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第四章 尾張の覇者
第五話 愛と憎しみは紙一重
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天文十三年――、末森城。
かの少年は書院の文机に向かい、筆を走らせていた。
そんな彼の側には母・土田御前と、宿老(※古参の臣)・柴田勝家が座っていた。
「いやぁ、さすがは勘十郎さまじゃ。字が堂々とされておられる」
書き上げた字を覗き込んだ勝家が、豪快に称賛した。
「勝家どの、あまりこの子を煽てないでください」
柳眉を下げる土田御前に、勝家はさらに勘十郎を持ち上げる。
「いやいやお方さま、勘十郎さまのお歳でこれだけの字を書かれるとは、殿に次ぐ立派な武将となられましょうぞ」
勝家の言葉に、土田御前はまんざらでもないようだ。
だが勘十郎としては、複雑である。
書いた文字は、自分が見ても上手いとは言えない。
とても父に並ぶなど――。
その父・織田信秀が現在どういう状況か、まだ十一歳の勘十郎にもわかる。
北には美濃国(※現在の岐阜県南部)の斎藤道三、三河国(※現在の愛知県東部)にはの松平清康、さらに駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の今川義元は、虎視眈々と勢力拡大を狙っているという。
しかも三河の松平清康が享禄二年に、尾張へ侵攻してきたという。
父・信秀は支城(※中核となる城を守るように造られた出城や砦、陣屋)の岩崎城(※現在の愛知県日進市にあった城)と品野城(※現在の愛知県瀬戸市にあった城)を奪われたらしい。
その松平清康は亡くなったそうだが、三河は今川と手を結んでいたようで、尾張侵攻は今川の狙いにもなったようだ。
勘十郎には、逢いたい人間がいる。
那古野城にいる兄、信長である。
勘十郎としては逢いに行きたかったが、母・土田御前は許しはしないだろう。
聞けば兄・信長は、うつけなのだという。
家臣の言うこと聞かない、城は抜け出す、奇抜な容姿を好むなど、元服しても治らないという。そのせいかこの末森城でも、信長の評価はよくはない。
「信長さまがあのようでは、殿も世継ぎの件、考えざるを得まい」
廊まで聞こえてくる家臣の声に、勘十郎は足を止めた。
このときは厠から部屋へ戻ろうしていただけだったが、兄の名を聞いて足が止まってしまった。
「廃嫡されると?」
「あの信長さまに、家臣が従うと思うか? 殿が大きくされた弾正忠家が、信長さまでは潰しかねん。もし廃嫡となれば、次期当主となられるのは勘十郎さまじゃ」
以来――、勘十郎の周りには彼を次期当主と推す家臣が集まるようになった。
柴田勝家が大袈裟と思える称賛をしてきたのも、おそらく勘十郎を次期当主とみてのことだろう。
だが勘十郎は那古野城の信長を差し置いて、弾正忠家当主となるつもりはなかった。
彼には兄が信長の他に信友がいるが、信友が長子で信長は二番目の兄である。
しかし正室の産んだ子が世継ぎとなる道理から、信長が嫡子となったようだ。
その信長に問題があるなら、同腹の勘十郎が嫡子となるのは不思議ではない。
それでも勘十郎は、信長を慕っていた。
お陰で母の期待が勘十郎に注がれ、勘十郎の想いは心の底にしまわれることになる。
母や家臣の期待に逆らうことはできず、自由に外を駆ける信長が羨ましかった。
やがて勘十郎は元服し、織田勘十郎信行となる。
ただ――、父・信秀の心は一緒に暮らす勘十郎にはわからなかった。
信長を廃嫡することもなく、といって信長を責めるわけでなく、信長のことを耳に入れてくる家臣に対して信長のことを「馬鹿息子」といい、次第に二つに割れる家臣たちにも、信秀は口を挟むことはなかった。
いずれ兄上は立ち直る――、信行はそう信じていた。
父・信秀の葬儀のときまでは――。
信長は、抹香を信秀の位牌に投げつけた。
「尾張のことは気にするな。だから安心して成仏しろ。クソ親父」
