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第一話 すまじきものは宮仕え
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かの帝はこう言ったという。
――世、平らにして人民、和やかになり。
隣国・皇都に習い、平安王都と称される都は、晴れ渡る蒼穹の真下で日輪の恩恵を受けていた。なにしろ十日も続く長雨に祟られ、ようやく顔を出した日輪に、喜ばぬ者がいようか。
竜神を鎮めろ――と言われたらどうしようかと思案していたかの青年は、大内裏正門に伸びる朱雀大路に歩を進めていた。
幸いにてそうならずにすんだものの、もし実行などしていれば、鎮めるよりはかえって怒らせる結果になるのだ。
陰陽師・安倍晴明――、当年二六歳。
希代の陰陽師と呼ばれる一方で、半妖の陰陽師とも呼ばれている。
(彼らはあの男のことを知らないのだ)
陰陽師は式神を操る。
その中でも東を守護する青龍は、これがなかなか手こずる。呼んでも聞こえているのかいないのか、返事はしないし、忘れた頃に現れて睨んで来る。
役に立ってくれる時もあるが、大概は言うことは聞かない。
ゆえに、よほどのことがない以上は、彼を呼びたくないのだ。
そんな彼の沓の上に蛙が乗り、晴明の勘が働いた。
「……退いてくれないか?」
蛙に話しかける彼を、訝しむ者は周りにはいない。王都の人間全てが、彼が何者かなど知っているわけでなく、突然独り言を言い始めた怪しいやつと捉えるだろう。
『話があるのだが?』
「やはり、化生か……」
軽く舌打ちをした晴明である。
この王都には、人以外のモノもやってくる。多くは物の怪、化生と呼ばれる変幻自在の妖から、幽鬼(※幽霊)、人間にいたずらを仕掛ける雑鬼や喰らう鬼まで、我が物顔で跋扈している。
蛙の化生は、水干を纏った姿に変化して二本足で立った。
『あいにく、礼をする金子は用意できぬが……』
「そんなものはいらん。私は忙しいのだ」
『お前なら、どんな依頼も聞いてくれると聞いたぞ? 安倍晴明』
いったい誰からそんなことを聞いたのか、蛙は退く気配はなく、といってこのまま蛙を足に貼り付かせたまま朱雀門を潜るわけにも行かない。
また妙な噂が、一つ増えるだけである。
晴明は長嘆し、口を開いた。
「それで?」
◆
――ああ、なにゆえ……。
ぽつりと浮いた青い火霊が、縄張りである池の畔で揺れて嘆いていた。その嘆きにを貸す者はなく、そこでは蛟が人を喰っていた。
恐らくその火霊は、喰われている者の魂魄なのだろう。
あまりもの惨烈に、蛙の化生は戦慄を覚えたという。
彼も妖の一種だが、人は喰わない。
妖の中にはその妖を喰うモノもいる。次は己かも知れぬ。
そして自分も嘆くのだ。
静かに暮らしていただけなのに、なにゆえと――。
「あまり――、いい話ではないな……」
話を聞いていた晴明は、瞑目した。
蛙の化生に寄れば、一月前までは蛟など見かけなかったらしい。縄張りに侵入され、人を食い始めた蛟を何とか退治してくれという依頼に、晴明は思い煩う。
そもそも、依頼してきたのは化生だ。
人間に依頼される事があっても、人以外もモノからされるのはなかった。
まだ朝方だとうのに、清々しい気分を台無しにされて、晴明は渋面で朱雀門を潜った。
陰陽寮に出仕してきた晴明の顔に、彼の師匠・賀茂忠行は怪訝な表情を浮かべる。
出会った頃は若かったその顔は今や深い皺が刻まれ、頭髪と顎髭はすっかり白く染まっている。この数十年、実父の益材より師といるほうが長い晴明は、忠行には欽慕の念を抱いている。冥がりに沈まずにいられるのは、忠行とのお陰かも知れない。
