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第五章 打倒!今川義元
六、決戦のとき、来たる!
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永禄三年五月十七日――。
三河・知立(※現在の愛知県知立市)に入った今川義元率いる今川軍本隊は、鎌倉街道にて沓掛(※現在の愛知県豊明市沓掛)の地へ進路を定めた。さらに沓掛から阿野(※現在の愛知県常滑市阿野町)、そこから西へ向かい桶狭間を経て大高へと進軍、本隊が大高城に着いたとき、松平元康(※のちの徳川家康)が義元を出迎えた。
「お待ちしておりました」
甲冑に身を包んだ元康は、片膝をつくと頭を下げた。
そんな元康を、義元は塗り輿から見下ろして扇子を開いた。
「ここに来る途中、織田が築いた砦を見たが、陥せそうか? 元康」
「砦に信長公は布陣しておらぬ様子。叩くなら今かと」
「尾張の小倅を誘い出すのだな? よかろう、やってみよ」
「はっ」
「しかし、暑いのう……」
義元は空を見上げ、纏っている鎧直垂の前を寛げては扇子で扇ぐ。
確かに義元は塗り輿に乗っているため、軍の中では高い位置にある。陽に晒されようというものだ。
義元は当然、この戦いは勝つつもりである。
ようやくここまで侵攻したというのに、西三河では織田に傾く者が増え、奪った城も奪い返された。ここで大高と鳴海城まで奪い返されれば、今川家当主としての義元の自尊心が許さない。
今川家は足利一門において名門とされ、足利将軍家の親族としての家格を有し、室町将軍家から御一家として遇された吉良家の分家にあたる。
吉良家のように足利宗家(※室町将軍家系統)の血脈が断絶した場合の、宗家と征夷大将軍職継承権をもつ特別な家柄ではないものの、代々の駿河守護家である。
それに比べれば尾張の小倅など――、義元はそう思っていた。
しかし、そうは言っていられなくなった。
頼りにしていた太原雪斎は亡くなり、今川軍はここにきて押し戻されつつある。
尾張の小倅と侮っていた、その男によって――。
「お屋形さま、まずは城内にてご休息を」
迎えに出た今川家家臣に促され、義元は軽く頷いて大高城に入った。
◆
「な……」
五月十八日――、清州城。
使番(※伝令・巡視の役目)の報せに、佐久間信盛が絶句する。
今川義元が出陣してくるとは誰もが予想はしていたが、その軍勢の数は予想の範疇を越えていた。
「なにかの間違いではないのか……?」
さすがの柴田勝家も、胡乱な表情である。
「いえ、今川本隊は二万五千とのこと」
「多すぎる……」
「殿――」
恒興は、すかさず上段の間の信長を振り返った。
「向こうはそれだけ必死だということだ」
脇息に片肘をつき、立て膝で盃を傾けていた信長は嘲笑った。
「ですが、鷲津・丸根砦の監視をかい潜り大軍を押し進めてきたとなると――」
「恒興――、俺は奴らの挑発に乗らん」
にっと笑う信長の狙いは、やはり今川義元であろう。
確かに、大軍で此方側を動揺させる今川の策は見事である。現に清州城広間に居並ぶ重臣たちは、今川本隊の数を聞いて表情を強張らせている。
「恐れながら、我軍はどう見繕っても三千も届きませぬ」
この発言が、信長から笑みを消した。
「だから?」
鋭く睨まれて、口走った家臣は首が飛ぶことを意識したことだろう。
「――っ」
「政次、お前は季忠(※千秋季忠)とともに先に行ってことに備えろ」
呼ばれた佐々成政の兄・佐々政次が進み出て頭を垂れた。
「はっ」
このあと軽く酒宴となったが一向に盛り上がらず、散会となった。
「殿は、なにを考えておられるのか……」
去っていく家臣たちの中から、信長を訝しむ声が漏れる。
織田軍をはるかに凌ぐ軍勢を聞いて余裕の笑みを浮かべる信長に、もはやこれまでと投げやりになっているのではないかというのだ。
――いや、あの方はそんな男ではない。