そう言って立ち去る信長に、信行の心は自分が父の跡を継がねばという思いに傾いた。
家督を巡る争いは、家臣同士が戦うという事態までになった。
「兄上、どうかされたのですか?」
「え……」
勘十郎が顔をあげると、妹・市(※のちの、お市の方)が首を傾げていた。
「さっきから、外ばかりみております」
「そうだったか……?」
「私の相手などお嫌でございますか?」
むくれる妹に、信行は苦笑する。
市は信長と信行と同じ、土田御前の子である。
「そんなことはないさ。ただ……」
「ただ?」
「お前は、清須にいる兄上は好きか? 市」
市は不思議そうな顔である。そして迷いなく「是」と答えた。
「そうか……」
信行も、兄・信長が好きだった。
なのに心の中は、憤りに満ちている。
信長の「うつけ」は、芝居だった。
それはいい。
ただ、その真実を知るのが遅すぎた。
「は……、はは……」
自室に戻った信行は、自身を嘲笑った。
先の戦の大敗で、末森家臣団は兄・信長に傾いた。
ならば、自分はなんだったのだ。
決着をつけねばならない――、信行はそう思った。
◆◆◆
弘治三年、夏――、信長は二十三歳になっていた。
以前のような奇抜な出で立ちではなくなったが、髪は月代を剃らず緋色の組み紐で纏めている。
本来ならば兜着用時に頭が蒸れるのを防ぐために剃るのだが、総髪を通す彼に習い、家臣たちも総髪が多い。
この年、信長に嫡男・奇妙丸(※のちの織田信忠)が誕生している。
正室・帰蝶との間に生まれてはいなかったが、帰蝶は我が子として育てると信長に言ったらしい。
正室の子となれば、奇妙丸は嫡子となる。
「蝮の娘は、健在だな」
苦笑する信長に、恒興も笑みを返す。
「お方さまは、強い方にございます」
「奇妙丸には、俺と信行のようなことにはなってほしくないな……」
早くも父親としての想いに目覚めたか、信長は感慨深げだ。
「あれから信行さまは……?」
「勝家の話では、弾正忠の名をもう名乗っていないそうだ」
織田弾正忠家当主の座を巡る争いは、ついに清須と末森との戦(※稲生の戦い)にまでなった。
信長に対し挙兵した実弟・信行だが、この戦いのあとは許されて現在も末森城主である。ただ、弟の争いを望んでいなかった信長には衝撃は強かったようだ。
さらにこの年――、信長は今川義元との和睦を受け入れた。
実際には尾張守護・斯波義銀と、今川義元の本家筋・三河西条吉良義昭による和睦という体裁がとられたそうだが、名目的には尾張国主と三河国主によるものとされたようだ。
信長にとって今川義元は宿敵だったが、尾張国内の混乱を鎮めたい思いからの決断なのだろう。
「いずれ信行さまとは、かつてのように仲の良い関係となられましょう」
「だといいが……」
「なにか、気がかりなことでも?」
聞けば以前、沢彦宗恩に言われたのだという。
人の心は変わるものだ――と。
沢彦宗恩は今は亡き信長の傅役・平手政秀が、信長の教育係として招いた臨済宗妙心寺派の僧である。
「愛と憎しみは紙一重――ということわざがございます。信長さまに寄せていた思いが、憎しみに変わるのにさして時はかかりすまい」
はっきりとものをいう御仁だと、恒興は思った。
信行がはたして信長を憎んでいるのか定かではないが、兄弟間が修復されることを願っている恒興の想いに偽りはない。
だが恒興がみたとろ、信長は変わらない。
この年の正月は、またも人を驚かせることを信長はやった。
きっかけは福徳村に住む又左衛門という百姓が大野木村の知りあいを訪ねた際に、あまが池近くを通ったとき、にわかに土砂降りとなり、目の前に十メートルもあろうかという大蛇が現れたという。
この噂を聞いた信長が腰をあげた。
自ら、退治してやろうというのだ。
村人を総動員させて池の水を掻き出させたが、水はなかなか減らない。七割くらいになったところで待てなくなった信長は、恒興が止める間もなく褌一丁になると、脇差しを口に咥えて池の中に飛び込んでしまった。
結局大蛇は見つからなかったが、真冬の冷たいの水に飛び込む大胆さは恒興の知る信長だった。
