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第四章 尾張の覇者
第三話 池田恒興、激怒す!
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夏霞(※大気に水分が多いときに良く見られる霞)のたなびいた空が、頭上に広がっていた。昨夜は突然雨が降り出し、葉についた置き土産の水滴がキラリと光っている。
まだ八月だというのに、もう秋風らしいものが周囲の木の葉を揺すぶり、樹木で鳴いているのも寒蝉(※ツクツクボウシ)で、夏の終わりが近いことを教えているかのようだ。
信長は馬を止めて、尾張を一望する丘にいた。
雄大な濃尾平野に、尾張三山、四季折々に変化するこの自然の中で、人々は反目し合う。
だがもうそれは、終わらせなければならない。
「本当に――、良かったのでしょうか……?」
共にやってきた異母弟・信時が、気遣わしげに問うて来る。
「良くは……、ないだろうな。今頃、清州城では騒ぎになっているだろう」
当然だ。誰にも告げず、城を抜け出したのだから。
清州城に移ってまもなく、信長は抜け穴を発見した。
主郭のある部屋に入った時、床板が微妙にずれていたのだ。
清州城の前の主は、今は亡き尾張下四郡守護代・織田信友である。彼の家臣だった酒井大膳は、そんな主を見捨てて逃亡したという。
誰もその姿を見ていないというゆえ、おそらく床板をずらしたのは彼だろう。
抜け穴を用意したのは信友か、それとも酒井大膳か定かではないが。
その抜け穴を発見したとき恒興も一緒で、疑わしい目を信長に寄越してきた。
まさか、使うつもりはないだろうなと言いたいようだ。
このとき信長は、そんな気はなかった。
抜け穴を使うようなことは起きないと、笑って答えた。
――勝三郎の奴、怒っているだろうな。
信行と同じ二歳下の恒興とは、子供のときから一緒だった。
真面目過ぎるのが玉に瑕だが、信長にとって心を許せる相手である。
その恒興にも告げす、信長は清州城を抜け出した。
信時は巻き添えを食らった形になったが、さすがに信長一人で行かせられないとついてきた。
抜け穴は、清州城から少し離れた枯れ井戸に通じていた。
これから向かう場所は、十年以上も過ごした那古野城。
おそらくそこには、信長を見限ったという林秀貞がいるだろう。信長は彼らを責めるつもりはないが、突然の信長の来訪をどう思うだろうか。
信長は、弾正忠家後継者を信行にしたいのであれば、そうすればいいと思っている。
そもそも亡き父・信秀は、はっきりと後継者はお前だと信長に告げてはいない。
信行は温厚で、優しい男である。彼なら、二つに割れる織田家家臣を纏められるだろう。
ただ、信行は戦は不慣れだ。
尾張を、今川などから守れるだろうか。いや、戦わずして和睦に至るかも知れぬ。
信長が聞いた話では、今川と手を組んだほうがいいという家臣がいるという。
信長は、尾張が第二の三河となりそうで不安だった。
三河は、今川の傘下にある。
三河・松平家は今川の下につき、現在も今川勢として織田と敵対している。
今川と手を組むなど、信長には絶対ありえないことなのだ。
「――と、殿……!?」
那古野城についた時、林秀貞は蒼白だった。
「久しぶりだな? 秀貞」
「いったい如何されたのでございますか?」
やはり秀貞は、突然やってきた信長に困惑していた。
「俺が来たらいけなかったか?」
「いえ、そのようなことは……」
林秀貞は、明らかに動揺していた。視線が何度か外され、しきりに奥を気にしている。
