れない――、という泰時に対し、征之は呆れるしかない。
「そういえば、例の怪異はどうなったんだ?」
征之の問いに、泰時の表情が硬くなる。
「ああ、あれか……。白い面が浮かぶという――」
この、ひと月前のことだ。
昨年前まで美濃守だった藤原忠永の邸に、女の白い面だけが恨めしそうに浮かぶという怪異が起きた。これが原因か定かではないが、彼の嫡子が翌朝、池で死んだまま浮いていたという。その後この白い面が他家でも現れ、死人こそでなかったものの、公卿や殿上人は挙って陰陽師や僧侶を邸に招いては祓えをしたらしい。
問題はその白い面が、内裏にまで現れたことである。
このせいで内裏女房が三人も精神を病み、さらに凝華舎では中宮・藤原璋子に仕えていた女房のうち、ひとりが内裏を下がらざるを得なくなった。
藤原東院家縁の姫が凝華舎に入るのはおそらく、この女房が内裏を辞しことにより、中宮の世話をする女房が少なくなったことによるものだろう。
泰時いわくその後、白い面は内裏にも貴族の邸にも出ていないらしい。
陣での慣れぬ書簡整理をしていた征之は、ようやくそれから開放されて、簀子縁で思いっきり腕を伸ばした。
本来、じっとしていることが苦手で、武官の道に進んだのも、内裏での権力争いなどに関わらずに済むと思ったからだ。
征之の父にして藤原南院家当主・藤原露親は、右大臣という地位にある。しかも北院家当主にして左大臣・頼房の異母弟でもあった。
つまり征之は、列記とした貴公子なのだがこの男、和歌や宴は苦手で、得意なのは弓の腕だけである。顔は精悍な面立ちをしているようだが、己の美醜にも無頓着ときた。
ゆえに、恋とも無縁である。
征之が朱雀門を出たのは、酉の刻であった。
俗にいう、逢魔が時である。
すでに出仕していた公卿や殿上人は帰宅したのか、主待ちをしている牛車と牛飼い童たちの姿はない。
征之の自宅、南院家がある四条の辻(四条大路と他の道が交わる角)まではさほど遠くはないものの、まさか徒歩というわけにもいかず、馬での帰りとなる。
「お待ち申し上げておりました。若さま」
南院家に仕える家僕(下男)・三郎が、栗毛馬を連れてやってきた。
しかし征之はこの「若さま」という呼ばれ方も苦手だ。
「三郎……その若さまという呼び方、やめないか? 背中が痒くなるんだよ……」
「そう申されましても、薫衣さまがお怒りになりますゆえ」
薫衣とは南院家に仕える女房で、征之の乳母である。
征之の亡き母・南院家直系の姫である葛葉の従姉という彼女は、真面目で強気な性格をしていた。
「俺も、彼女は苦手だな」
征之は馬上で冠から零れる前髪を掻き上げ、軽く嘆息した。
逢魔が時――、他界と現実を繋ぐ時間の境目であり、鬼や物の怪がうごめき始め、災いが起きるという。
白い面が引き起こした怪異がなんの解決もされぬまま数日が過ぎ、人々の記憶から消えようというこの日、征之は四条大路に入る手前で馬を止めた。
ひとりの男が、築地塀にて腕を組んで寄りかかっていた。
半裸なうえに、浅黒い肌に白い髪、背丈は六尺はあるだろうか。
背に大剣を背負い、腕に領巾を絡ませている
明らかに、この国の者ではない。
「誰だ? あれは……」
征之の呟きに、従っていた三郎が征之を見上げた。
「え? なにがです?」
「あそこにいる男だ」
征之の言葉に、三郎は首を傾げた。
「いえ……、いませんが?」
彼の返事に、征之は愕然とした。
三郎には、その男は視えていなかったのである。
となれば、征之に見えているのは人間以外の存在――、鬼か物の怪となる。
白髪の鬼も征之に気づき、同じように瞠目している。
金色の目が向けられ、にっと嗤うと、その鬼は溶けるように消えた。
そんなときだった。静寂を破る、女性の悲鳴が聞こえてきた。
「若さま、今の悲鳴は……」