ゆえに、願う。
どうかこれ以上、信長を誰も裏切らないで欲しい――と。
かの少年は書院の文机に向かい、筆を走らせていた。
そんな彼の側には母・土田御前と、宿老(※古参の臣)・柴田勝家が座っていた。
「いやぁ、さすがは勘十郎さまじゃ。字が堂々とされておられる」
書き上げた字を覗き込んだ勝家が、豪快に称賛した。
「勝家どの、あまりこの子を煽てないでください」
柳眉を下げる土田御前に、勝家はさらに勘十郎を持ち上げる。
「いやいやお方さま、勘十郎さまのお歳でこれだけの字を書かれるとは、殿に次ぐ立派な武将となられましょうぞ」
勝家の言葉に、土田御前はまんざらでもないようだ。
だが勘十郎としては、複雑である。
書いた文字は、自分が見ても上手いとは言えない。
とても父に並ぶなど――。
その父・織田信秀が現在どういう状況か、まだ十一歳の勘十郎にもわかる。
北には美濃国(※現在の岐阜県南部)の斎藤道三、三河国(※現在の愛知県東部)にはの松平清康、さらに駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の今川義元は、虎視眈々と勢力拡大を狙っているという。
しかも三河の松平清康が享禄二年に、尾張へ侵攻してきたという。
父・信秀は支城(※中核となる城を守るように造られた出城や砦、陣屋)の岩崎城(※現在の愛知県日進市にあった城)と品野城(※現在の愛知県瀬戸市にあった城)を奪われたらしい。
その松平清康は亡くなったそうだが、三河は今川と手を結んでいたようで、尾張侵攻は今川の狙いにもなったようだ。
勘十郎には、逢いたい人間がいる。
那古野城にいる兄、信長である。
勘十郎としては逢いに行きたかったが、母・土田御前は許しはしないだろう。
聞けば兄・信長は、うつけなのだという。
家臣の言うこと聞かない、城は抜け出す、奇抜な容姿を好むなど、元服しても治らないという。そのせいかこの末森城でも、信長の評価はよくはない。
「信長さまがあのようでは、殿も世継ぎの件、考えざるを得まい」
廊まで聞こえてくる家臣の声に、勘十郎は足を止めた。
このときは厠から部屋へ戻ろうしていただけだったが、兄の名を聞いて足が止まってしまった。
「廃嫡されると?」
「あの信長さまに、家臣が従うと思うか? 殿が大きくされた弾正忠家が、信長さまでは潰しかねん。もし廃嫡となれば、次期当主となられるのは勘十郎さまじゃ」
以来――、勘十郎の周りには彼を次期当主と推す家臣が集まるようになった。
柴田勝家が大袈裟と思える称賛をしてきたのも、おそらく勘十郎を次期当主とみてのことだろう。
だが勘十郎は那古野城の信長を差し置いて、弾正忠家当主となるつもりはなかった。
彼には兄が信長の他に信友がいるが、信友が長子で信長は二番目の兄である。
しかし正室の産んだ子が世継ぎとなる道理から、信長が嫡子となったようだ。
その信長に問題があるなら、同腹の勘十郎が嫡子となるのは不思議ではない。
それでも勘十郎は、信長を慕っていた。
お陰で母の期待が勘十郎に注がれ、勘十郎の想いは心の底にしまわれることになる。
母や家臣の期待に逆らうことはできず、自由に外を駆ける信長が羨ましかった。
やがて勘十郎は元服し、織田勘十郎信行となる。
ただ――、父・信秀の心は一緒に暮らす勘十郎にはわからなかった。
信長を廃嫡することもなく、といって信長を責めるわけでなく、信長のことを耳に入れてくる家臣に対して信長のことを「馬鹿息子」といい、次第に二つに割れる家臣たちにも、信秀は口を挟むことはなかった。
いずれ兄上は立ち直る――、信行はそう信じていた。
父・信秀の葬儀のときまでは――。
信長は、抹香を信秀の位牌に投げつけた。
「尾張のことは気にするな。だから安心して成仏しろ。クソ親父」
そう言って立ち去る信長に、信行の心は自分が父の跡を継がねばという思いに傾いた。
家督を巡る争いは、家臣同士が戦うという事態までになった。
「兄上、どうかされたのですか?」
「え……」
