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第十二話 人が鬼となるとき
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「あと、もう一押しだ」
眉間に皺を刻み、かの人物は思案に耽った。
「もう、十分なのでは……? お父さま」
父と呼ぶその人物の前で、娘は檜扇を開く。
「なにをいう。せっかくの好機を無駄にはできぬ。なに、脅してやるだけじゃ。かの者たちは甘い汁を吸って肥える一方。だが、天は我らに微笑んだではないか? あと一押し、そうあと一押し。お前は見て振りをしておればよい。これまでどおりに」
父親の言葉に、娘は何も言えなかった。
権力というものに取り憑かれ、罪に手を染め始めた父を止められない。その理由を、娘はわかっていた。自分も夢を見たのだ。ただ彼女としては、通ってくる男の心を繋ぎ止めておきたかっただけだ。それを父が暴走した。
――わたくしは、なにもしてはいないわ。
彼女は黙認することで、自身を正当化した。
これまでそうだった。お前のため――と言われて、彼女は見ない振りをしてきた。彼女に執拗に文を送ってきた男が地方に飛ばされた時も、先帝から拝領されたという壺をうっかり割ってしまったときも、彼女の父は「お前のため」とその罪を舎人になすりつけた。
だがはたして、自分は本当になにも悪くはないのか。
彼女の脳裏に、ある男の顔が浮かぶ。
その男は、口を開くことはなかったが、彼の目がなにもかも見透かされているようで不安になる。
「――申し上げます」
我に返った彼女は、ゆっくりと視線を運ぶ。女房の一人が簀子縁で平伏している。
「何か? 命婦(※中級の女官)」
「安倍晴明さまが、お越しになっております」
「陰陽師の……?」
なぜここに、陰陽師がくるのか。
手にする檜扇が、小刻みに震える。
いや、大丈夫。いつものように微笑んでいればいい。そういつものように。
彼女はそう己に言い聞かせ、顔を上げた。
◆
なにゆえ、わからぬ。
なにゆえ、届かぬ。
なんどもなんども、よんだのに。
だが、わかった。
わが声が聞こえないのは、おまえがあのモノたちと同じだからだ。
ゆえに、聞こえぬ。
ゆえに、わからぬ。
ちがうというなら、答えてみよ。
この心が奴らに喰われる前に。
文台に視線を落としていた晴明は、ふと視線を蔀に運んだ。
風を入れるために上げた蔀のそこからは、雲間から覗く青い昊が見えていた。
『どうかしたか?』
晴明が座る傍らで、雑鬼が大欠伸の末に耳の掃除を始めた。
「いま、あそこに何かいたような気がしたんだが……」
『そんなもの、いなかったぞ。可哀想に、もうその年で耄碌したか?』
雑鬼の言葉に晴明が結印し、小さな火玉が雑鬼を掠めた。
『あぶねぇなぁ。髪が焦げたじゃねぇか。邸の中で呪などぶっ放すもんじゃねぇぞ』
頭を摩る雑鬼を、晴明は睥睨する。
「次はその口に放ってやろうか?」
雑鬼は飛び上がりそそくさと梁に昇っていく。
晴明は最近、こうした気配を感じることがある。
黙って見つめられているというのは、どうもいい気分ではない。用があるなら出てくればいいものを、無言のまま消えるのは釈然としない。
お陰で依頼された霊符の一つが、書き損じて駄目になった。
黒々とした墨の文字がぐにゃり曲がっている。それはまるで、池で見た妖のように――。
こうなると、仕事どころではなくなる。
心を静めて書かねば霊符に意味はない。邪念のまま書こうものなら、その霊符は害となる。心に生じた鬱憤を持て余していると、簀子縁に軽快な足音が響いた。
だんだん近づいてくるそれは、いつもなら迷惑この上ないのだが――。
「――ちょうどいいところにきたな? 冬真」
廂の下に立った藤原冬真は呆気に取られた顔で、首を傾げた。
◆◆◆
さらさらと風が吹く。
葉月(※八月)となれば、容赦ない日輪に身を炙られることになるが、自然の摂理に人は逆らえぬ。それでも人は暑ければ暑いと言い、日照りが続けば雨が恋しいと嘆き、逆に多めが降れば河が溢れると畏れ、何かと文句が多い生き物ではあるが。
「――昭陽舎の床下から、形代が見つかったらしい」
冬真が切り出した話題に、晴明は口に運んだ土器から視線を冬真に運ぶ。