おそらく、弟の通具でも隠れているのだろう。
「遠乗りの途中で立ち寄っただけだ」
「家臣をお連れにならず――、でございますか?」
信長の意図を探ろうしている秀貞に、信長は笑って答えた。
「そんなこと、昔もあったじゃないか。よくお前に睨まれたが」
「殿はもう、あの頃とは違いまする」
「いや、俺は今でもうつけさ。だがな、秀貞。俺にはこれからやることがある。ゆえに――」
信長は視線を、秀貞の背後に向けた。
秀貞の弟、通具が隠れているその場所に。
「この首をやるわけにはいかないんだ」
その言葉に、秀貞が瞠目する。
信長は二人が命を狙ってくるとまでは思っていなかったが、秀貞の反応から何かしらの策謀があったようだ。
しかし二人が信長を狙ってくることはなく、信長は那古野城をあとにした。
もうこの那古野城に、戻ってくることはないだろう。
懐かしい少年時代に別れを告げて、信長は清州城へ駒を進めた。
「信長さまっ!!」
そう呼ぶ声に、寒蝉が鳴くのを止める。
「勝三郎……?」
そこには、恒興がいた。
◆◆◆
池田勝三郎恒興の母・養徳院が、吉法師の乳母となったのは天文五年のことだったらしい。織田信秀の嫡男・吉法師(※後の織田信長)は当時三歳であったが、乳母の乳首を噛み破る癖があって困らせていたらしい。しかし彼女が乳母となってからは、これが直ったと云う。
恒興が末森城に召されたのは、天文十四年のことであった。
まだ十歳の子供だった恒興はわけがわからぬまま連れてこられ、できることなら逃げ出したい心境だった。
「――これ勝三郎! 殿の御前ぞ」
「構わぬ、政秀。相手はまだ子供じゃ。それにコレの相手に歳も丁度よい」
信秀にコレ扱いされたその人物は、信秀が座る上段の間の下に座り、なにが面白いのかにっと笑っていた。おそらく恒興と、さほど歳は変わらないだろう。
ただ奇妙な出で立ちはしていたが。
「吉法師さまのお相手が務まりまするかどうか――」
平手政秀の話半分で、その少年が立ち上がった。
「父上、お話が終わったようなのでこれで失礼致しまする。来い! 勝三郎」
「え……」
突然腕を掴まれ、恒興はその場から拐われた。
「吉法師さまっ! 本題はこれからにございます!!」
「お前の話は、いつも長過ぎるんだ。爺」
それが――恒興と、信長の最初の出会いであった。
恒興は、幾度となく信長に振り回された。
恒興が泳げないと知ると、川に突き落とされたこともある。
それでも恒興は、信長に対して抗議はしても怒りをぶつけることはしなかった。
「貴方はどうして、こうも勝手なんですか!?」
恒興は、怒っていた。
本気で、信長に怒っていた。
「さすがに、愛想をつかしたか? 勝三郎」
「それができるくらいなら、とっくにしています! ですが、今回は最悪です!!」
恒興にとって信長は乳兄弟だが、主君なのである。
たとえなにがあろうと、側にいようと決めた主なのだ。
それなのに――。
「私は、信長さまの家臣として頼りになりませんか!? 信じられませんか!?」
清州城から信長が消えて、恒興の心は張り裂けそうだっだ。
子供の頃、恒興は信長に言った。
――勝三郎は吉法師さまの家臣でございます。主君を守り、いざとなれば盾となるのが家臣の務め。
それは、今でも変わることはない。
なのに信長は、そんな恒興を欺いて城を抜け出した。
それが悔しくてならない。
この世は家臣だろうと主に刃を向ける下剋上、那古野城の林兄弟が刀を抜かないとは限らない。そんな敵陣にも等しい中に、信長は向かっていった。
それでは誰が、信長を守る? 誰が盾となる?