勘十郎が顔をあげると、妹・市(※のちの、お市の方)が首を傾げていた。
「さっきから、外ばかりみております」
「そうだったか……?」
「私の相手などお嫌でございますか?」
むくれる妹に、信行は苦笑する。
市は信長と信行と同じ、土田御前の子である。
「そんなことはないさ。ただ……」
「ただ?」
「お前は、清須にいる兄上は好きか? 市」
市は不思議そうな顔である。そして迷いなく「是」と答えた。
「そうか……」
信行も、兄・信長が好きだった。
なのに心の中は、憤りに満ちている。
信長の「うつけ」は、芝居だった。
それはいい。
ただ、その真実を知るのが遅すぎた。
「は……、はは……」
自室に戻った信行は、自身を嘲笑った。
先の戦の大敗で、末森家臣団は兄・信長に傾いた。
ならば、自分はなんだったのだ。
決着をつけねばならない――、信行はそう思った。
◆◆◆
弘治三年、夏――、信長は二十三歳になっていた。
以前のような奇抜な出で立ちではなくなったが、髪は月代を剃らず緋色の組み紐で纏めている。
本来ならば兜着用時に頭が蒸れるのを防ぐために剃るのだが、総髪を通す彼に習い、家臣たちも総髪が多い。
この年、信長に嫡男・奇妙丸(※のちの織田信忠)が誕生している。
正室・帰蝶との間に生まれてはいなかったが、帰蝶は我が子として育てると信長に言ったらしい。
正室の子となれば、奇妙丸は嫡子となる。
「蝮の娘は、健在だな」
苦笑する信長に、恒興も笑みを返す。
「お方さまは、強い方にございます」
「奇妙丸には、俺と信行のようなことにはなってほしくないな……」
早くも父親としての想いに目覚めたか、信長は感慨深げだ。
「あれから信行さまは……?」
「勝家の話では、弾正忠の名をもう名乗っていないそうだ」
織田弾正忠家当主の座を巡る争いは、ついに清須と末森との戦(※稲生の戦い)にまでなった。
信長に対し挙兵した実弟・信行だが、この戦いのあとは許されて現在も末森城主である。ただ、弟の争いを望んでいなかった信長には衝撃は強かったようだ。
さらにこの年――、信長は今川義元との和睦を受け入れた。
実際には尾張守護・斯波義銀と、今川義元の本家筋・三河西条吉良義昭による和睦という体裁がとられたそうだが、名目的には尾張国主と三河国主によるものとされたようだ。
信長にとって今川義元は宿敵だったが、尾張国内の混乱を鎮めたい思いからの決断なのだろう。
「いずれ信行さまとは、かつてのように仲の良い関係となられましょう」
「だといいが……」
「なにか、気がかりなことでも?」
聞けば以前、沢彦宗恩に言われたのだという。
人の心は変わるものだ――と。
沢彦宗恩は今は亡き信長の傅役・平手政秀が、信長の教育係として招いた臨済宗妙心寺派の僧である。
「愛と憎しみは紙一重――ということわざがございます。信長さまに寄せていた思いが、憎しみに変わるのにさして時はかかりすまい」
はっきりとものをいう御仁だと、恒興は思った。
信行がはたして信長を憎んでいるのか定かではないが、兄弟間が修復されることを願っている恒興の想いに偽りはない。
だが恒興がみたとろ、信長は変わらない。
この年の正月は、またも人を驚かせることを信長はやった。
きっかけは福徳村に住む又左衛門という百姓が大野木村の知りあいを訪ねた際に、あまが池近くを通ったとき、にわかに土砂降りとなり、目の前に十メートルもあろうかという大蛇が現れたという。
この噂を聞いた信長が腰をあげた。
自ら、退治してやろうというのだ。
村人を総動員させて池の水を掻き出させたが、水はなかなか減らない。七割くらいになったところで待てなくなった信長は、恒興が止める間もなく褌一丁になると、脇差しを口に咥えて池の中に飛び込んでしまった。
結局大蛇は見つからなかったが、真冬の冷たいの水に飛び込む大胆さは恒興の知る信長だった。
ゆえに、願う。
どうかこれ以上、信長を誰も裏切らないで欲しい――と。
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