形代というのは料紙(※物を書くための用紙)を人の形に切り抜いたもので、陰陽師なら見慣れたものだ。おもに自身の代わりに手足となる〝式〟として使うが、呪いの道具ともなる。それが昭陽舎(梨壺)の床下から見つかったということは――。
「……やはりな」
「なんだ、知っていたのか? 晴明」
「まぁな」
内裏で乞巧祭会が行われる三日前、晴明は昭陽舎を訪ねた。
突然の陰陽師の来訪に、昭陽舎の主・梨壺の更衣は驚いていた。確かに普通は、よほどのことがない限り、陰陽師は後宮には入らない。
しかし晴明が昭陽舎を訪ねたのは自身の目的の他に、帝の依頼も受けてのことだ。
梨壺の更衣は、中宮に次ぐ今上帝ご寵愛の妃嬪である。更衣という身分は女御の下だが、それでも帝の寵を受けるということは、出世に繋がる。
だが幽鬼騒ぎが起きてから、梨壺の更衣の顔色が優れないという。帝はそれを気にしたのだ。
「――恐れながら、この殿舎に不穏な気が漂っております」
「え……」
梨壺の更衣から、顔の半分を覆っていた檜扇が落ちた。
「気の流れは心身を病みます。これは呪詛によるものかと」
「わたくしが、呪詛をされている……と?」
「ご安心を。すぐに呪は返します。もう二度と愚かなことを考えぬよう、少し荒っぽい呪詛返しとなりますが」
「そこまでする必要はございませんわ。このとおり、害はありませんませもの」
「それでは、かの者は消えてくれません」
「かの者……?」
「本物の幽鬼ですよ。梨壺の更衣さま」
梨壺の更衣は、びくっと躯を震わせた。その態度から、晴明はわかってしまった。
彼女の視線は、晴明が退室するまで絡むことはなかった。
だが晴明には、それでもよかった。陰陽師としての勤めを果たせばそれで――。
「――しかし、昭陽舎に呪詛を仕掛けたのは何者なんだろうな? 晴明」
晴明の酌を受けながら、冬真が胡乱に眉を寄せた。
晴明は、それは誰かとは口に出すことはなかった。陰陽師は災いを祓うだけで、ことを仕組んだ者を裁く権限はない。
恐らくそれは、晴明の前に現れた儚げな火霊も望んではいないだろう。
聞けばかの人物は、心優しき人物だったという。過ちを犯していたとしてもその者を責めず、過ちを犯すに至ったその理由を慮ったという。
生きていれば、将来は賢帝となっていたであう前・東宮――。
生母が怨霊として祟っていると知った皇子の御霊は、そうではないと、自分たちは呪詛ではなく病で死んだのだと、晴明に訴えに来た。
ゆえに、晴明はその依頼を受けた。
冬真と二人で昭陽舎に駆けつけた際、晴明が目撃した人影。あの人物はなぜあの場にいたのか。卜占ですぐに答えは出た。
昭陽舎に不穏な気が漂っているというと、梨壺の更衣は敏感に反応した。人は心にやましいことがあると、態度や仕草に現れる。
視線を彷徨わせ始めた更衣に、晴明は確信した。
呪詛返しをしたとなると、その顔は急に青ざめた。呪詛された側が、呪詛返しで青ざめる――この違和感に、呪詛の形代は本来ならば違う場所に置かれるべきものだったのではないかと。まさか、それが呪詛する側におかれた。
恐らく呪詛の依頼主は、間違えたのだ。
その去って行く姿を更衣は幽鬼と勘違いし、晴明に後ろ姿を見られた。
何ともお粗末な結果だが、画策した張本人は梨壺の更衣ではなかろう。呪詛返しをすれば、その呪いは呪った相手に返る。
藤壺の件で北家の名を貶めんとしたのだろうが、呪詛に手を出したことが墓穴を掘った。 かの人物はもう、先の東宮とその母まで穢すような真似はもうしないだろう。再び手を出せば、今度こそ王都にはいられなくなる。
帝はこの件に関しては、晴明が多く語らなかったため追求することなかった。帝としては、藤壺の女御も前・東宮も呪詛による死ではなかったことに安堵したようだ。
「これで、内裏が静かになるといいが……」
(それは無理だな……)
内裏もまた、悪鬼修羅の巣窟のような場だと晴明は思う。
権力に群がる者たちは、これからもあの手この手で策謀を巡らせるだろう。
以前、冬真が言った。
――俺は、人間のほうが怖い。
穢れをとことん嫌う貴族たちは直接人を害さないが、結果的に新たな憎悪を生む。
それら負の念が闇をつくり、妖が引き込まれるのだ。
