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第八話 泥中の蓮
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いつの頃からか、人に視えないモノが視えた。
人には聞こえない声が聞こえるようになった。
彼らはにぃっと口の端を吊り上げて、彼を嗤う。
なにゆえ……。
一人の子供が言った。
「決まっているじゃないか。お前は妖だからさ」
「ああ、怖い怖い。人間の中に〝バケモノ〟がいるぞ」
一人二人と人の子が増えて、彼を――晴明を嗤う。
人の世は、半妖である彼には冷たい。彼らと同じ姿をしているのに、人と同じ物を食べているのに、妖の血を引いていると聞いた彼らは一斉に彼を責める。
ゆえに、逃げた。
冥がりの中に、逃げた。
このままここにいれば、妖を見ないですむ。人から罵られずにすむ。
そう、ここにいれば――。
そんな晴明の頭を、誰かの手が触れた。
そこには、狩衣姿の男が立っていた。首から上は闇に消えていたが、触れてきた手は温かく、躯の強張りまで溶けた。
『妖も人も、全てが悪者じゃない。お前はまだ、一部しか見えていないのだ』
「一部……?」
『いつかきっと理解るときがくる。周りは厳しくとも、蓮の如く生きるならばきっと……』
晴明は、蓮のたとえを聞いたことがあった。
蓮の花は、泥の中でも華を咲かす。
厳しい環境であっても影響されることなく、心清らかに生きていくという『泥中の蓮』のたとえ。
その人物は、もうそこにはいなかった。
そんな晴明の水干の袖を、誰かが引っ張った。
「ねぇ? 遊ぼう」
振り向くと狐面の子供が一人。
「こっちへ来なよ」
誘っているのは、明るい方でなく、暗い闇の中。
行かない。その冥がりには二度と。
逆方向に歩き出す晴明に、狐面の子供が呼び止める。
『安部童子、人間はお前を受け入れてはくれない』
「いいさ。言わせたい奴には言わせておく。人の世は厳しいが、悪いことばかりではないからな。それに、やらねばならぬことがある」
もうそこに、子供の晴明はいない。
本来の姿となった晴明は、狐面の子供を振り返った。
「さらばだ」
『諦めないよ、晴明。僕はいつでもここでお前を待っている』
まったくしつこい。
晴明は嗤う。
蓮のたとえのように心清くとはいかないが、人の世で頼もしい仲間ができた。
半妖であるこの身を、受け入れてくれた。
ゆえに、もう怖くはない。
さぁ、帰るんだ。彼らが待つ世界に。
◆
『晴明!』
ふっと我に返った晴明は、憤然とした十二天将・太陰の目とかち合った。
『ちょっと晴明! なにを、呆けているのよ!あなたも髑髏の仲間入りするつもり?』
相変わらずきゃんきゃんとよく吠える。
『嫌だぜ……、髑髏になっても力を貸せって来られても』
一緒にいたのは、十二天将・玄武である。
晴明は嘆息した。
どうも最近の十二天将は、主である晴明そっちのけでほいほいと異界から降りてくる。しかし今は、文句をいっている場合ではない。
「安心しろ。奴の躯の一部にはならん」
遠い日の記憶を呼び起こされて、晴明はやる気が湧いた。
久しぶりに見た冥がりは、やはりいいものではなかった。闇はあの手この手で晴明を招き、人を憎めと言ってくる。
完全に妖となり、人に報いよと。
だが、現在はもうあの頃の自分ではない。
ここには仲間がいる。
自分を必要としてくれる人間がいる。
人の世で生きていくと決めた彼は、陰陽師となった。
『オォォォォォ……』
大髑髏の咆哮が、鎌鼬となって晴明の衣と皮膚を裂いた。
「十二天将を三人も見られたのはいいが、事態は最悪だ。晴明」
賀茂保憲は額の汗を拭うと、当惑の表情を浮かべた。
「保憲どの、この妖気はあの大髑髏のものではないかと思います」
「ならばこの妖気はどこから漂ってくるのだ?」
大髑髏は、この世に執着するもの、この世から消えねばならなかった者、己が亡くなったことが今もわからずにいる者、様々な念が集まった塊。
嘆き悲しむ亡者たち、その念が知らずに昏がりを生んだのだろう。それに異界の闇が引き寄せられた。
彼らとて、妖となるのは本意ではなかろう。
ゆえに、問うてくるのだ。
――なにゆえに我らは、かような目に遭うのか。
なにゆえと答えを見つけられぬまま彷徨い、悪いモノを招いてしまった。いや、彼らにその認識があったかどうか。
だが少なくとも、人として生まれた最期は人として終わりたい筈――、晴明はそう思う。
持参した錫杖を握り、晴明は前を見た。
「大元を絶つ以外、我々はこのままこの大髑髏に追いかけられるでしょうね」
「お前がいうと、洒落にならんな……」
晴明は、籠目を結印する。