半妖であるがゆえに、人の世で生きづらくなっていた少年時代。人の目と言葉から逃げ、冥がりに逃げ込んだとき――、晴明は見た。
化生となったもう一人の自分を――。
冥がりに近い自分は、最期はどうなるのだろう。
人として今生を終えればいいが、人に祟るモノとなれば骨にもならない。砂のように散り、消滅するのみ。そうなれば、華も咲かない。
亡くなった時ここにいるのだと、導いてくれる死人花。またの名を〝弔い花〟という。
晴明に依頼してきた、蛙の化生も思ったという。
自分が死んだら、華は咲くのかと。ここに骨があるのだと報せてくれるのかと。
「えらく難しそうな顔じゃのぅ? 晴明」
苦笑する死に、晴明は自身の首の後ろを撫でた。
「門の前で蛙と立ち話をしまして……」
「蛙?」
目を瞬かせる忠行に、晴明も苦笑した。
妖が人を襲っているのなら、すぐに対処すべきだが、他にやることは山積している。
だが忠行から聞かされる話の内容も、これがまた難題であった。
◆◆◆
朱雀大路の一番北に位置する宮城・大内裏は様々な官衙と、帝が座す内裏、女人が多く暮らす殿舎などが集まる。
そんな大内裏は東の門・陽明門にて、近衛の将・藤原冬馬は欠伸をした。
(何も起きないのはけっこうなことだが、こうも暇だと……)
大内裏と帝を警護する近衛の将が欠伸とはと叱責されかねないが、それを咎める者は冬馬の側には今はいない。ゆえに遠慮なく口を開けたのだが、暇なのは確かだ。
「中将、都でまた死骸が転がっていたそうですよ」
そう冬馬に言ってきたのは、冬馬とともに陽明門を警護していた近衛少将である。
「いつから都は、風葬地になったんだ?」
肩を竦め、嘆息した冬真である。
人は亡くなればその遺骸は化野に置かれる。貴族や皇族は墓をもてるが、民の多くは地に置かれ、屍肉は鳥と獣によって処理されるのが普通だ。
「違いますよ。何者に襲われて喰われたらしいです」
「喰われた?」
冬馬は瞠目した。
少将の話によると、報せを受けた検非違使が駆けつけてみると、辻に転がっていたそれは惨憺たるものだったらしい。
おかげでその検非違使は、物忌み中だという。
「ゆえに検非違使庁は、人手がなくて困っているそうです」
「どおりで、衛府の人間が都警備に駆り出される筈だ……」
冬馬は半眼で、ため息をついた。
この王都では、死は穢れとされる。それは人々が人間としての情に欠けていたからではなく、それほどまでに、「穢れた」状態になることが恐れられていたからだ。
ゆえに人による直接の殺人は起きないが、喰われるというのはいただけない話だ。
野犬の仕業ならまだしも、これが妖の類いとなると――。
(あいつの出番か……)
視線を昊に運んだ冬馬は、一人の人物をその脳裏に描く。
星と時、暦を司り、吉凶を占う陰陽寮――、そこに属する希代の陰陽師・安倍晴明。
知己の間柄となってかれこれ数年たつが、性格はお世辞にもいいとはいえない。
「ここだけの話ですが、藤壺に幽鬼(※幽霊)が出たとか……」
ますます、いただけない話である。
藤壺は、正式名を飛香舎という。
七年前、飛香舎の主・藤壺の女御が帝の子を里にて出産、しかし当時に王都を襲った疫病にて亡くなり、男宮は彼女に内侍として仕えていた女房が乳母になったという。
「だがあそこは、主は不在のままだと聞いたぞ?」
無人の飛香舎となった理由は、藤壺の女御に続いてその皇子も七歳で亡くなり、死人を二人も出したためだ。
しかも幽鬼が彷徨き始めたとなると、ますますかの殿舎の主になろうという女人は現れないだろう。
(晴明も、大変だな……)
幽鬼を祓えと言われるでだろうと彼に、冬真は同情する。
もともと人付き合いが苦手らしい晴明は、今頃その眉間に皺を刻んでいることだろう。
冬馬はそんな姿を想像して、ふっと笑った。
◆◆◆
――今日は厄日か……?