悲鳴を頼りに駆けつけた邸の門前で、三郎が恐る恐る征之に聞いてきた。
「確かここは、中宮大夫・藤原実近どのの邸だったな……」
◆━━━━━━━━━━━━━━━━━◆
中宮大夫――、内裏後宮・七殿五舎の事務一切を担当する中宮職の長官で、この中宮大夫に就いていたのが藤原北院家の流れを汲む、藤原実近であった。
「大夫どの」
門を潜り入ってきた征之に、邸の簀子縁にいた藤原実近の顔は引き攣っていた。
「さ、左の中将どの、どうして……」
「叫び声が聞こえたゆえ、無礼と承知で罷り越した次第です」
これに、実近の側にいた女房が口を開いた。
「白い面が……」
「滅相なことをいうでないっ。そなたの見間違いであろう!?」
実近に叱責されるも、彼女は訴える。
「いいえ、殿様。私ははっきり見ましてございます。昨夜、この庭に白い面が浮かんでいたのを。若様はきっと……」
「その御子息はどちらに?」
征之の問いに、二人は視線を逸らした。
「そ、それは……」
実近の目が一瞬、対の屋に注がれる。
対の屋の妻戸は開かれ、御帳台が覗いている。実近と女房の表情から察するに、彼の子息の身に何かが起きたことは間違いないだろう。
隠せないと思ったのか、女房が話す。
「若さまは数日前から、女性と対の屋にお籠もりになられておりました……」
実近の子息は倫卓というそうなのだが、彼はその日から御帳台から出てこなくなったらしい。ただ、邸の者は女の顔はおろか、何処の誰か知らず、不自然に開いていた妻戸に女房が気づいたのは、つい半刻ほどまえのことだという。
御帳台の中に女はおらず、倫卓は目を見開いたまま絶命していたという。白い面はその直後に現れたらしい。
――なるほど……、そういうことか。
征之はその倫卓の父親である実近がなぜ、事実を隠したがるのかわかった気がした。
位は征之と同じ従四位下だが、実近は中宮大夫という要職に就いている。その息子が得体の知れぬ女を邸に入れ、挙げ句の果てには物の怪によって死んだとなれば、地位を失うかも知れぬと考えているのだと。
だが征之の頭の中には、路にいた白髪の鬼がいた。
あの鬼が白い面の怪異を招いているのなら、ことは厄介である。
とても近衛武官である征之に、太刀打ちできる相手ではない。
しかし征之が敢えてこの事件を口にしなくとも、翌日は内裏で噂になっていた。
病に臥せっていたのならともかく、中宮大夫の息子が突然亡くなった。内裏で薄れつつあった白い面の存在が、集う者たちの記憶のなかに蘇ったらしい。
◆
「――最近、中宮さまの身の回りでは不幸が続きますこと……」
金地に牡丹を描いた檜扇を広げ、その女人は冷たい視線を向けた。
「中宮大夫さまのお邸にも、白い面が現れたらしいとの噂でございます。女御さま」
白の表に裏は薄紫の菊重の唐衣裳装束の女房が、そう言ってその主を見上げる。
刻限は戌の刻――、内裏後宮・七殿五舎は闇に包まれていたが、月明かりが御簾を透して局まで入って来ている。
女房の主は蘇芳と青(黄緑系)の竜胆襲の小袿姿だが、堂々とした姿は、彼女こそが中宮ではないのかと錯覚させるほどである。
名を藤原笙子 ――、かつての摂関家・西院家の大姫にして弘徽殿の主である。
「左大臣さまは、戦々恐々でしょう。こうも、北院縁の人間にばかり怪異があっては」
確かに怪異は、藤原北院家に関係する人間に起きている。
「今度は左大臣さまが――」
「滅多なことをいうものではなくてよ? 少納言。仮にも、主上の叔父君よ。でも――、もしその怪異がまた梅壺に現れたら……、ふふ、西院家が再び力を手に入れられるかも知れないわね」
茂子がなにを言わんとしているか察して、女房・少納言の君は戦慄を覚えた。
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