人はいつなんどき、魔道に堕ちるかわからない。
かくいう晴明も、冥がりに半分足を入れてはいるが。
眉間に皺を刻み、かの人物は思案に耽った。
「もう、十分なのでは……? お父さま」
父と呼ぶその人物の前で、娘は檜扇を開く。
「なにをいう。せっかくの好機を無駄にはできぬ。なに、脅してやるだけじゃ。かの者たちは甘い汁を吸って肥える一方。だが、天は我らに微笑んだではないか? あと一押し、そうあと一押し。お前は見て振りをしておればよい。これまでどおりに」
父親の言葉に、娘は何も言えなかった。
権力というものに取り憑かれ、罪に手を染め始めた父を止められない。その理由を、娘はわかっていた。自分も夢を見たのだ。ただ彼女としては、通ってくる男の心を繋ぎ止めておきたかっただけだ。それを父が暴走した。
――わたくしは、なにもしてはいないわ。
彼女は黙認することで、自身を正当化した。
これまでそうだった。お前のため――と言われて、彼女は見ない振りをしてきた。彼女に執拗に文を送ってきた男が地方に飛ばされた時も、先帝から拝領されたという壺をうっかり割ってしまったときも、彼女の父は「お前のため」とその罪を舎人になすりつけた。
だがはたして、自分は本当になにも悪くはないのか。
彼女の脳裏に、ある男の顔が浮かぶ。
その男は、口を開くことはなかったが、彼の目がなにもかも見透かされているようで不安になる。
「――申し上げます」
我に返った彼女は、ゆっくりと視線を運ぶ。女房の一人が簀子縁で平伏している。
「何か? 命婦(※中級の女官)」
「安倍晴明さまが、お越しになっております」
「陰陽師の……?」
なぜここに、陰陽師がくるのか。
手にする檜扇が、小刻みに震える。
いや、大丈夫。いつものように微笑んでいればいい。そういつものように。
彼女はそう己に言い聞かせ、顔を上げた。
◆
なにゆえ、わからぬ。
なにゆえ、届かぬ。
なんどもなんども、よんだのに。
だが、わかった。
わが声が聞こえないのは、おまえがあのモノたちと同じだからだ。
ゆえに、聞こえぬ。
ゆえに、わからぬ。
ちがうというなら、答えてみよ。
この心が奴らに喰われる前に。
文台に視線を落としていた晴明は、ふと視線を蔀に運んだ。
風を入れるために上げた蔀のそこからは、雲間から覗く青い昊が見えていた。
『どうかしたか?』
晴明が座る傍らで、雑鬼が大欠伸の末に耳の掃除を始めた。
「いま、あそこに何かいたような気がしたんだが……」
『そんなもの、いなかったぞ。可哀想に、もうその年で耄碌したか?』
雑鬼の言葉に晴明が結印し、小さな火玉が雑鬼を掠めた。
『あぶねぇなぁ。髪が焦げたじゃねぇか。邸の中で呪などぶっ放すもんじゃねぇぞ』
頭を摩る雑鬼を、晴明は睥睨する。
「次はその口に放ってやろうか?」
雑鬼は飛び上がりそそくさと梁に昇っていく。
晴明は最近、こうした気配を感じることがある。
黙って見つめられているというのは、どうもいい気分ではない。用があるなら出てくればいいものを、無言のまま消えるのは釈然としない。
お陰で依頼された霊符の一つが、書き損じて駄目になった。
黒々とした墨の文字がぐにゃり曲がっている。それはまるで、池で見た妖のように――。
こうなると、仕事どころではなくなる。
心を静めて書かねば霊符に意味はない。邪念のまま書こうものなら、その霊符は害となる。心に生じた鬱憤を持て余していると、簀子縁に軽快な足音が響いた。
だんだん近づいてくるそれは、いつもなら迷惑この上ないのだが――。
「――ちょうどいいところにきたな? 冬真」
廂の下に立った藤原冬真は呆気に取られた顔で、首を傾げた。
◆◆◆
さらさらと風が吹く。
葉月(※八月)となれば、容赦ない日輪に身を炙られることになるが、自然の摂理に人は逆らえぬ。それでも人は暑ければ暑いと言い、日照りが続けば雨が恋しいと嘆き、逆に多めが降れば河が溢れると畏れ、何かと文句が多い生き物ではあるが。
「――昭陽舎の床下から、形代が見つかったらしい」
冬真が切り出した話題に、晴明は口に運んだ土器から視線を冬真に運ぶ。
形代というのは料紙(※物を書くための用紙)を人の形に切り抜いたもので、陰陽師なら見慣れたものだ。おもに自身の代わりに手足となる〝式〟として使うが、呪いの道具ともなる。それが昭陽舎(梨壺)の床下から見つかったということは――。