蛙の化生に妙な依頼をされ、師には内裏に幽鬼が出たといわれ、今度はそれを祓えと関白に言われる。
いつもなら都に幽鬼が出ても「くだらぬ」と一笑に付す男の指示に、内裏に参内した晴明は嘆きたい気分である。
「――といわれましても……」
幽鬼とて、理由があって彷徨っているのだろう。人に祟る怨霊ならともかく、内裏に出た幽鬼はいまのところ害はないと師はいう。
「できぬと申すか? 安倍晴明」
関白・藤原頼房――、藤原一門を率いる朝廷の最高権力者。
深紫の地に、丁子唐草文様を浮き彫りにした袍を纏い、既に還暦を過ぎた男は今もその力を誇示し続けている。
今や大内裏は藤原の天下、深くは内裏の奥・弘徽殿に暮らす中宮(※帝の正妻)は彼の一姫。東宮の母にして国母である。次期帝の外祖父となった頼房と、対立しようなど貴族は恐らくはいないだろう。
顔を合わせれば嫌味を言われ、晴明としてはなるべくなら顔を合わせたくはない人物である。なのにだ。
睥睨してくる頼房に、晴明はやれやれと嘆じた。
言うは易く行うは難し――。
陰陽師は他にもいるのだ。わさわざ帝の御前に召してまで、言わなくてもいいだろうに。 晴明の心中など知らぬ頼房は、憤然した表情である。
「頼房、晴明の意見を聞いてはどうか?」
口を開いたのは、今上帝である。
「主上」
「幽鬼が誰なのか、それを確かめてからでもよいと思うが?」
さすがに帝に言われては反論できぬのか、頼房は口をつぐんだ。
結局、幽鬼が何者か占うようにとの帝からの指示となった。
どちらにしろ、引き受けることになった晴明は、清涼殿を辞した。
その庭で、蛙が跳ねた。
(しつこい奴だな……)
おそらくあの、化生だろう。
簀子縁に足を運びかけた晴明は、あるものを見つけ愕然とした。
青い一輪の華が、揺れていたからだ。
「……っ」
だがそれは、庭を駆け抜けた風に掻き消され、いつもの見慣れた景色に戻ったが。
疲労による幻が見えたのか、それとも何かの報せか、華の色だけがしっかりと脳裏に焼き付き、晴明は胡乱に眉を寄せた。
それから間もなく――、せっかく顔を出した日輪は再び雲に隠れ、王都に雨が降り始めた。長雨の時季ではあったが、心の中まで暗くされるようで、晴明は雨は好きではなかった。
その雨を、物言わぬソレが見上げていた。
白い骸となった人のなれの果て。それが、そぼ降る雨に打たれていた。
――ああ……、なにゆえに。
恐らく自身に何が起きたのかわかっていないのだろう。
あっという間だったのだから。
黒く窪んだその目は、もう光を宿さない。口は言葉を出せない。
肉を剥がされ骨となり、なにゆえと嘆く念だけが残る。
――また、人が喰われたぞ? 安倍晴明。
いつからなのか、雨が降ると華が咲く。
骸の横で、その華は揺れていた。まるで燐火の如く、青い死人花が。
蛙の化生は暫くそこにいて、それらを見ていた。
人間たちには聞こえないのだろうか。
なにゆえと、嘆くあの声が。
――世、平らにして人民、和やかになり。
隣国・皇都に習い、平安王都と称される都は、晴れ渡る蒼穹の真下で日輪の恩恵を受けていた。なにしろ十日も続く長雨に祟られ、ようやく顔を出した日輪に、喜ばぬ者がいようか。
竜神を鎮めろ――と言われたらどうしようかと思案していたかの青年は、大内裏正門に伸びる朱雀大路に歩を進めていた。
幸いにてそうならずにすんだものの、もし実行などしていれば、鎮めるよりはかえって怒らせる結果になるのだ。
陰陽師・安倍晴明――、当年二六歳。
希代の陰陽師と呼ばれる一方で、半妖の陰陽師とも呼ばれている。
(彼らはあの男のことを知らないのだ)
陰陽師は式神を操る。
その中でも東を守護する青龍は、これがなかなか手こずる。呼んでも聞こえているのかいないのか、返事はしないし、忘れた頃に現れて睨んで来る。
役に立ってくれる時もあるが、大概は言うことは聞かない。
ゆえに、よほどのことがない以上は、彼を呼びたくないのだ。
そんな彼の沓の上に蛙が乗り、晴明の勘が働いた。
「……退いてくれないか?」
蛙に話しかける彼を、訝しむ者は周りにはいない。王都の人間全てが、彼が何者かなど知っているわけでなく、突然独り言を言い始めた怪しいやつと捉えるだろう。
『話があるのだが?』
「やはり、化生か……」
軽く舌打ちをした晴明である。
この王都には、人以外のモノもやってくる。多くは物の怪、化生と呼ばれる変幻自在の妖から、幽鬼(※幽霊)、人間にいたずらを仕掛ける雑鬼や喰らう鬼まで、我が物顔で跋扈している。