信長は無事に帰ってきたが、死んでいた可能性もあったのだ。
「勝三郎……」
「貴方はこの尾張を平定すると言われた。それが夢だと。だったら、なにゆえ身を危険に晒すようなことをされるんです!? なにかあれば、その夢は叶わないのに!」
「初めだな。お前が怒ったのは」
「私を怒らせるのは、これを最後にしてください!」
怒るだけ怒ると、自然に涙が溢れた。
張り詰めていた心が解け、主君の無事な姿を前に視界が涙で霞む。
「悪かったな……。勝三郎」
信長の無謀は、おそらく治りはしないだろう。
それでも恒興は、彼に背を向けることはしない。
なぜなら、そう決めたのだから――。
まだ八月だというのに、もう秋風らしいものが周囲の木の葉を揺すぶり、樹木で鳴いているのも寒蝉(※ツクツクボウシ)で、夏の終わりが近いことを教えているかのようだ。
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雄大な濃尾平野に、尾張三山、四季折々に変化するこの自然の中で、人々は反目し合う。
だがもうそれは、終わらせなければならない。
「本当に――、良かったのでしょうか……?」
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「良くは……、ないだろうな。今頃、清州城では騒ぎになっているだろう」
当然だ。誰にも告げず、城を抜け出したのだから。
清州城に移ってまもなく、信長は抜け穴を発見した。
主郭のある部屋に入った時、床板が微妙にずれていたのだ。
清州城の前の主は、今は亡き尾張下四郡守護代・織田信友である。彼の家臣だった酒井大膳は、そんな主を見捨てて逃亡したという。
誰もその姿を見ていないというゆえ、おそらく床板をずらしたのは彼だろう。
抜け穴を用意したのは信友か、それとも酒井大膳か定かではないが。
その抜け穴を発見したとき恒興も一緒で、疑わしい目を信長に寄越してきた。
まさか、使うつもりはないだろうなと言いたいようだ。
このとき信長は、そんな気はなかった。
抜け穴を使うようなことは起きないと、笑って答えた。
――勝三郎の奴、怒っているだろうな。
信行と同じ二歳下の恒興とは、子供のときから一緒だった。
真面目過ぎるのが玉に瑕だが、信長にとって心を許せる相手である。
その恒興にも告げす、信長は清州城を抜け出した。
信時は巻き添えを食らった形になったが、さすがに信長一人で行かせられないとついてきた。
抜け穴は、清州城から少し離れた枯れ井戸に通じていた。
これから向かう場所は、十年以上も過ごした那古野城。
おそらくそこには、信長を見限ったという林秀貞がいるだろう。信長は彼らを責めるつもりはないが、突然の信長の来訪をどう思うだろうか。
信長は、弾正忠家後継者を信行にしたいのであれば、そうすればいいと思っている。
そもそも亡き父・信秀は、はっきりと後継者はお前だと信長に告げてはいない。
信行は温厚で、優しい男である。彼なら、二つに割れる織田家家臣を纏められるだろう。
ただ、信行は戦は不慣れだ。
尾張を、今川などから守れるだろうか。いや、戦わずして和睦に至るかも知れぬ。
信長が聞いた話では、今川と手を組んだほうがいいという家臣がいるという。
信長は、尾張が第二の三河となりそうで不安だった。
三河は、今川の傘下にある。
三河・松平家は今川の下につき、現在も今川勢として織田と敵対している。
今川と手を組むなど、信長には絶対ありえないことなのだ。
「――と、殿……!?」
那古野城についた時、林秀貞は蒼白だった。
「久しぶりだな? 秀貞」
「いったい如何されたのでございますか?」
やはり秀貞は、突然やってきた信長に困惑していた。
「俺が来たらいけなかったか?」
「いえ、そのようなことは……」
林秀貞は、明らかに動揺していた。視線が何度か外され、しきりに奥を気にしている。
おそらく、弟の通具でも隠れているのだろう。
「遠乗りの途中で立ち寄っただけだ」
「家臣をお連れにならず――、でございますか?」
信長の意図を探ろうしている秀貞に、信長は笑って答えた。