「……やはりな」
「なんだ、知っていたのか? 晴明」
「まぁな」
内裏で乞巧祭会が行われる三日前、晴明は昭陽舎を訪ねた。
突然の陰陽師の来訪に、昭陽舎の主・梨壺の更衣は驚いていた。確かに普通は、よほどのことがない限り、陰陽師は後宮には入らない。
しかし晴明が昭陽舎を訪ねたのは自身の目的の他に、帝の依頼も受けてのことだ。
梨壺の更衣は、中宮に次ぐ今上帝ご寵愛の妃嬪である。更衣という身分は女御の下だが、それでも帝の寵を受けるということは、出世に繋がる。
だが幽鬼騒ぎが起きてから、梨壺の更衣の顔色が優れないという。帝はそれを気にしたのだ。
「――恐れながら、この殿舎に不穏な気が漂っております」
「え……」
梨壺の更衣から、顔の半分を覆っていた檜扇が落ちた。
「気の流れは心身を病みます。これは呪詛によるものかと」
「わたくしが、呪詛をされている……と?」
「ご安心を。すぐに呪は返します。もう二度と愚かなことを考えぬよう、少し荒っぽい呪詛返しとなりますが」
「そこまでする必要はございませんわ。このとおり、害はありませんませもの」
「それでは、かの者は消えてくれません」
「かの者……?」
「本物の幽鬼ですよ。梨壺の更衣さま」
梨壺の更衣は、びくっと躯を震わせた。その態度から、晴明はわかってしまった。
彼女の視線は、晴明が退室するまで絡むことはなかった。
だが晴明には、それでもよかった。陰陽師としての勤めを果たせばそれで――。
「――しかし、昭陽舎に呪詛を仕掛けたのは何者なんだろうな? 晴明」
晴明の酌を受けながら、冬真が胡乱に眉を寄せた。
晴明は、それは誰かとは口に出すことはなかった。陰陽師は災いを祓うだけで、ことを仕組んだ者を裁く権限はない。
恐らくそれは、晴明の前に現れた儚げな火霊も望んではいないだろう。
聞けばかの人物は、心優しき人物だったという。過ちを犯していたとしてもその者を責めず、過ちを犯すに至ったその理由を慮ったという。
生きていれば、将来は賢帝となっていたであう前・東宮――。
生母が怨霊として祟っていると知った皇子の御霊は、そうではないと、自分たちは呪詛ではなく病で死んだのだと、晴明に訴えに来た。
ゆえに、晴明はその依頼を受けた。
冬真と二人で昭陽舎に駆けつけた際、晴明が目撃した人影。あの人物はなぜあの場にいたのか。卜占ですぐに答えは出た。
昭陽舎に不穏な気が漂っているというと、梨壺の更衣は敏感に反応した。人は心にやましいことがあると、態度や仕草に現れる。
視線を彷徨わせ始めた更衣に、晴明は確信した。
呪詛返しをしたとなると、その顔は急に青ざめた。呪詛された側が、呪詛返しで青ざめる――この違和感に、呪詛の形代は本来ならば違う場所に置かれるべきものだったのではないかと。まさか、それが呪詛する側におかれた。
恐らく呪詛の依頼主は、間違えたのだ。
その去って行く姿を更衣は幽鬼と勘違いし、晴明に後ろ姿を見られた。
何ともお粗末な結果だが、画策した張本人は梨壺の更衣ではなかろう。呪詛返しをすれば、その呪いは呪った相手に返る。
藤壺の件で北家の名を貶めんとしたのだろうが、呪詛に手を出したことが墓穴を掘った。 かの人物はもう、先の東宮とその母まで穢すような真似はもうしないだろう。再び手を出せば、今度こそ王都にはいられなくなる。
帝はこの件に関しては、晴明が多く語らなかったため追求することなかった。帝としては、藤壺の女御も前・東宮も呪詛による死ではなかったことに安堵したようだ。
「これで、内裏が静かになるといいが……」
(それは無理だな……)
内裏もまた、悪鬼修羅の巣窟のような場だと晴明は思う。
権力に群がる者たちは、これからもあの手この手で策謀を巡らせるだろう。
以前、冬真が言った。
――俺は、人間のほうが怖い。
穢れをとことん嫌う貴族たちは直接人を害さないが、結果的に新たな憎悪を生む。
それら負の念が闇をつくり、妖が引き込まれるのだ。
人はいつなんどき、魔道に堕ちるかわからない。
かくいう晴明も、冥がりに半分足を入れてはいるが。
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