蛙の化生は、水干を纏った姿に変化して二本足で立った。
『あいにく、礼をする金子は用意できぬが……』
「そんなものはいらん。私は忙しいのだ」
『お前なら、どんな依頼も聞いてくれると聞いたぞ? 安倍晴明』
いったい誰からそんなことを聞いたのか、蛙は退く気配はなく、といってこのまま蛙を足に貼り付かせたまま朱雀門を潜るわけにも行かない。
また妙な噂が、一つ増えるだけである。
晴明は長嘆し、口を開いた。
「それで?」
◆
――ああ、なにゆえ……。
ぽつりと浮いた青い火霊が、縄張りである池の畔で揺れて嘆いていた。その嘆きにを貸す者はなく、そこでは蛟が人を喰っていた。
恐らくその火霊は、喰われている者の魂魄なのだろう。
あまりもの惨烈に、蛙の化生は戦慄を覚えたという。
彼も妖の一種だが、人は喰わない。
妖の中にはその妖を喰うモノもいる。次は己かも知れぬ。
そして自分も嘆くのだ。
静かに暮らしていただけなのに、なにゆえと――。
「あまり――、いい話ではないな……」
話を聞いていた晴明は、瞑目した。
蛙の化生に寄れば、一月前までは蛟など見かけなかったらしい。縄張りに侵入され、人を食い始めた蛟を何とか退治してくれという依頼に、晴明は思い煩う。
そもそも、依頼してきたのは化生だ。
人間に依頼される事があっても、人以外もモノからされるのはなかった。
まだ朝方だとうのに、清々しい気分を台無しにされて、晴明は渋面で朱雀門を潜った。
陰陽寮に出仕してきた晴明の顔に、彼の師匠・賀茂忠行は怪訝な表情を浮かべる。
出会った頃は若かったその顔は今や深い皺が刻まれ、頭髪と顎髭はすっかり白く染まっている。この数十年、実父の益材より師といるほうが長い晴明は、忠行には欽慕の念を抱いている。冥がりに沈まずにいられるのは、忠行とのお陰かも知れない。
半妖であるがゆえに、人の世で生きづらくなっていた少年時代。人の目と言葉から逃げ、冥がりに逃げ込んだとき――、晴明は見た。
化生となったもう一人の自分を――。
冥がりに近い自分は、最期はどうなるのだろう。
人として今生を終えればいいが、人に祟るモノとなれば骨にもならない。砂のように散り、消滅するのみ。そうなれば、華も咲かない。
亡くなった時ここにいるのだと、導いてくれる死人花。またの名を〝弔い花〟という。
晴明に依頼してきた、蛙の化生も思ったという。
自分が死んだら、華は咲くのかと。ここに骨があるのだと報せてくれるのかと。
「えらく難しそうな顔じゃのぅ? 晴明」
苦笑する死に、晴明は自身の首の後ろを撫でた。
「門の前で蛙と立ち話をしまして……」
「蛙?」
目を瞬かせる忠行に、晴明も苦笑した。
妖が人を襲っているのなら、すぐに対処すべきだが、他にやることは山積している。
だが忠行から聞かされる話の内容も、これがまた難題であった。
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朱雀大路の一番北に位置する宮城・大内裏は様々な官衙と、帝が座す内裏、女人が多く暮らす殿舎などが集まる。
そんな大内裏は東の門・陽明門にて、近衛の将・藤原冬馬は欠伸をした。
(何も起きないのはけっこうなことだが、こうも暇だと……)
大内裏と帝を警護する近衛の将が欠伸とはと叱責されかねないが、それを咎める者は冬馬の側には今はいない。ゆえに遠慮なく口を開けたのだが、暇なのは確かだ。
「中将、都でまた死骸が転がっていたそうですよ」
そう冬馬に言ってきたのは、冬馬とともに陽明門を警護していた近衛少将である。
「いつから都は、風葬地になったんだ?」
肩を竦め、嘆息した冬真である。
人は亡くなればその遺骸は化野に置かれる。貴族や皇族は墓をもてるが、民の多くは地に置かれ、屍肉は鳥と獣によって処理されるのが普通だ。
「違いますよ。何者に襲われて喰われたらしいです」
「喰われた?」
冬馬は瞠目した。
少将の話によると、報せを受けた検非違使が駆けつけてみると、辻に転がっていたそれは惨憺たるものだったらしい。
おかげでその検非違使は、物忌み中だという。
「ゆえに検非違使庁は、人手がなくて困っているそうです」
「どおりで、衛府の人間が都警備に駆り出される筈だ……」
冬馬は半眼で、ため息をついた。