恒興は彼らの背を見つめながら、そう思った。
信長はこの戦いを、決して諦めてはいない。
諦めていないからこそ、恒興に戦いの後の話をしたのだ。
――勝三郎。この戦いが終わったら俺にはやりたいことがある。
それが何なのかまでは聞いてはいないが、おそらく信長には秘策があるのだろう。たとえそれが無謀といえる策であれ、信長ならやってのけてしまうに違いない。
恒興にとって織田信長とは、子供の時からかわらぬ破天荒で、人を驚かせるのが好きな男であった。そしてそれはいつも、上手いように転ぶ。
ゆえに恒興も、この戦に負けるとは思わないことにした。
総大将が諦めていないのだ。家臣が真っ先に怖じてどうするのだ。
恒興は廊の途中で足を止め、空を仰ぐ。
五月にしては冷たい風が頬を撫で、結んだ後ろ髪をさらう。
決戦のときは間違いなく、目前まで迫りつつある。そんな予感がする、恒興であった。
◆◆◆
翌、五月十九日――。
今川義元は二万五千の軍勢の内、一万を以て鷲津・丸根砦への攻撃を命じた。
このとき、打って出たのが松平元康である。
義元いわく、信長を誘い出すための攻撃ではあったが、元康は果たして信長がやって来るか疑問だった。
まだ竹千代として尾張にいた頃――、信長によって長良川に連れ出された彼は、いきなり川に突き落とされた。
信長としては殺そうとしてではなく巫山戯てやったようだが、当時の竹千代は人質の身である。それでもあまりの仕打ちに憤慨すると、信長は嘲笑ってこういった。
「竹千代、そんなことでいちいち腹を立てていると戦では勝てんぞ?」
「川にいきなり落とされて怒らぬ人などいないっ」
「相手を油断させるのも、戦では常套手段だ。決して挑発に乗らず、じっとそのときを待つ。相手に隙が生まれる瞬間を、な」
そのときの竹千代には、信長の言っている意味がわからなかった。
まもなく目前に、丸根砦が見えてくる。
「全軍、進め!!」
元康は馬上で声を張り、差配を振り下ろした。
◆
寅の刻(※午前四時)――、開戦の報せが清州城に伝わった。
「殿……」
こっそりと寝所から出てきたつもりだったが、正室・帰蝶が信長の太刀を大事そうに抱えて現れた。
さすが帰蝶だなと、信長は思った。
それで思い出した事がある。
「帰蝶、確かお前は鼓が得意だったな?」
「よく覚えておいでに……」
帰蝶は照れくさそうに笑うが、嫁いできて間もない頃に手慰みに鼓を打っていたことがあるとあると話していた。
「一節、頼みたい」
「演目は……」
「幸若舞・敦盛」
信長は腰に挟んであった蝙蝠扇を開き、帰蝶が鼓をうつ。
夫婦二人三脚の幸若舞・敦盛は、厳かに始まった。
人間五十年。
下天のうちをくらぶれば。
夢幻の如くなり。
ひとたび生を受け、
滅せぬもののあるべきか
【敦盛・訳】
人間界の五十年など、下天での時の流れと比べれば夢や幻も同然。
ひとたび生まれて、滅びぬものなどあるはずがない。
これを悟りの境地と考えないのは、情けないことだ。
ちなみに下天とは仏教の六道のうち、一番上の世界である天道の中で一番下の世界である四大王衆天を指しているという。
下天(四大王衆天)の一日は、人間界の五十年に相当するとされているらしい。
幸若舞『敦盛』における「人間五十年」とは、六道において、時の流れの違いを述べているのであって「人間の寿命はたった五十年」と言っているのではないそうだ。
元となった一ノ谷合戦の逸話を聞けば世の儚さを唄ったものと思われがちだが、信長はこの意味を沢彦宗恩から聞いて納得し、それ以来この幸若舞・敦盛を気に入っている。
一差し舞い終えた信長は、甲冑に身を包んだ。
「御武運を……」
太刀を差し出す帰蝶に大きく頷き、信長は清州城を出陣した。
しかしあまりに突然過ぎたのか、恒興たちが慌てたようだ。
かしくてついに、今川義元の決戦のときは来た。
空がようやく白み始めた中、信長を先頭に数騎が野を駆ける。
――待っていろ、今川義元。この尾張はお前には渡さん……!!