籠目は即ち封印――、進路と退路を断って、その中に封じ込める。
暴れる大髑髏を、顕現していた十二天将・太陰、玄武、騰蛇がその中に追い込むと、大髑髏は完全に動けなくなった。
晴明は、柏手を一つ打つ。
その乾いた音に、大髑髏を操る〝闇〟が反応した。
『止メロ! 彼ラワ、人ヲ憎ンデカヨウナ姿トナッタノダ』
晴明は構わず、祝詞を上げる。
「泰山府君に願い奉る――」
『小賢シイ!!』
「晴明っ!!」
再度の鎌鼬が、晴明に向かってくる。だが、晴明は声を張った。
彼らを、冥がりから解き放つために。
「泰山府君に願い奉る。哀れなり御霊、彼岸を渡らせ給う。願わくは浄土へ誘わん」
◆◆◆
その人は、いつも背を向けている。
庭の池を眺めながら、黙々と土器を傾けている。
子供の頃は、その人が何を考えているのか理解らなかった。
もともと寡黙なその人は、ただただ池の蓮を見つめていた。
いつの日か理解るときがくる。
冥がりに現れた男は誰だのか、晴明はようやくわかった。
――相変わらず理解りづらい人だ……。
ふらりと現れては多くは語らず帰って行くその人を脳裏に描き、晴明は笑う。
その人がなにゆえ、身分不相応な邸を王都に建てたのか。
池に浮かぶ蓮の花を、眺めるのが好きだった彼は自身が語らずとも、息子がその泥から抜け出して、まっすぐ生きていくと信じたのだろうか。
父・安部益材――、人も妖も悪者ばかりでないという彼の言葉は正しかった。
『オノレ……! ナニユエ……』
大髑髏を形作っていた闇が、さらさらと溶けていく。
取り込まれていた魂は、天に向かって昇っていく。
「終わったな……。晴明」
「ええ……」
無事に彼岸を渡れよと、晴明は彼らを見送った。
小倉山を後にするとき、晴明は背後に気配を感じて振り返った。
「どうした? 晴明」
「いえ……」
そこに、何かがいた。
晴明の勘がそう告げる。
だがそこには、岩が一つあるのみ。
やはり、真に対峙しなければならない相手は他にいる。
この王都の、どこかに――。
それから間もなく、王都に雨が降った。
そんな王都の片隅に、その華は咲いた。
側に転がる白い骸。
雨の中、見ていた〝それ〟は嘆く。
ああ、なにゆえに。
信じていたのに。
待っていたのに。
お前なら――、助けてくれると思ったのに。
なにゆえ、聞こえぬ。
なにゆえ、見えぬ。
早く。
早く。
もうすぐ、あいつに喰われてしまう。
我が声を、彼らの鬼哭を聞け。
人には聞こえない声が聞こえるようになった。
彼らはにぃっと口の端を吊り上げて、彼を嗤う。
なにゆえ……。
一人の子供が言った。
「決まっているじゃないか。お前は妖だからさ」
「ああ、怖い怖い。人間の中に〝バケモノ〟がいるぞ」
一人二人と人の子が増えて、彼を――晴明を嗤う。
人の世は、半妖である彼には冷たい。彼らと同じ姿をしているのに、人と同じ物を食べているのに、妖の血を引いていると聞いた彼らは一斉に彼を責める。
ゆえに、逃げた。
冥がりの中に、逃げた。
このままここにいれば、妖を見ないですむ。人から罵られずにすむ。
そう、ここにいれば――。
そんな晴明の頭を、誰かの手が触れた。
そこには、狩衣姿の男が立っていた。首から上は闇に消えていたが、触れてきた手は温かく、躯の強張りまで溶けた。
『妖も人も、全てが悪者じゃない。お前はまだ、一部しか見えていないのだ』
「一部……?」
『いつかきっと理解るときがくる。周りは厳しくとも、蓮の如く生きるならばきっと……』
晴明は、蓮のたとえを聞いたことがあった。
蓮の花は、泥の中でも華を咲かす。
厳しい環境であっても影響されることなく、心清らかに生きていくという『泥中の蓮』のたとえ。
その人物は、もうそこにはいなかった。
そんな晴明の水干の袖を、誰かが引っ張った。
「ねぇ? 遊ぼう」
振り向くと狐面の子供が一人。
「こっちへ来なよ」
誘っているのは、明るい方でなく、暗い闇の中。
行かない。その冥がりには二度と。
逆方向に歩き出す晴明に、狐面の子供が呼び止める。
『安部童子、人間はお前を受け入れてはくれない』
「いいさ。言わせたい奴には言わせておく。人の世は厳しいが、悪いことばかりではないからな。それに、やらねばならぬことがある」
もうそこに、子供の晴明はいない。
本来の姿となった晴明は、狐面の子供を振り返った。
「さらばだ」
『諦めないよ、晴明。僕はいつでもここでお前を待っている』
まったくしつこい。
晴明は嗤う。
蓮のたとえのように心清くとはいかないが、人の世で頼もしい仲間ができた。
半妖であるこの身を、受け入れてくれた。
ゆえに、もう怖くはない。
さぁ、帰るんだ。彼らが待つ世界に。
◆
『晴明!』
ふっと我に返った晴明は、憤然とした十二天将・太陰の目とかち合った。