「そんなこと、昔もあったじゃないか。よくお前に睨まれたが」
「殿はもう、あの頃とは違いまする」
「いや、俺は今でもうつけさ。だがな、秀貞。俺にはこれからやることがある。ゆえに――」
信長は視線を、秀貞の背後に向けた。
秀貞の弟、通具が隠れているその場所に。
「この首をやるわけにはいかないんだ」
その言葉に、秀貞が瞠目する。
信長は二人が命を狙ってくるとまでは思っていなかったが、秀貞の反応から何かしらの策謀があったようだ。
しかし二人が信長を狙ってくることはなく、信長は那古野城をあとにした。
もうこの那古野城に、戻ってくることはないだろう。
懐かしい少年時代に別れを告げて、信長は清州城へ駒を進めた。
「信長さまっ!!」
そう呼ぶ声に、寒蝉が鳴くのを止める。
「勝三郎……?」
そこには、恒興がいた。
◆◆◆
池田勝三郎恒興の母・養徳院が、吉法師の乳母となったのは天文五年のことだったらしい。織田信秀の嫡男・吉法師(※後の織田信長)は当時三歳であったが、乳母の乳首を噛み破る癖があって困らせていたらしい。しかし彼女が乳母となってからは、これが直ったと云う。
恒興が末森城に召されたのは、天文十四年のことであった。
まだ十歳の子供だった恒興はわけがわからぬまま連れてこられ、できることなら逃げ出したい心境だった。
「――これ勝三郎! 殿の御前ぞ」
「構わぬ、政秀。相手はまだ子供じゃ。それにコレの相手に歳も丁度よい」
信秀にコレ扱いされたその人物は、信秀が座る上段の間の下に座り、なにが面白いのかにっと笑っていた。おそらく恒興と、さほど歳は変わらないだろう。
ただ奇妙な出で立ちはしていたが。
「吉法師さまのお相手が務まりまするかどうか――」
平手政秀の話半分で、その少年が立ち上がった。
「父上、お話が終わったようなのでこれで失礼致しまする。来い! 勝三郎」
「え……」
突然腕を掴まれ、恒興はその場から拐われた。
「吉法師さまっ! 本題はこれからにございます!!」
「お前の話は、いつも長過ぎるんだ。爺」
それが――恒興と、信長の最初の出会いであった。
恒興は、幾度となく信長に振り回された。
恒興が泳げないと知ると、川に突き落とされたこともある。
それでも恒興は、信長に対して抗議はしても怒りをぶつけることはしなかった。
「貴方はどうして、こうも勝手なんですか!?」
恒興は、怒っていた。
本気で、信長に怒っていた。
「さすがに、愛想をつかしたか? 勝三郎」
「それができるくらいなら、とっくにしています! ですが、今回は最悪です!!」
恒興にとって信長は乳兄弟だが、主君なのである。
たとえなにがあろうと、側にいようと決めた主なのだ。
それなのに――。
「私は、信長さまの家臣として頼りになりませんか!? 信じられませんか!?」
清州城から信長が消えて、恒興の心は張り裂けそうだっだ。
子供の頃、恒興は信長に言った。
――勝三郎は吉法師さまの家臣でございます。主君を守り、いざとなれば盾となるのが家臣の務め。
それは、今でも変わることはない。
なのに信長は、そんな恒興を欺いて城を抜け出した。
それが悔しくてならない。
この世は家臣だろうと主に刃を向ける下剋上、那古野城の林兄弟が刀を抜かないとは限らない。そんな敵陣にも等しい中に、信長は向かっていった。
それでは誰が、信長を守る? 誰が盾となる?
信長は無事に帰ってきたが、死んでいた可能性もあったのだ。
「勝三郎……」
「貴方はこの尾張を平定すると言われた。それが夢だと。だったら、なにゆえ身を危険に晒すようなことをされるんです!? なにかあれば、その夢は叶わないのに!」
「初めだな。お前が怒ったのは」
「私を怒らせるのは、これを最後にしてください!」
怒るだけ怒ると、自然に涙が溢れた。
張り詰めていた心が解け、主君の無事な姿を前に視界が涙で霞む。
「悪かったな……。勝三郎」
信長の無謀は、おそらく治りはしないだろう。
それでも恒興は、彼に背を向けることはしない。
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