三河・知立(※現在の愛知県知立市)に入った今川義元率いる今川軍本隊は、鎌倉街道にて沓掛(※現在の愛知県豊明市沓掛)の地へ進路を定めた。さらに沓掛から阿野(※現在の愛知県常滑市阿野町)、そこから西へ向かい桶狭間を経て大高へと進軍、本隊が大高城に着いたとき、松平元康(※のちの徳川家康)が義元を出迎えた。
「お待ちしておりました」
甲冑に身を包んだ元康は、片膝をつくと頭を下げた。
そんな元康を、義元は塗り輿から見下ろして扇子を開いた。
「ここに来る途中、織田が築いた砦を見たが、陥せそうか? 元康」
「砦に信長公は布陣しておらぬ様子。叩くなら今かと」
「尾張の小倅を誘い出すのだな? よかろう、やってみよ」
「はっ」
「しかし、暑いのう……」
義元は空を見上げ、纏っている鎧直垂の前を寛げては扇子で扇ぐ。
確かに義元は塗り輿に乗っているため、軍の中では高い位置にある。陽に晒されようというものだ。
義元は当然、この戦いは勝つつもりである。
ようやくここまで侵攻したというのに、西三河では織田に傾く者が増え、奪った城も奪い返された。ここで大高と鳴海城まで奪い返されれば、今川家当主としての義元の自尊心が許さない。
今川家は足利一門において名門とされ、足利将軍家の親族としての家格を有し、室町将軍家から御一家として遇された吉良家の分家にあたる。
吉良家のように足利宗家(※室町将軍家系統)の血脈が断絶した場合の、宗家と征夷大将軍職継承権をもつ特別な家柄ではないものの、代々の駿河守護家である。
それに比べれば尾張の小倅など――、義元はそう思っていた。
しかし、そうは言っていられなくなった。
頼りにしていた太原雪斎は亡くなり、今川軍はここにきて押し戻されつつある。
尾張の小倅と侮っていた、その男によって――。
「お屋形さま、まずは城内にてご休息を」
迎えに出た今川家家臣に促され、義元は軽く頷いて大高城に入った。
◆
「な……」
五月十八日――、清州城。
使番(※伝令・巡視の役目)の報せに、佐久間信盛が絶句する。
今川義元が出陣してくるとは誰もが予想はしていたが、その軍勢の数は予想の範疇を越えていた。
「なにかの間違いではないのか……?」
さすがの柴田勝家も、胡乱な表情である。
「いえ、今川本隊は二万五千とのこと」
「多すぎる……」
「殿――」
恒興は、すかさず上段の間の信長を振り返った。
「向こうはそれだけ必死だということだ」
脇息に片肘をつき、立て膝で盃を傾けていた信長は嘲笑った。
「ですが、鷲津・丸根砦の監視をかい潜り大軍を押し進めてきたとなると――」
「恒興――、俺は奴らの挑発に乗らん」
にっと笑う信長の狙いは、やはり今川義元であろう。
確かに、大軍で此方側を動揺させる今川の策は見事である。現に清州城広間に居並ぶ重臣たちは、今川本隊の数を聞いて表情を強張らせている。
「恐れながら、我軍はどう見繕っても三千も届きませぬ」
この発言が、信長から笑みを消した。
「だから?」
鋭く睨まれて、口走った家臣は首が飛ぶことを意識したことだろう。
「――っ」
「政次、お前は季忠(※千秋季忠)とともに先に行ってことに備えろ」
呼ばれた佐々成政の兄・佐々政次が進み出て頭を垂れた。
「はっ」
このあと軽く酒宴となったが一向に盛り上がらず、散会となった。
「殿は、なにを考えておられるのか……」
去っていく家臣たちの中から、信長を訝しむ声が漏れる。
織田軍をはるかに凌ぐ軍勢を聞いて余裕の笑みを浮かべる信長に、もはやこれまでと投げやりになっているのではないかというのだ。
――いや、あの方はそんな男ではない。
恒興は彼らの背を見つめながら、そう思った。
信長はこの戦いを、決して諦めてはいない。
諦めていないからこそ、恒興に戦いの後の話をしたのだ。
――勝三郎。この戦いが終わったら俺にはやりたいことがある。