『ちょっと晴明! なにを、呆けているのよ!あなたも髑髏の仲間入りするつもり?』
相変わらずきゃんきゃんとよく吠える。
『嫌だぜ……、髑髏になっても力を貸せって来られても』
一緒にいたのは、十二天将・玄武である。
晴明は嘆息した。
どうも最近の十二天将は、主である晴明そっちのけでほいほいと異界から降りてくる。しかし今は、文句をいっている場合ではない。
「安心しろ。奴の躯の一部にはならん」
遠い日の記憶を呼び起こされて、晴明はやる気が湧いた。
久しぶりに見た冥がりは、やはりいいものではなかった。闇はあの手この手で晴明を招き、人を憎めと言ってくる。
完全に妖となり、人に報いよと。
だが、現在はもうあの頃の自分ではない。
ここには仲間がいる。
自分を必要としてくれる人間がいる。
人の世で生きていくと決めた彼は、陰陽師となった。
『オォォォォォ……』
大髑髏の咆哮が、鎌鼬となって晴明の衣と皮膚を裂いた。
「十二天将を三人も見られたのはいいが、事態は最悪だ。晴明」
賀茂保憲は額の汗を拭うと、当惑の表情を浮かべた。
「保憲どの、この妖気はあの大髑髏のものではないかと思います」
「ならばこの妖気はどこから漂ってくるのだ?」
大髑髏は、この世に執着するもの、この世から消えねばならなかった者、己が亡くなったことが今もわからずにいる者、様々な念が集まった塊。
嘆き悲しむ亡者たち、その念が知らずに昏がりを生んだのだろう。それに異界の闇が引き寄せられた。
彼らとて、妖となるのは本意ではなかろう。
ゆえに、問うてくるのだ。
――なにゆえに我らは、かような目に遭うのか。
なにゆえと答えを見つけられぬまま彷徨い、悪いモノを招いてしまった。いや、彼らにその認識があったかどうか。
だが少なくとも、人として生まれた最期は人として終わりたい筈――、晴明はそう思う。
持参した錫杖を握り、晴明は前を見た。
「大元を絶つ以外、我々はこのままこの大髑髏に追いかけられるでしょうね」
「お前がいうと、洒落にならんな……」
晴明は、籠目を結印する。
籠目は即ち封印――、進路と退路を断って、その中に封じ込める。
暴れる大髑髏を、顕現していた十二天将・太陰、玄武、騰蛇がその中に追い込むと、大髑髏は完全に動けなくなった。
晴明は、柏手を一つ打つ。
その乾いた音に、大髑髏を操る〝闇〟が反応した。
『止メロ! 彼ラワ、人ヲ憎ンデカヨウナ姿トナッタノダ』
晴明は構わず、祝詞を上げる。
「泰山府君に願い奉る――」
『小賢シイ!!』
「晴明っ!!」
再度の鎌鼬が、晴明に向かってくる。だが、晴明は声を張った。
彼らを、冥がりから解き放つために。
「泰山府君に願い奉る。哀れなり御霊、彼岸を渡らせ給う。願わくは浄土へ誘わん」
◆◆◆
その人は、いつも背を向けている。
庭の池を眺めながら、黙々と土器を傾けている。
子供の頃は、その人が何を考えているのか理解らなかった。
もともと寡黙なその人は、ただただ池の蓮を見つめていた。
いつの日か理解るときがくる。
冥がりに現れた男は誰だのか、晴明はようやくわかった。
――相変わらず理解りづらい人だ……。
ふらりと現れては多くは語らず帰って行くその人を脳裏に描き、晴明は笑う。
その人がなにゆえ、身分不相応な邸を王都に建てたのか。
池に浮かぶ蓮の花を、眺めるのが好きだった彼は自身が語らずとも、息子がその泥から抜け出して、まっすぐ生きていくと信じたのだろうか。
父・安部益材――、人も妖も悪者ばかりでないという彼の言葉は正しかった。
『オノレ……! ナニユエ……』
大髑髏を形作っていた闇が、さらさらと溶けていく。
取り込まれていた魂は、天に向かって昇っていく。
「終わったな……。晴明」
「ええ……」
無事に彼岸を渡れよと、晴明は彼らを見送った。
小倉山を後にするとき、晴明は背後に気配を感じて振り返った。
「どうした? 晴明」
「いえ……」
そこに、何かがいた。
晴明の勘がそう告げる。
だがそこには、岩が一つあるのみ。
やはり、真に対峙しなければならない相手は他にいる。
この王都の、どこかに――。
それから間もなく、王都に雨が降った。
そんな王都の片隅に、その華は咲いた。
側に転がる白い骸。
雨の中、見ていた〝それ〟は嘆く。
ああ、なにゆえに。
信じていたのに。
待っていたのに。
お前なら――、助けてくれると思ったのに。
なにゆえ、聞こえぬ。
なにゆえ、見えぬ。
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早く。
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