この王都では、死は穢れとされる。それは人々が人間としての情に欠けていたからではなく、それほどまでに、「穢れた」状態になることが恐れられていたからだ。
ゆえに人による直接の殺人は起きないが、喰われるというのはいただけない話だ。
野犬の仕業ならまだしも、これが妖の類いとなると――。
(あいつの出番か……)
視線を昊に運んだ冬馬は、一人の人物をその脳裏に描く。
星と時、暦を司り、吉凶を占う陰陽寮――、そこに属する希代の陰陽師・安倍晴明。
知己の間柄となってかれこれ数年たつが、性格はお世辞にもいいとはいえない。
「ここだけの話ですが、藤壺に幽鬼(※幽霊)が出たとか……」
ますます、いただけない話である。
藤壺は、正式名を飛香舎という。
七年前、飛香舎の主・藤壺の女御が帝の子を里にて出産、しかし当時に王都を襲った疫病にて亡くなり、男宮は彼女に内侍として仕えていた女房が乳母になったという。
「だがあそこは、主は不在のままだと聞いたぞ?」
無人の飛香舎となった理由は、藤壺の女御に続いてその皇子も七歳で亡くなり、死人を二人も出したためだ。
しかも幽鬼が彷徨き始めたとなると、ますますかの殿舎の主になろうという女人は現れないだろう。
(晴明も、大変だな……)
幽鬼を祓えと言われるでだろうと彼に、冬真は同情する。
もともと人付き合いが苦手らしい晴明は、今頃その眉間に皺を刻んでいることだろう。
冬馬はそんな姿を想像して、ふっと笑った。
◆◆◆
――今日は厄日か……?
蛙の化生に妙な依頼をされ、師には内裏に幽鬼が出たといわれ、今度はそれを祓えと関白に言われる。
いつもなら都に幽鬼が出ても「くだらぬ」と一笑に付す男の指示に、内裏に参内した晴明は嘆きたい気分である。
「――といわれましても……」
幽鬼とて、理由があって彷徨っているのだろう。人に祟る怨霊ならともかく、内裏に出た幽鬼はいまのところ害はないと師はいう。
「できぬと申すか? 安倍晴明」
関白・藤原頼房――、藤原一門を率いる朝廷の最高権力者。
深紫の地に、丁子唐草文様を浮き彫りにした袍を纏い、既に還暦を過ぎた男は今もその力を誇示し続けている。
今や大内裏は藤原の天下、深くは内裏の奥・弘徽殿に暮らす中宮(※帝の正妻)は彼の一姫。東宮の母にして国母である。次期帝の外祖父となった頼房と、対立しようなど貴族は恐らくはいないだろう。
顔を合わせれば嫌味を言われ、晴明としてはなるべくなら顔を合わせたくはない人物である。なのにだ。
睥睨してくる頼房に、晴明はやれやれと嘆じた。
言うは易く行うは難し――。
陰陽師は他にもいるのだ。わさわざ帝の御前に召してまで、言わなくてもいいだろうに。 晴明の心中など知らぬ頼房は、憤然した表情である。
「頼房、晴明の意見を聞いてはどうか?」
口を開いたのは、今上帝である。
「主上」
「幽鬼が誰なのか、それを確かめてからでもよいと思うが?」
さすがに帝に言われては反論できぬのか、頼房は口をつぐんだ。
結局、幽鬼が何者か占うようにとの帝からの指示となった。
どちらにしろ、引き受けることになった晴明は、清涼殿を辞した。
その庭で、蛙が跳ねた。
(しつこい奴だな……)
おそらくあの、化生だろう。
簀子縁に足を運びかけた晴明は、あるものを見つけ愕然とした。
青い一輪の華が、揺れていたからだ。
「……っ」
だがそれは、庭を駆け抜けた風に掻き消され、いつもの見慣れた景色に戻ったが。
疲労による幻が見えたのか、それとも何かの報せか、華の色だけがしっかりと脳裏に焼き付き、晴明は胡乱に眉を寄せた。
それから間もなく――、せっかく顔を出した日輪は再び雲に隠れ、王都に雨が降り始めた。長雨の時季ではあったが、心の中まで暗くされるようで、晴明は雨は好きではなかった。
その雨を、物言わぬソレが見上げていた。
白い骸となった人のなれの果て。それが、そぼ降る雨に打たれていた。
――ああ……、なにゆえに。
恐らく自身に何が起きたのかわかっていないのだろう。
あっという間だったのだから。
黒く窪んだその目は、もう光を宿さない。口は言葉を出せない。
肉を剥がされ骨となり、なにゆえと嘆く念だけが残る。
――また、人が喰われたぞ? 安倍晴明。
いつからなのか、雨が降ると華が咲く。
骸の横で、その華は揺れていた。まるで燐火の如く、青い死人花が。
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