それが何なのかまでは聞いてはいないが、おそらく信長には秘策があるのだろう。たとえそれが無謀といえる策であれ、信長ならやってのけてしまうに違いない。
恒興にとって織田信長とは、子供の時からかわらぬ破天荒で、人を驚かせるのが好きな男であった。そしてそれはいつも、上手いように転ぶ。
ゆえに恒興も、この戦に負けるとは思わないことにした。
総大将が諦めていないのだ。家臣が真っ先に怖じてどうするのだ。
恒興は廊の途中で足を止め、空を仰ぐ。
五月にしては冷たい風が頬を撫で、結んだ後ろ髪をさらう。
決戦のときは間違いなく、目前まで迫りつつある。そんな予感がする、恒興であった。
◆◆◆
翌、五月十九日――。
今川義元は二万五千の軍勢の内、一万を以て鷲津・丸根砦への攻撃を命じた。
このとき、打って出たのが松平元康である。
義元いわく、信長を誘い出すための攻撃ではあったが、元康は果たして信長がやって来るか疑問だった。
まだ竹千代として尾張にいた頃――、信長によって長良川に連れ出された彼は、いきなり川に突き落とされた。
信長としては殺そうとしてではなく巫山戯てやったようだが、当時の竹千代は人質の身である。それでもあまりの仕打ちに憤慨すると、信長は嘲笑ってこういった。
「竹千代、そんなことでいちいち腹を立てていると戦では勝てんぞ?」
「川にいきなり落とされて怒らぬ人などいないっ」
「相手を油断させるのも、戦では常套手段だ。決して挑発に乗らず、じっとそのときを待つ。相手に隙が生まれる瞬間を、な」
そのときの竹千代には、信長の言っている意味がわからなかった。
まもなく目前に、丸根砦が見えてくる。
「全軍、進め!!」
元康は馬上で声を張り、差配を振り下ろした。
◆
寅の刻(※午前四時)――、開戦の報せが清州城に伝わった。
「殿……」
こっそりと寝所から出てきたつもりだったが、正室・帰蝶が信長の太刀を大事そうに抱えて現れた。
さすが帰蝶だなと、信長は思った。
それで思い出した事がある。
「帰蝶、確かお前は鼓が得意だったな?」
「よく覚えておいでに……」
帰蝶は照れくさそうに笑うが、嫁いできて間もない頃に手慰みに鼓を打っていたことがあるとあると話していた。
「一節、頼みたい」
「演目は……」
「幸若舞・敦盛」
信長は腰に挟んであった蝙蝠扇を開き、帰蝶が鼓をうつ。
夫婦二人三脚の幸若舞・敦盛は、厳かに始まった。
人間五十年。
下天のうちをくらぶれば。
夢幻の如くなり。
ひとたび生を受け、
滅せぬもののあるべきか
【敦盛・訳】
人間界の五十年など、下天での時の流れと比べれば夢や幻も同然。
ひとたび生まれて、滅びぬものなどあるはずがない。
これを悟りの境地と考えないのは、情けないことだ。
ちなみに下天とは仏教の六道のうち、一番上の世界である天道の中で一番下の世界である四大王衆天を指しているという。
下天(四大王衆天)の一日は、人間界の五十年に相当するとされているらしい。
幸若舞『敦盛』における「人間五十年」とは、六道において、時の流れの違いを述べているのであって「人間の寿命はたった五十年」と言っているのではないそうだ。
元となった一ノ谷合戦の逸話を聞けば世の儚さを唄ったものと思われがちだが、信長はこの意味を沢彦宗恩から聞いて納得し、それ以来この幸若舞・敦盛を気に入っている。
一差し舞い終えた信長は、甲冑に身を包んだ。
「御武運を……」
太刀を差し出す帰蝶に大きく頷き、信長は清州城を出陣した。
しかしあまりに突然過ぎたのか、恒興たちが慌てたようだ。
かしくてついに、今川義元の決戦のときは来た。
空がようやく白み始めた中、信長を先頭に数騎が野を駆ける。
――待っていろ、今川義元。この尾張はお前には渡さん……!!
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